2024年4月20日奈良お話会

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前半

「出雲口伝」

 

***

 

奈良公園の鹿が赤信号で止まる。っていうから、お行儀がいいのかと思ったら、鹿せんべいを強奪する集団だった。

 

奈良公園はニューヨークのセントラルパークより広い。

セントラルパークは341ヘクタールで、奈良公園が502ヘクタールある。1.5倍。何でこんな広大な敷地が公園として何もない状態で残されているのか?

奈良は、昔、都だったから建物が建っていた。公園として残っていたわけじゃなくて、建ってたものをぶっ壊したあと。

明治時代に廃仏毀釈ってあったでしょう。そのときに寺院を徹底的に壊した。

例えば、薩摩藩では、鹿児島市内には寺院がほぼない。徹底的にぶっ壊した。新潟とかでも神社ばかり。

奈良は比較的残ってますが、それでも半分くらいぶっ壊されている。

 

じゃ、この奈良公園は何だったのか?

全部、興福寺の境内だった。興福寺、今残ってますけど、今でもかなり広いですけど、当時の興福寺はセントラルパークの2倍の広さを誇る巨大庭園で、大伽藍が3つくらいあったらしい。

今、金色堂があると思うんですけど、昔、そもそもの金色堂は、今、奈良県庁になってる。奈良県庁が最初の金色堂の場所。ちょっと残ってますけど、大体ぶっ壊して近代建築にしてます。

その後、今の興福寺のこじんまりとしたところ、それでも広いけど、後から金色堂を建てたらしい。

 

広大な興福寺の建物を全部ぶっ壊したあとが公園になって、それを奈良公園と称してるだけみたいです。

裁判所もそうだし、奈良ホテルもそうだし、あれ全部興福寺の建物だったらしい。

今、有名な、興福寺の五重塔もぶっ壊されるところで、50円で落札されたっていう話。今の金額で5000円ぐらいかな。落札されて、落札した人がぶっ壊そうとしたんですけど、ちょっと大変で、そのまま引き倒そうかとしたところ、興福寺の職員が止めたみたいな。で、もう一回買い戻したみたいな感じで、ぎりぎり残った。

 

興福寺伽藍図ってありますけど、明治初年の時点の興福寺の図が残ってますけど、今の奈良公園全域が興福寺だった。今の興福寺は、その巨大興福寺、本来の興福寺の20分の1ぐらいの区画が残ってるだけだということ。

あとは、ほかにもぶっ壊された、完全にぶっ壊したのは、天理市。今、天理教になってますけど、天理市内に内山永久寺っていう寺があった。これも巨大興福寺と同じくらい巨大だったらしいんですけど、これはもう跡形もない。完全にぶっ壊された。そこに弥勒菩薩像があったらしいんです。有名な弥勒菩薩像より大きい、絶対国宝だろうっていうのがあったんですけど、それが何とぶっ壊されて焚き木になっちゃった。国宝が一つ消えてしまった。

 

奈良でも半分ぐらいは神社がやられちゃったらしいんですけど、半分やられてもまだこんなに残ってるってのはすごいなという。

何でこんなに建てたのかというと、基本的には藤原氏が一生懸命建てた。春日大社もそうだけど、あれは神社だといっても、半分、神仏習合時代は神社と寺は一緒でしたからね。

大仏もそうだけど、藤原が悪事をいろいろやってるんですよ。バレないようにやってるつもりなんですけど、みんな知ってて、藤原本人は分かってて、天然痘か何かで藤原4兄弟が全部死んじゃったりして、ヤバい、これは神様怒ってるって、何か罪滅ぼしをしようかって大仏を立てたりとか、いろいろ、藤原が悪事を重ねれば重ねるほど寺院が増えていくっていうことで、いっぱい寺院が建ったらしい。

 

藤原の前も、倭国大乱て言われてる時代があって、これは、記録は残ってない、全部消滅させたんだ。藤原が、ある事情によって消滅させた。

その倭国大乱っていうのが、奈良を舞台に、各勢力の潰し合いが延々と、200年か300年、バトルをやってたっていう話。

 

せっかく奈良に来たから、その話をしようかと思います。

倭国大乱の主人公というか、元ネタは、出雲にあるんです。

奈良は最初は出雲帝国の植民地だった。今日は、その出雲の話をしようかな。

 

出雲王国は今まで全然分からなかった。古事記では完全に神話になっていて、ホツマツタヱとか、竹内文書とか、宮下文書とかでも、出雲の話はかなり薄くしか書いてない。

ところが、最近というか、ちょっと前に、出雲の元王家だっていう人が現れて、その人が、2000年ぐらい王家の内部でもともと書いてたらしいんですけど、紛失しちゃって、じゃ、口伝えにしようって、出雲の元王家に一子相伝で伝承した口伝が本になって出た。

今、いろんな人がブログでやってるんですけど、私もちょっとやってみようと思ったんですが、なかなか面白い。

 

出雲帝国、相当詳しいですけれども、ほかの古文書と真っ向から対立する記述がいっぱいあるんです。そこのところをちょっと折り合いつけながら、出雲王国の動向とその後の奈良におけるバトルがどうだったのかというのを今日はお話ししたいと思っています。

 

これ、「出雲口伝」と言われているやつで、出雲の王家、富家、向家と言われているのが出雲の王家らしいんですけど、それに伝わっている、口伝えに伝えられた伝承なんです。

それによると、出雲ってのは塞の神っていう神々が最初に建国したと言われています。

その塞の神のリーダー、王だったのがクナトって人で、クナト大神って言われている。出雲の熊野大社とかその辺でまだクナト大神を祀ってるということです。

 

