本日は大江磐代君についてご紹介致します
まずは、こちら
大江磐代君没後200年にあたる平成24年(2012)に地元倉吉博物館で開催された
特別展『大江磐代君顕彰展』より
天皇系図
「大江磐代君顕彰展」図録より
はじめに、
大江磐代君について
延享元年(1744)現在の倉吉市湊町の生まれ。
倉吉荒尾家家臣を辞し、医師となった父の岩室宗賢に連れられて9才の時京都へ転居。
幼時より怜悧(頭がよく)、聡明(理解や判断が速い)であったが天凛(生まれつき)の玉質(宝玉のようになめらかで美しい肌)に加えて、研鑽修養の努力を重ね、高い婦徳(心立てがよい)の備わった女性となる。
宮中最上位の女官であった即心院に仕えた。
即心院の死後、即心院と親しかった皇女成子(ふさこ)内親王に仕え、内親王が閑院宮典仁(かんいんのみやすけひと)親王に嫁いだ時、その侍女として閑院宮家に入る。
その後、明和7年(1770)典仁親王付きの女房となり、明和8年(1771)に祐宮(さちのみや・後の光格天皇)を出産。その他に4人の皇子に恵まれるが第三、四、五子は夭逝。
安政8年(1779)祐宮の皇位継承が決まると閑院宮家の由緒書は、母は「故 成子内親王」と定められ、実母である磐代君の存在は歴史から消えた。
祐宮が新天皇となった後も磐代君は閑院宮家のひとりの女中として暮らした。
典仁親王の死後(1794)は剃髪して蓮上院と名乗り、同親王の菩提を弔う生活に入った。
文化9年(1812)磐代君の次男で聖護院門跡となった盈仁(えいにん)法親王が準備した同院門前の屋敷へ8月に移り同年12月9日に68歳の生涯を終えた。
とされています。
磐代君の京での暮らしぶりや人となりを知る手がかりとなるのが、わずかに残された書状になります
磐代君の実母りんや、父方の叔母、いとこなどの親族らに宛てた書状17通が現存しており、その内実母に宛てたものが6通あります
磐代君は9才の時に父に連れられ都へ上がり、その後再び故郷へ帰ることも、母親と会うこともありませんでした。
母親は倉吉でひとり静かに暮らした様子です。
書状では、母親には必ず父親と自分の無事を伝え、常に母親の暮らしを気遣っていました。
また、母親には金子やさらしなどの金品を贈っていました。しかし、確実に届かないこともあったようで、書状の中には贈り物を受け取ったか尋ねる文面もみられます。
磐代君は自分の身辺のことは「畏れ多いこと」として母親にも親族にも語りませんでした。
さすがに、我が子が皇統を継ぐことになったことは母親に告げようとしたのか「細々と話したいことがあるが、人目があるので差し控える」と心情を吐露しながらも、明かすことはありませんでした。
父・宗賢が、閑院宮典仁親王と磐代君の間に子供が誕生したことを父の妹の娘(磐代君のいとこ)に書状で知らせており、いとこから磐代君へ祝いの書状が届いた際の返信では、
「ありがたいことではありますが、どのような因縁でこのような畏れ多いことになったかと我ながら不思議に思います」
「御上のことを我々のような者が何かを言うのは畏れ多いことで、なかなか手紙に書くこともできません。身を慎み、私はどなたにも話さないようにしています。父上も同様と思うのですが、老人のこと故、嬉しさのあまり、あなた様へふと伝えてしまったのだと思います」と語っています。
ただ、気心知れた間柄であったのか
「何事もよいことばかりではなく、あなた様などは遠くへも自由に出かけることができて、とてもうらやましいです。私などは、結構な暮らしをさせて頂いているものの、外出は一泊とて叶わず、窮屈なものです」といった本音ものぞかせています。
親王の女房となり、5人の皇子を授かりましたが、磐代君が34〜37才の3年間に3人の皇子が相次いで夭逝、その3年後の磐代君40才の時には母りんも亡くなり、磐代君は「なに事もよき事ばかりはなく」と手紙にしたためています。
また、父とは同じ京都に住みながら、自分の身分が高くなりすぎ、会うこともままならず、年に1回かそれも叶わないこともあると書状の中で語っています。
光格天皇について
閑院宮典仁親王の第六皇子として明和8年(1771)誕生。
磐代君にとって第一子。
幼称 祐宮(さちのみや)
1才の時にはすでに聖護院の附弟(法統を受け継ぐ弟子)となることが決められていた。
いずれは出家して聖護院門跡を継ぎ、生涯を送る予定であったが、後桃園天皇が皇位を継ぐべき男子がまだいないうちに急逝。
