2011年3月11日のこと | *ウサハナ*のブログ

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14時46分

 震災当日、私は職場である某百貨店で勤務中でした。
 地震の発生は、従業員が交代でお昼休憩を取っている時間帯でした。私も、スタッフの食事交代のためにフロアに出ていました。
 
 突然、めまいのような大きな揺らぎを感じ、それが地震だとわかるまで少し時間がかかりました。
 関東は震源地に近いことが多いので、地震は大抵、
(とここまで書いて、今、地震がありました…2月26日1時28分、福島で震度4、余震は7年経っても続いています)
最初に『ガタガタ』と強く揺れるのが通常なので、大地が歪むように大きくうねる揺らぎを、直ぐに地震だとは認識出来ませんでした。
 
 最初の揺らぎから少し間をおいて、誰かが
 「地震?」
 と叫ぶと、売場のあちらこちらで悲鳴が上がりました。
 
 あ、地震なんだ
 
 不思議と恐怖心は覚えませんでした。今まで経験したことのない揺れに、危機感も未知のレベルだったせいかもしれません。
 
 長い、長い揺れでした。永久に終わらないのではないかと思うくらい…
 
 やっと揺れがおさまって、最初に考えたのは、家にいる両親の安否でした。とても気になりました。
 でも、当時私は、百貨店から会計業務を受託した会社からの派遣で、当社スタッフの勤怠管理をしていて、先ずはスタッフの安否確認をしに百貨店内を回らなくてはいけませんでした。
 食事に出ていたスタッフが戻ってきたので、レジ係を引き渡して、もう一人の管理者と手分けをして、レジスタッフの様子を見て回りました。幸いスタッフ全員無事で、事務所に戻り、会社に報告したのが15時15分頃、この段階ではまだ電話が通じていました。窓下の駅のホームに溢れる人を見て、交通機関が麻痺しているとわかりましたが、そのうち復旧するだろうと安易に考えていました。
 
 15時45分頃、店舗は営業を一時停止し、従業員には売場での待機命令が下りました。当社のレジスタッフも売場を離れられなくなったので、今後見込まれる閉店に備えて売上金の精算をして待つように、再び百貨店内を伝言して回り、やっと家に連絡できる時間が取れた16時頃には、もう電話回線は繋がらず、それから30分程で駅のホームには人っ子一人いなくなりました。JRが駅を閉鎖したのです。帰宅の足は完全に失われていました。
 
帰宅難民
 店舗が閉店を決めたのは17時過ぎでした。続々と事務所に引き上げてくるレジスタッフの中には、利用している交通機関が運休しても歩けば帰れる距離の人もいて、最終的に私を含め4名が帰宅困難で店舗に残りました。
 
 店舗は休憩室を開放し、従業員を宿泊させる準備を始めました。非常食料はカロリーメイト1つと水500cc。地下の食料品売場で残ったパンやお弁当などは全て廃棄されました。
 19時過ぎにバスを中心に交通機関が動き始めると、百貨店の役職が運行が始まったバスの系統を随時知らせに来てくれました。

 

 休憩室の中から、ちらほらと帰宅する人たちが現れました。

 

 19時半過ぎ、日頃の通勤に電車を使っている私たちでも帰れるバスの運行が始まり、私たちも帰ることにしましたが、役職は、

 「百貨店にはいざとなれば食品売場の在庫も寝具もある。お手洗いも広くてきれい。暖房もかかってる。今出て行っても寒いところで何時間も待たされるよ。無理に帰る方が危険だ」
 と、余震の続く中を無理に帰宅することには反対でした。

 

後悔と幸運

 休憩室にいた2時間、断続的に起こる余震に、いつの間にか、常に揺れてる感覚が抜けなくなっていて、外に出てもお互いに

 「今揺れてる?」

 「揺れてないよ」

と、確認しあうようになってました。まっすぐ歩けているのかも怪しい感じです。

 

 バス停につくと、これはとても乗れないのではないか、と思う大勢の人。台風や積雪などでの混雑とは桁違いの規模。

 運行が始まる前から何時間も寒い中で待ち続けていた人も多く、なかなか来ないバスに苛立って、係員に詰め寄る険悪な雰囲気。

 運行はしてても異常な渋滞で、30分待ってもバスの姿は見えず、役職が言ったように、

 

 無理に帰ろうとしなくても良かったのでは?

 百貨店に戻ろうか?

 

 と後悔し始めた時に、別系統のバスが始発すると案内があり、当初の目的地とは違うけど、そのバスでも全員帰れることがわかったので、迷わずバス停を移動しました。

 

 バスはすぐに来て、私たちが乗り込んだ時には空席もちょうど4人分。座れたのは奇跡でした。その後も続々と人が乗り込んできて、立っているのも大変な状況でバスは動き出しました。

 常なら20分で着くところを1時間以上かけて、ゆっくりと進む車中は人いきれで空気も淀み、非常食料でもらった水がとても有難かったです。座れなかったら、とても乗っていられなかったと思います。

 

 同僚たちとは終点で別れ、私はあと2本のバスを乗り継いで帰りました。電車での通勤時間35分の道のりが2時間半の旅になり、自宅の最寄り駅に着いた時には鉄道も復旧していました…私の長旅は何だったのでしょう?

 

教訓

 あの時、別系統のバスが動いたこと、座れたこと、どちらも偶然です。あの場合の正解は、役職が言ったように、安全な場所で待つことでした。自宅に居る両親も気になるけど、電話回線は待てば繋がります。一言 「泊まる」 と連絡すれば済むことでした。

 鉄道が復旧したのは結果論ですが、復旧しなくても、暖かくて安全な場所で一夜を過ごせる状況だったのです。途中までのバスには乗れても、その先に進める確証はなかったのですから、下手をしたら、深夜に長い距離を歩くことになっていたかもしれません。大きい余震が起きたら、深夜に行き場を失っていたかもしれません。

 

 その後、3月14日の鉄道の運行規制でも帰宅難民になりましたが、その時は無事に迷わず歩いて帰れました。

 日頃から、歩いて安全に帰れる経路を知っておくことは大切です。

 

 今年は積雪で帰宅時間に交通機関の乱れに遭った人も多いと思うのですが、勤め先や学校の近くで、いざとなったら泊まれる施設を調べておくといいと思います。カラオケでもネットカフェでもマンガ喫茶でもいいと思います。

 帰れない、と思ったらいち早く、迷わず、安全で飲食に困らない施設を利用する。安全が確保されるまでは無理に帰ろうとしない

 

 二度の帰宅難民を経験して学んだ教訓です。

 

二度の大地震

 実は私は、2004年10月23日の新潟県中越地震の時も、商業施設内で勤務中でした。

 

 商業施設で働く人たちは、日頃から非常時の訓練を受けていますが、東日本大震災では、私がいたフロアでは訓練通りに動けた従業員はほんの僅かでした。避難誘導もなく、エスカレーターもエレベーターも動き続けていました。揺れの最中にお会計にみえるお客様までいらして、カオスな状況でした。

 

 商業施設には、天災時にお客様の知らない危険もあります。

 

 明日は、二度の大地震で従業員として教わった耳学問ですが、商業施設の従業員がどのような訓練を受けているのかを書きたいと思います。

 

 最後まで読んで頂き、ありがとうございます。