その出雲家に伝わる伝承では、このクナトさんていうのは、塞の神集団ってのは、古代インドから来たっていうんですよね。古代インドでドラヴィダ族の王だった。それが、故国を離れてゴビ砂漠を通って、シベリアにまず行って、シベリアは当時は温暖、シベリアからずっと回って津軽半島に上陸して、東北通って北陸通って出雲に住み着いたというふうな伝承がされています。

 

このクナト大神の子孫たちが、大体東と西で2系統に分かれて、それぞれ、そこを統治する家になって、その2つの家が交代で王家を務めるということらしい。

東半分が富家、富何とかっていう人、西半分が、神門臣家、今、神門家になってるらしいんですけど、この富家のリーダと神門臣家のリーダーで、正王と副王を交代で務めたと。

 

出雲王国初代の王は、八耳王って人です。これは富家の人。富家は向家とも言われていて、「民を説得する」で向家って言われていて、貢物をいっぱい持ってきて、富み栄えたから富家って言われてるらしいんですけど、現代では、富さんっていうのが本家、分家が富田さんとか富永さんとか向さんになって、富さんが1家あって、向さんがいっぱいいて、全体で出雲王家みたいな話になっているようです。

神門臣家は、神門家って言われているらしい。

 

出雲の王の正王の称号は、大名持ち、古事記ではオオナムチって変えられてる。字も変えられちゃって。

副王は、少名彦って呼ばれてたらしい。古事記ではスクナビコナっていって、一寸法師だったと、どっかからやってきた一寸法師の伝説になってますけど、そうじゃなくて、大名持ちも少名彦も必ず同時に存在していて、17代存在している。初代・大名持ち、ずーっと来て、17代存在したって言われています。

 

ちなみに、出雲国っていうのは、春に芽が出た森が美しいって、出芽の国っていうのがいつの間にか出雲の国になっていたという話らしいです。

 

いわゆる大国主命っていうのは、8代大名持ちの八千矛(やちほこ)王って人が、古事記の大国主だそうです。

古事記の、出雲の国譲りの話は、あれ、いろんな話がごっちゃになっていて、2000年ぐらいかけて各時代に起きた全ての出来事を一緒くたにして、全部、アマテラスの時代に起きたようにしてますけど、ほとんどは後世起きた。それぞれ分割して、この事件が起きて、この事件が起きて、この事件が起きてってのを、1000年分ぐらい全部一緒くたにまとめてるみたいで、それぞれ分割して起きてるんだというようなことです。

 

大臣の臣で臣(とみ)っていうのは、これは、富家の富だったんですけど、出雲王家の称号で、出雲の王家の人が臣って言ってたらしいんですけど、その出雲王国が奈良に入ってきて、大和に入り込んだ後に、大臣の称号になった。

 

出雲には、富家ってのと神門家ってのが両王家で、あと、神魂(かもす)神社をやってる秋上(あきあげ)家とか国造(こくそう)家が途中で千家と北島家に分かれたとか、いろんな家系があるらしいです。

地元の人は知ってる。地元の人は、北島さんっていったら、ああ、あの国造のあの人かってのが分かるらしいんですけど、苗字で大体分かってて、富家の分家は、富永さんとか富田さん、富がついてちょこっと変えているらしいんです。

地元の人は、姓を聞くと出身が全部分かるという話です。

 

大国主命は、神門家。神門臣家の人。

基本的に、奇数だと富家が正王なんですけど、途中1回ちょっと変わって、最終的には逆になってるのかな。途中で1回ちょこっとずれてる。

 

今から話す話は、ものすごく詳しい話もあるんですけど、私の今までした話と真っ向から対立する話が結構あるんですけど、その整合性は後でつけるとして、取りあえず伝承にどう書いてあるかというのをお話ししたいと思います。

 

八耳王以来、大名持ち・少名彦体制がしばらく安定してたんですけど、最初に攻め込んできたのは、スサノオであると。スサノオってのは、富家の伝承では、日本の神ではなくて、秦の始皇帝に派遣されてきた徐福だというんですよね。

徐福は知ってます? 徐福は、始皇帝を騙して「あなたのために不老不死の薬を取ってきてあげよう。それは東の国の蓬莱っていう山にあるらしいから、私に大艦隊と男女3000人ぐらいつけてくれれば取ってきてあげるよ」と言って、取ってくるふりをして日本を侵略して日本に住みついちゃったっていう人。1回失敗して2回目もう1回行って、飽きずに始皇帝を2回騙して、2回目は成功してまんまと日本に住みついちゃったというような人なんですけど、その徐福の第1回遠征は、日本海経由で石見の国、今の兵庫県ぐらいかな、兵庫県の日本海側かな、石見の国に上陸したらしいんですよ。

上陸して最初に狙ったのが、出雲帝国だったらしいんですよ。すぐ右に。

 

徐福は、来る前に、1年前にスパイを派遣してて、天穂日(アメノホヒ)と、武夷鳥(タケヒナドリ)っていう親子なんですけど、これを派遣してて、まず、日本で勢力を持つにはどうすればいいかっていうのを聞いたんですよね。彼らの答えによると、日本で一番力を持ちたかったら、日本の有力者の娘と結婚するんだと。日本は家系が重要だから、どこがいいんだといったら、出雲の国っていうのがあるから、そこの姫と結婚すれば、一気にあなたは有力者だ、みたいな話になって、出雲を狙ったんです。

 

でも、そんな簡単に結婚できなくて、当時は8代目の大名持ち、もしくは、少名彦の時代になっていて、8代目、神門臣家から八千矛王ってのが出ていたらしい。少名彦は事代主。この事代主と八千矛王、八千矛王が古事記の大国主で、事代主が大国主の息子とされている人らしいんですけど。

 