朝廷は幕府と交渉して祐宮を後桃園天皇の養子として践祚(せんそ・皇嗣が天皇の地位を受け継ぐこと)させることを決定。
9歳にして皇嗣に立てられ、安永9年(1780)に即位礼をあげた。
江戸時代の天皇は、それまで天皇の子が皇位を継承してきたので、宮家から皇位につくのは初めてのことだった。
通常、幼少期から天皇となるべき教育を施されるが、(祐宮は)それを受けていなかったため、特別な苦労があり、努力が必要であった。
天皇の権威を身に付けるには、朝廷の政務における判断の確かさと学問、なかでも和歌に優れていることが重要だったため、光格天皇は皇位につくと後桜町上皇に和歌の指導を受け、更に公家たちを集め私的な歌会を頻繁に開いて和歌の技量を鍛錬した。
17.8才の頃には政務にも慣れ、近臣と相談しながらみずから朝廷政務を処理していたとあります。
天皇の在位39年、さらに上皇となってからも23年にわたり朝廷のトップにあり、儀式や神事を再興して朝廷の権威を復権した天皇。
→平成天皇の譲位の際に過去の事例として光格天皇のお名前が紹介されました。
(この写真は桑田醤油醸造場店内にて撮影)
前回にひきつづきご登場
桑田醤油醸造場
桑田東之夫社長
桑田社長にお話を伺った際、
・・・光格天皇のご生母である大江磐代君のこと、打吹公園や飛龍閣の建設、大正天皇の行啓のことをどれだけの倉吉市民が知っているだろう・・・多くの市民は知らないだろうと。
平成23年の平成天皇倉吉市行啓の際の写真を見ながら、ご自身が両陛下に街並みの案内をされた当時の様子も聞かせてくださいました。
行啓での訪問先は陛下のご意向が強く反映されているとのことであり、皇室ゆかりの地である打吹公園の敷地にある倉吉博物館が選ばれているのはやはり意味があるようです。![]()
なるほど。
平成24年(2012)
磐代君没後200年記念祭
倉吉博物館にて特別展
『大江磐代君顕彰展』開催
あたくし、今から10年前に開催されたこの特別展に出かけ、図録やチラシを大切に持っていました。やはりアンテナが反応していたのでしょうね。![]()
![]()
今回ブログを書くにあたり、本棚に仕舞い込んでいたこちらの顕彰展の図録を引っ張り出し、改めて読みました。
磐代君の生い立ちや、実母や親族らに宛てた書簡の詳細、そして息子である光格天皇や盈仁法親王の関わりから感じたこと・・・・・
磐代君はわずか9才で母親と別れ、故郷にも二度と帰ることができなかった。
女房となり、子供を授かった喜びも、そして3人の幼い子供を相次いで亡くした悲しみも、聞いてほしい人に打ち明けることができなかった。
遠く離れて暮らす母親にお金などを贈っても、確実に届かないこともあった。
金銭的には困ることはなくても、外出するも1泊もできない。
自分の身分が高くなりすぎ、同じ都に住む父親にすら年1回会えるかどうか。
光格天皇も1才の時にすでに将来が決められていたが、更に9才で皇位継承することになった。
天皇の立場では容易に外出できず、母と言葉を交わすこともできなかった。
次男の盈仁法親王も、8才で聖護院門跡となることが決められた。また、外出となると行列となるため度々母のもとを訪れることができなかった。
・・・・・・・・・・・・・
翻って現代を生きる私たちは
自分の意思で、選択ができる
行きたいところへ外出できる
会いたい人に会える
喜びも哀しみも自分の思いが、
伝えられる
手紙をポストに投函すれば、あるいは現金を書留で送れば、郵便屋さんが届けてくれる
誰かに贈りたいもの、自分の欲しいものが宅配便で届けてもらえる
・・・・・・・・・・・・・
今、目の前で
享受している
ものは時代が
変われば
何一つ当たり前のことではない
せっかく、この時代を選んで生まれてきたのだから。
恋をして
夢を形にして
太陽意識全開で生きていこう!
今を生きる
有り難さ哉。
そして
おかげさま
お陰さま。
いつも我々を
陰で支えてくれている存在達のはたらきにも
感謝しよう!
今回、大江磐代君について掘り下げ考える中で、様々なメッセージを頂いたように思います。
先人たちから受け継いできた命のバトンの最終ランナーの私たち。
先人たちの人生に思いを致し
今ここ瞬間完全燃焼で![]()
![]()
![]()
やって〜!
やるさ〜!!
鳥取ミラクルヤミーズも熱く燃えてます![]()
本日はここまで。
それではまたね!
ラブリー![]()
![]()
![]()