最初、(徐福は)事代主を狙うんですよ。事代主は、ヌナカワヒメってのと結婚してたんですけど、当時、通い婚で、松江に住んでて、松江の美保関ってところでよく釣りをしてたらしいんですよ。そこ行って釣りをしてたところに、徐福が連れてきた何千人の子供たちというか若者でざーっと囲んでつかまえちゃった。洞窟に幽閉して、そのまま食料と水あげずに餓死させちゃったっていう事件があったらしい。

それが、事代主の入水事件になっちゃった。

 

その後、八千矛王を狙って、ヌナカワヒメと結婚しようとしたのかな。だけど、ヌナカワヒメは危険を感じて、さっさと越の国、実家に帰っちゃった。次は、八千矛王の奥さんを強奪しようと、八千矛王をつかまえて、八千矛王をも幽閉して、殺しちゃったということなんですよ。

 

それで、出雲は大打撃を受けて、それでも、残りの家臣が一生懸命やって、徐福は追い出した。

徐福はその後どうしたかというと、東に行って、本来の目的である蓬莱山を探そうと富士に行ったらしいんですけど、これもやっぱり途中で追い返されて、第1回目の徐福遠征は失敗して、艦隊と人を増やしてくれって始皇帝に泣きつく。

で、2回目の遠征。

 

出雲としては、これはヤバいと、出雲だと、中国からの外敵に直撃でやられるっていうことになって、危ないっていうことになって、もうちょっと離れたところに分けて住もうかっていうことになって、出雲の富家、神門家を中心とする家を半分に分けて、半分を内陸に移住させたんですよ。

 

その、内陸に移住して、出雲王国の家臣たちがたどり着いたのが、奈良だよと。

奈良は、というか、但馬とか河内とかは当時豪族がいたんですけど、奈良はほぼ無人だった。そこに住み着いて、大物主とか出雲系の人が奈良に祀られているでしょう。それは、最初に、このとき来た出雲帝国の人たちが奈良に住み着いて、奈良を発展させた。それが奈良の始まりだということらしい。

 

実際、東出雲の人たち、富家の人たちは葛城山の東麓に住んだという話。

摂津の国と同盟を結んで、事代主を三輪山に祀ったと。その事代主が、大物主って名前になってるっていう話です。

神門家、西出雲の人は、南葛城方面を開拓といってますけど、葛城周辺を第二出雲王国にして開拓してたってことです。

で、奈良では、富家ってのは、登美家って字に変えて、登美は出雲の王家の末裔の人だよってことらしいです。

 

ちなみに、古事記には、スサノオが狼藉を働いて、出雲に行って、ヤマタノオロチを退治したっていう話になってますけど、このスサノオもちょっと嘘っぽくて、

実は、イザナギ・イザナミの子供がアマテラスとツクヨミとスサノオがいるでしょう。ツクヨミは、生まれたって記述があるだけ。あと何もないんですよね。あと、スサノオになってるんですけど、狼藉を働いたのはどうやらツクヨミらしくて、スサノオは全く別なんじゃないかって話なんですよね。

 

それで、出雲口伝では、スサノオが徐福だということになってますけど、ちょっとこれもまた別なスサノオがいたんじゃないかなというような気もしますけれども、取りあえず、ツクヨミが西に行って狼藉を働いていたってのがいろいろあって、大分の宇佐八幡宮あるでしょ、それは、最初は、この時代は、ツクヨミの神を祀ってたらしい。もっとずーっと前にいて。

で、ツクヨミの神を祀っていたんですけど、今は3体祀ってるでしょう。真ん中、姫大神っていうのがいて、あと、神功皇后と応神天皇なですけど、この姫大神が誰だってのは諸説あるんですけど、これが、後で説明しますけど、出雲口伝によると、これが誰だか一発で分かってしまう、確定してしまうっていう。邪馬台国の謎が確定してしまうって強さがある。

後で説明します。

 

それで、出雲王国が出雲と奈良に分かれて、互いに連携取りながら王国を経営してたんですけど、そこで、また、徐福の第2弾がやってくる。

徐福第2弾は、第1弾でやられたので、北陸方面とか出雲はヤバいだろうってことで、徐福はどこに来たかというと、九州に上陸したということらしいです。

九州に上陸して、九州でそこを占領して王国つくっちゃった。筑紫の国に王国をつくっちゃったっていうことらしいです。

 

で、出雲口伝では、この徐福の二男が王家となって、筑紫につくった国が、物部王国。要するに、物部氏は徐福の子孫だと言ってます。

 

九州はもともとウガヤ朝があったんですけど、この時代は物部王国に変わってるってことです。

最初に徐福が上陸したのは、石見の国の五十猛氏っていう氏族がいて、それが丹波の国に移住したらしいということ。それが、海部(あまべ)氏っていうんですけど、この海部氏の、初代海部氏の息子、2代目が村雲の命っていうらしいんですけど、この村雲の命が、何か出雲の人が住んでた奈良に侵入しちゃう。奈良に侵入して、登美家が支援するらしいんですよね。この村雲の命を登美家が支援して、その支持を受けて、奈良で大王(おおきみ)になるという話。

 

これが、神武天皇だと言っています。

つまり、神武天皇は東征をしていないと。徐福を受け入れた国の豪族が奈良に入って、出雲の人たちの支持を受けて即位した。それが、村雲の命っていう人らしいです。だから、イワレヒコ=神武天皇は、架空の人物で、村雲の命だけだと。東征やったのは崇神天皇だと。

イワレヒコ=古事記で言われてる神倭イワレヒコ、神武天皇は、九州から東征したと言われてますけど、東征してなくて、但馬から入ったんだよって。

このときの神倭朝、今の天皇家初代と言われるんですけど、このときは、但馬の国の人たちと出雲王国の連合王国だという話です。

 

神倭朝は、初代・神武、綏靖(すいぜい)、安寧(あんねい)までは、村雲の命の海部朝だっていう話です。

4代・懿徳(いとく)からは磯城(しき)王朝っていうんですけど、これ、出雲系。出雲の人が住んでる中で、但馬の人が入ってきて、即位したんですけど、出雲の人とずーっと通婚してて、やっぱり出雲は強いので、出雲の移民の中から天皇が出る。4代目。それが、出雲の人たちで、磯城(しき)王朝って言われてます。都があった場所らしい。当時は、天皇の死ぬたびに都を移してたんで、磯城(しき)王朝って言われてたんですけど、これは、移住した出雲の人たちから出た天皇だという話なんです。

 

そのときに、九州の物部王朝が紀伊の熊野に上陸するっていう事件が起きる。これは、物部の第1次遠征って言われてるんですけど、ちょっと時代が前後しますが、

その前に、物部王朝は九州にあったんですけど、イニエ大王って人がいて、その人が、九州を南に攻め込んで、日向を取ったらしいんです。その時点で、福岡-日向ラインが入ってる。

その日向の国から1回遠征して、熊野まで来るらしいんですけど、遠征そのものは失敗しちゃうんですけど、この磯城王朝の人が追い出されちゃうわけです。追い出されて、吉備の国へ逃走するらしいです。だから、磯城王朝、7代・孝霊天皇のときに都落ちして、奈良から吉備に行ってしまうということです。

 

ちょうど、この頃、新羅から、かの有名な天日矛(アメノヒボコ)が入ってくる。新羅系です。新羅行って、隠岐の島出身で、出雲に入ってきて、結局、天日矛(アメノヒボコ)の子孫は、越の国に住みつくわけです。だから、新羅系の人は、日本海側に住みつくと。

古来、日本は、百済系の人は、百済は対馬-九州で、九州に上陸するんです。

新羅は朝鮮半島のこっちなんで、新羅は隠岐の島経由で出雲に上陸するっていうパターンになってて、百済の人は九州に来て、新羅の人は出雲、もしくは石見に行くっていうことらしいです。

 

7代・孝霊天皇=フトニ大王(おおきみ)って呼ばれていたらしいんですけど、ここ、天皇の系図になってますが、7、8、9代は奈良にいない。吉備にいて、吉備王朝ってのをつくったらしいです。

ちなみに、フトニ大王の吉備王は、1回出雲に攻め込む。第1次出雲戦争ってのが起きたらしい。

この出雲戦争が起こったのは、孝霊天皇の第1皇子・吉備津彦の命って人なんですけど、これが出雲に攻め込んで、このときは出雲撃退してる。

 

後世、この吉備津彦ってのは、出雲に攻め込んだんじゃなくて瀬戸内海に攻め込んだとされてると。

後世、風土記とかでは、この吉備津彦の命は、桃から生まれたとされていて、それで、きびだんごを持って、途中、犬と猿ときじを家来にして、瀬戸内海にある鬼ヶ島ってとこに、ウラっていう朝鮮から来た人に単独特攻をかけて勝ってしまったっていう。それで宝物をいっぱい持ってきたという伝説になっています。

 

その後、ヤマトでは、8代・孝元天皇=クニクルの息子が、クニクル大王自身は吉備に行っちゃってるんですけど、その息子がヤマトで粘ってたんですけど、これは、物部東征軍にやられちゃうってことです。

この息子が大彦って言われているんですけど、これが、琵琶湖東岸に逃亡して、越の国に逃亡するっていうことなんですけど、この大彦が、古事記にいるナガスネヒコだって言ってます。だから、古事記では、ナガスネヒコってのは、ニギハヤヒの部下で、神武天皇がナガスネヒコと戦ってるわけですよね。

ところが、出雲口伝では、ナガスネヒコは、8代天皇の息子だから、神武とは500年ぐらいずれてる。だから、ちょっと、ナガスネヒコがどこにいたかってのは、ナガスネヒコの年代が相当ずれてるっていうことはあります。

 

この時代では、まだ出雲の本国は健在なのかな。

ちなみに、さっきの初代の村雲の命の弟、五十猛(いそたけ)の命の奥さん、ちょっと別腹の弟なんですけど、神門臣家のオオヤ姫を娶ったらしいんですけど、その子が高倉下(たかくらじ)っていう村雲の命の腹違いの弟。高倉下は、古事記では、神武天皇の将軍で、ナガスネヒコと一騎打ちやったっていう、ナガスネヒコと真っ向勝負したっていう将軍なんですけど、その高倉下の子孫の姫が、クニクル大王の皇子だから、ナガスネヒコかな、に嫁いで、この息子が武内大田根って人なんですけど、これが、宿禰の称号をもらって、武内宿禰になった。

 

武内宿禰は、出雲口伝によると、3人いるんですよ。初代、2代、3代いて、それが、仁徳天皇に至るまでずーっと仕えてるということです。

ちなみに、古事記とかだと、武内宿禰は3人じゃなくて1人ってことになってて、300年生きたことになってる。

最初から300歳だったってことになってるんですけど、何でそんな年取ってるんだ、実は300年前に生まれたんだと。じゃ、300年間何やってたんだ、若い頃釣りに行って、海岸で亀がいじめられてその亀を助けたんだと、お礼にどっか行きましょうって海底に連れてかれて、竜宮城ってとこにいて、乙姫様がいて、ちょっといろいろ楽しんでたら、帰ってきたら300年経ってた。玉手箱を開けたらじじいになってた、っていうんだけど、じじいになってから大活躍したっていうことなんです。

3人いたのを1人にしちゃったんで、タイムスリップしたんじゃないかってなって、竜宮城伝説ができてしまったっていう。

話の流れの中で、一寸法師と桃太郎と浦島太郎が出てきた。

真実はそうなってる。

 

物部王国、1回ちょっともう既に攻め込んでますけど、物部王国が九州で暴れていて、最初、物部のイニエって人が筑紫の国から1回薩摩に行って、日向を制圧して、日向を取ったと。で、これが日向族なんだということですよね。

当時は、日向は都万(くま)国って言われてたんですけど、そこを都にしてたと。

 

物部のイニエ大王っていう人が当時王様やってたんですけど、それが、奈良に攻め込んで崇神天皇になったっていうことです。

この崇神天皇ですけど、これ、薩摩行ったときに、アタツ姫ってのを娶って、これがコノハナサクヤ姫だと言っています。息子がイクメ大王っていう11代・垂仁天皇なんですよね。

 

イニエ大王は、第1回遠征やって、熊野まで入って、磯城王朝を吉備まで追いやったんですけど、奈良に入り切れなかった。

なぜかというと、奈良には巫女がいたらしい。

巫女がいて、巫女が神託を告げて、民衆をまとめていて、その力に対抗できなかった。その巫女に対抗する思想を提唱できなかった。民衆の支持を受けずに、奈良で即位できなかった、失敗した。

今度は、じゃ、九州にも巫女がいるじゃないかと、この力を使おうと考えたわけです。九州の巫女は、宇佐にいたんです。ものすごい力を持つ巫女が代々宇佐神宮にいて、当代の姫は、豊の国っていったんですけど、当代の巫女は本当に特段の力を持つ、歴代最強の呪力を持つとされていた。それが、豊玉姫っていう姫だったらしいです。

 

この豊玉姫と崇神天皇が結婚する。

奥さんの豊玉姫の呪力、巫女の力を使って、今度は対抗しようじゃないかといって、第2次遠征を企てるわけです。

そのときに、じゃ、第2次遠征に行こうかと思ってた矢先に、日向の国で崇神天皇が死んじゃう。だから、崇神天皇は実際にはヤマトに入り切れてないと。1回目、熊野まで行ってちょっと撤退して、豊玉姫と結婚して、さあ行こうってときに死んじゃう。

 

その後、何と、奥さんの豊玉姫が全軍を率いて遠征を始めるっていうことをやったらしいです。

ただ、将軍が足りないので、将軍を募集した。将軍、後でこれ全員が裏切るという。

紀伊の国から武内大田根=(初代)武内宿禰、これは、紀伊の国造(くにのみやつこ)、長官をやってたんですよね。これが、蘇我氏の祖で、ちなみに、蘇我氏は、紀伊から出たらしいです。出雲の王家から紀伊の国造になって、最後、北陸に行って、越の国をつくるらしいんですけど、この武内大田根の初代・武内宿禰の子孫が、蘇我を名乗って、蘇我氏になった。

だから、紀伊の国から武内大田根をスカウトして、あと、近江の国から額田宿禰って人をスカウトして、但馬の国から田道間守(たじまもり)って人をスカウトするんです。田道間守は最後、決定的に裏切ってしまうっていうことになるんですけど、

この3人を使って行ったんですけど、遠征する前にちょっと中国の皇帝に挨拶しとこうって、この田道間守を、当時の魏に遣わしたらしい。田道間守とトオチネイリヒメっていう2人セットで魏の都、洛陽に行ったらしいんですよ。

魏の役人の人は、勘違いして、当時は、ヒムカ(日向)の国って言われてたらしいんですけど、国名と人名を勘違いしたのか、ヤマト国、ヤマトと戦うって言ってたんですけど、ヤマト国から使者が来たと。それで、ヤマト国は巫女によって支配されてると。それは、豊玉姫のことなんだけど、それを、ヒムカの皇女(ひめみこ)だったのが、いつの間にかヒミコになっちゃって。

 

そのときに魏に使いに行ったのは、田道間守とトオチネイリヒメで、派遣したのは豊玉姫。

その豊玉姫が派遣した、物部豊連合と邪馬台国、ヤマト国と記載して、豊玉姫を女王卑弥呼というふうになってんだよっていうことらしいです。

 

そのとき、魏から何をもらったか。

金印はもらうんですけど、そのほかに8本の幡を、旗印を8本もらってきたらしいんですね。その8本の旗印を、豊玉姫のいる宇佐神宮、当時は、月夜見の命を祀っていたんですけど、宇佐神宮に祀った。

 

宇佐神宮の境内にその8本ののぼり、旗を立てたので、八幡、八幡宮って呼ばれるんですけど、そのときから、宇佐は宇佐八幡宮と呼ばれるようになったということ。

 

で、中国のお墨付きももらったし、魏のお墨付きももらったし、将軍もそろったしってことで、物部豊連合、豊玉姫の指揮で勇ましく出陣したわけです。

ところが、出陣早々、豊玉姫が病気になって、四国を通って安芸の国、広島まで行って、宮島まで行ったところで死んじゃうっていうアクシデントが起きたらしいです。

死んだ後に、ものすごい霊力を持っていて、軍を率いて、最終的には第2次東征成功するんで、軍を率いて王朝を立てた姫として、姫大神として宇佐神宮に祀られたということ。

だから、宇佐神宮の姫大神は、豊の国の豊玉姫であるということらしいです。

 

その後、お父さんもお母さんも死んじゃったイクメ大王ってのが、瀬戸内海経由で吉備に突っ込むと。

田道間守は、出雲を攻略するんです。田道間守軍が出雲王朝に行って、そのときに、国譲りのような激戦が起きて、ここで、何と、出雲王朝、出雲王国は滅亡します。

そのときの王、17代大名持ちは、出雲のフリネ(振根?)って人。フリネってのは、銅鐸、あれ本当は鈴みたくなってて、チリンチリンと鳴る。あれがフリネって呼ばれてたらしいんですよ。フリネを導入するかどうかで、奈良で宗教戦争が起きたりとかしてるんですけど。

だから、出雲にはあるけど奈良には一部であるけど、奈良は、フリネの導入を認めなかった。

 

そのときの、17代、最後の少名彦、副王が大田彦って人ですけど、これが、後の野見宿禰になります。野見宿禰の別名。最初は、田道間守に野見宿禰がやられちゃうんですけど、後でもう一回リベンジをするという話です。

 

その前の、タケミナカタは、徐福のとき、出雲の国譲りが、アマテラスの軍で、タケミカヅチっていう人がいて、タケミナカタをやっつけて、諏訪まで追いつめて滅亡させたっていうんですけど、タケミナカタは、実は負けてないと。徐福が来たときに、タケミナカタ、諏訪方面に進出して、どんどん勝って、信州に諏訪王国ってのをつくってたっていう話です。

だから、滅亡したときに、逃げたんじゃなくて、堂々と遠征して別の王国をつくっていたということです。

 

結局、出雲は、神門臣家、西出雲が落ちて、その後、田道間守で神門臣家がやられて、その後、本体の武内十千根(とおちね)の軍が来る。物部の軍ですけど、東出雲の大田彦も物部本隊にやられて、最初、松江に逃げるらしいんです。

結局、出雲王国は、王国としては滅亡しちゃうんですけど、王家はまだ粘っていて、物部のイクメ、垂仁天皇が、河内に上陸したんですけど、そこでかなり足止めを食うらしいんですけど、そこが、物部イクメが足止めを食らった、イクメってなって、それが生駒って地名になったっていう話で、生駒が、垂仁天皇が上陸して足止め食らって何年も動けなかった場所だということです。

 

それで、後から来る十千根の軍と豊の国の軍勢と合流してヤマトにやっと突入したと。

そこで、そこの出雲勢力を駆逐して、即位して、垂仁天皇になるということです。

これが、物部王朝っていうんですけど、物部王朝できたはいいんですけど、生駒でずっと本隊が足止めされてたうちに、田道間守とか武内十千根とかが先に入っちゃってるわけですよ。田道間守が、本隊を差し置いて勢力を持っちゃって、後から国王入ってくるんですけど、国王を差し置いて、自分が国王であるように振る舞ってる。

これ、どうにかなんないかっていうんで、垂仁天皇がいろいろやったですけど、これダメだといって、垂仁天皇、誰に助けを頼んだか、よりによって、富の大田彦、第17代少名彦、自分が滅ぼした国の王家に、軍勢出してくれって。

王家のほうは、何だよ、お前、俺を滅ぼしといて何言ってんだってんですけど、ただ、大田彦は、田道間守に裏切られて、直接、城を陥落させられてるわけですよ。だから、個人的な恨みは、俺がやるよっていうことになって、公式に富家が協力したのではまずいので、名前を変えて、野見大田彦って、野見に変えたらしい。で、宿禰の称号もらって、物部の王家は宿禰なんで、宿禰の称号もらって、富ってのは出雲の王家で、宿禰ってのは物部王家らしいんです。それで、野見宿禰って言われるようになった。

 

この田道間守ってのは、当麻蹴速(たいまのけはや)らしいです。

野見宿禰は、当麻蹴速にリベンジマッチを挑んで、勝ってしまう。それで、垂仁天皇が完全に追い出して、王権を固めるんですけれども、そこで、富家が協力してるんで、出雲王朝が補佐につくみたいな形になって、出雲は本国は滅びるんですけど、物部王朝の補佐の感覚でヤマト王家に残る。

 

野見宿禰と当麻蹴速は、相撲をとって勝ったみたいな話は、相撲じゃなくて、実際、軍隊同士の激突で、1戦目は当麻蹴速が勝って、2戦目でリベンジマッチしてるってことです。

野見宿禰は、その後、物部は古墳造れなかったんだけど、出雲はいっぱい古墳造れたので、ちょっと物部王朝の古墳造ってくれよっていって、野見宿禰が一生懸命造ってたら、結局、野見宿禰が、土師(はにし)、古墳を造る人になったっていう伝説に変わったよというようなことです。

 

ちなみに、この野見宿禰の一族は、後に菅原の姓をもらってヤマト王家に入って、菅原道真が、この野見宿禰の末裔の出身だと。

菅原道真自身は養子らしいですけど、野見宿禰の系統を引いてるらしいです。

 

物部王家は、一応、派手だったんですけど、ちょっと殺し過ぎちゃって、あっという間に滅びちゃうんです。

10代・崇神天皇は、1回遠征したんですけど、ちょっと奈良に到達できず。

11代・垂仁天皇は、これは、奈良に到達して、王朝を建てる。

だから、東征を成功させたのは、何と11代・垂仁天皇だった。

12代は景行天皇。これは、ヤマトタケルのお父さんで、ヤマトタケルが遠征したっていうんですけど、出雲口伝では、ヤマトタケル存在してないっていうんですよ。ヤマトタケルの業績は、景行天皇が自分でやったんだというんですよね。

これは、真偽はちょっと不明。調べてる最中です。

 

13代で物部王朝が終わってしまう。13代・成務天皇で終わってしまって、14代の仲哀天皇は、これは、架空の人物だと言ってます。要するに、3代で終わって短過ぎるので、前はいるんだけど、後ろ1個つけたって言っています。

 

史実では、仲哀天皇の奥さんが神功皇后(オキナガタラシ姫)なんですけど、出雲口伝では、オキナガタラシ姫は仲哀天皇の奥さんじゃなくて成務天皇の奥さんだっていうんです。息長(おきなが)氏ってのは日矛系、新羅系の人なんですよね。

新羅系の、物部王朝がちょっと傾いてきて、てこ入れに外国人の新羅系の姫を手に入れたんです。姫を娶ったんですが、何と、この新羅系の姫が、こいつらをぶっ倒して、天皇に即位してしまうっていう。これが、古事記では神功皇后になってるけど、実際には神功天皇だった、

これが、宇佐王朝って言われてる。

 

ちなみに、さっきの宇佐神宮には、姫大神、豊玉姫と、あと、この神功皇后とその息子の応神天皇が祀られて、応神天皇が八幡神って言われています。

ところが、これの経緯が、まず、この人、新羅系だった。外国人だったのを当時の人はみんな知っていた。

当時の朝鮮は、百済、新羅、高句麗と、ここ任那が日本領だったと言われていますけど、出雲口伝によると、任那は日本領じゃなくて、新羅と百済のどっちでもない地域なんだけど、ちょっと年貢を取りにくいから日本に年貢を取れって言われて、日本人が年貢を取ってたっていうことになってます。日本人が年貢を取ったら日本領じゃないかと思うんですけど。

 

その前に、辰韓とか馬韓という時代があったんですよね。

辰韓・馬韓時代に、辰韓の王族が新羅を建国するんですけど、天日矛ってのはこっちなんですよ。辰韓の王子だったと。辰韓の王子で、王位継げそうもなくて追い出されて、北陸に住み込んだ、越の国に住み込んだと。

神功皇后はこれの子孫であると。

 

で、新羅の王家が1回断絶するんですよ。新羅の王家は2回王朝交代してるんですけど、最初の断絶のときに、新羅の王家は滅んだんだけど、「私は新羅の王家の前の辰韓の血を引いてるんだから、新羅の王位継承権を私にある」って言って、自分を新羅の王にしろってねじ込むんです。

新羅は、「そんなばかなことできるか」って切るんだけど、そこで、神功皇后=神功天皇=オキナガタラシ姫が九州に行くんですよ。旦那の成務天皇は全然やる気がなくて、自分で行こうと思ったんだけど、軍勢が足りないと。

それで、九州の日向王朝、まだ残ってる。ここは、武内襲津(そつ)っていう人物が治めていた。自分の旦那をほっといて、この武内襲津って人と一緒に住んでたってんで、実際の旦那はこの武内襲津だろうっていう。

オキナガタラシ姫と武内襲津で九州連合軍を組んで新羅に攻め込むってことをやったらしい。

 

この武内襲津が、第2代の武内宿禰。要するに、浦島太郎ですね。

 

結局、新羅に大艦隊を組んで行ったら、大艦隊を見ただけで、新羅がびびっちゃって、降伏したらしいんですよ。これはいいって、その大艦隊で百済に行ったら、百済も降伏したらしくて、高句麗に行ったら、高句麗も降伏したらしくて、それで帰ってくると。

三韓を支配下に治めるっていう、三韓征伐は成功してるんですけど、戦いはやってなくて、徴税権を取った。

これ以降、日本は、朝鮮半島の徴税権を取って、こいつからの年貢をヤマト朝廷が使えるようになった。

これ以降、巨大古墳が建つでしょう。この次の仁徳天皇陵とか、ばかでかい500何メートルの、あの巨大古墳は、朝鮮半島からの年貢を使って建てるようになった。

 

成務天皇と武内襲津は、同じ日に生まれたって書いてあるんですけど、同じ日に生まれたってのは、入れ替わったっていう暗号だという話。古文書に、同じ日に生まれたって書いてあったら、天皇と武内宿禰が入れ替わって、神功天皇の旦那は実は武内宿禰だったっていうことを暗に指す暗号が「同じ日に生まれた」っていうことらしい。

 

で、意気揚々と帰ってきて、オキナガタラシ姫が物部王朝を追い出して、日本を掌握して、新羅人による王朝が成立してしまう。これが、宇佐王朝で、神功天皇でした。

 

神功天皇=オキナガタラシ姫と、この武内襲津の間に生まれたのが、応神天皇なんですけど、応神天皇は実は7歳で死んじゃったらしいです。7歳で死んじゃったんですけど、死んじゃうと、徴税権取れなくなる。これは、辰韓の子孫だから徴税できるということでしょ。子孫が死んじゃったら、次の代から徴税権取れない。だから、死を隠して、別の皇子を迎えて、身代わりにさせたという話です。

その身代わりにさせたのが、上野(こうずけ)の国に国造(こくそう)家があって、これ、神門臣家の子孫だったらしいんですけど、竹葉瀬(ちくばせ)の君とかいう人を養子にして、それを即位させたのが応神天皇で、応神天皇と神功天皇は血がつながってないらしいです。

 

その後、応神天皇に、引き続き、徴税権を取らせたんだけど、このお母さんが死んじゃって、幼少で単独で残されて、唯一の外国人の王で、周り全部出雲の人でっていう状態で、政権維持できなくて、出雲に乗っ取られちゃった。

その後、再び出雲王朝が出てくる。その出雲家から出た王様が、仁徳天皇らしいです。

だから、応神天皇と仁徳天皇の間もつながっていないっていうこと。

 

ここで一応出雲王朝になったんですけど、このとき、やっぱり武内一族の宰相を迎えてて、このときの宰相は、武内都久(つく)、これが3代目武内宿禰で、だから、武内宿禰は、武内十千根、武内襲津、武内都久で3人いたということで、3人で300年で、竜宮城行ってないよということらしいです。

 

ところが、出雲王朝取ったんですけど、また、出雲王国、実際に本国滅ぼしてた軍団が不満を持ってて、延々と中でバトルをやってると。

 

21代・雄略天皇、ここでもう一回王朝交代を行ってて、この雄略天皇は、平群(へぐり)家っていうところらしいんですよね。

平群家は、要するに、平群(武内)都久の子孫、平群の臣、平群キツって人らしいんですけど、ここから、25代・武烈天皇までの5人、倭の五王ってのは、平群王朝、平群家が取ったっていうことらしいです。

 

ところが、このときに物部がやられて、出雲系がいつの間にか平群家、平群家も出雲系の血を引いてるけどね、になっちゃって、出雲系の人たちはちょっと文句言って、また、ぐちゃぐちゃ内乱起こって、で、武烈天皇のときに内戦が起きちゃって、勝ったのは、何と、蘇我。

蘇我氏が密かに北陸で力をつけていて、ここから先、26代・継体天皇。

ここで1回断絶して、継体天皇は応神天皇の5世の孫だとか言われてるけれども、全然違ってて、継体天皇は、北陸の、蘇我氏のトップで、蘇我氏がここで政権を取って、蘇我王朝ができたんだよっていうことらしいです。

 

蘇我王朝をつくったんですけど、実はこれ3代で終わって、26、27、28で終わって、終わってというか、蘇我王朝は、できたそばから、王朝が分裂しちゃうっていうこと。

27、28、29代ってありますけど、実は、29が先に即位してるらしいです。継体天皇の息子は、29代・欽明天皇が出る。継体天皇は、出雲の姫をもらうんですよね。蘇我氏出身の出雲の姫をもらって、蘇我出雲連合にして、欽明天皇を立てたんですけど、継体天皇は、来るときに、実家に奥さんがいたらしいんですよ。日矛系の。オキナガタラシ姫系の。

実家の奥さんの子供が2人いたらしくて、その実家の奥さんの子供が押しかけてきて、俺が天皇だって即位しちゃったって事件が起きたらしい。

 

継体天皇は、結婚前に越の国にいて、奥さんと子供がいて、それを切って、ヤマトに来て、出雲の姫をもらって即位して、それを、息子を立てたんですけど、先妻の子供が押しかけてきて、俺が天皇だって勝手に即位して、天皇が2人になっちゃう。

その27代・安閑天皇と、28代・宣化天皇っていうのが、この継体天皇の北陸に残した先妻の子供が押しかけてきた天皇で、29代・欽明天皇が先で、29と27、28は同時即位で、2つの王朝ができちゃってたらしい。

 

これで、内戦やって、しょうがないから、出雲、蘇我、物部の全員の血の入った人を立てようって、新しく、30代・敏達天皇ってのができて、ここから先は、現・天皇家につながってるよっていうことです。

 

つまり、神倭朝の天皇家は、30代まで王朝交代しまくりでぐしゃぐしゃで、30代になってやっと子供に一子相伝するようになったっていう。

全然万世一系じゃないよっていう話なんです。

 

この後も、神倭朝の内部では、出雲王家生き残り系と、あと、かつての王家、物部と蘇我は王家なんですよね、物部王朝と蘇我王朝で。これで三つ巴の戦いをやるんですけど、これ、出雲口伝によると、この出雲系がインド、物部系が中国、蘇我系が新羅(日矛の子孫)なんで、日本を、インドと中国と新羅のどれが乗っ取るかという熾烈な戦いが行われていたんです。

途中で、藤原が殴り込みをかけてきた。藤原は、出雲口伝では中国系って言ってますけど、ちょっと1回皇子が入れ替わってるんで、百済系として、この百済が殴り込むわけですよ。

 

古代ヤマトでは、古墳時代、飛鳥時代から奈良時代のヤマトでは、日本をインドと中国と新羅と百済のどの国が乗っ取るかという熾烈な争いが行われていたわけです。

 

この後、聖徳太子が若い頃に物部と蘇我のバトルになるわけです。

で、聖徳太子が援軍についた蘇我のほうが勝って、物部が滅びるでしょう。

その後、聖徳太子の山背大兄王、聖徳太子の一族が殺される。恐らく、一家4人一気に死んでて、寺院の巻物とかに残ってますけど、4人とも毒殺されてるって書いてある。毒殺されて、子供が残ったんですけど、それを蘇我氏が倒して、こいつが滅亡して、大化の改新で蘇我氏が滅亡して、藤原が勝っちゃったっていうようなストーリーに一応、公式にはなってる。

 

公式にはなってるんですけど、この時点で、物部は倒れるんですけど、出雲口伝では、藤原の、初代・鎌足の息子の不比等が記紀を書かせたと。相当、内容を改竄してる。

この改竄、ちょっと前に、天照大神を女性にするには、どうしたかっていう話をしたと思うんですけど、記紀の大改竄のメイン動機は何なのか? 藤原が一番隠したかったことは? ってのが出雲口伝に書いてあって、それは、実は、聖徳太子を暗殺して、聖徳太子の子孫の山背大兄王を殺したのは、蘇我ではなくて藤原だったっていうんですね。

これで、藤原氏が隠してたんですけど、民衆の怒りを買って、それを隠すために、聖徳太子を蘇我が滅ぼしたことにして、その蘇我氏を、聖徳太子を滅ぼした罪で大化の改新で藤原が討ち取って、藤原がいいことしたんだよというふうに、藤原がよいことをしたように改竄した。

 

ところが、中臣氏、中国系の祭祀系の系列だったんですけど、途中で、中大兄皇子のときに、百済から渡ってきた王子様、扶余豊璋(ふよほうしょう)に多分入れ替わってるんじゃないか。

その扶余豊璋は、中大兄皇子と通じてて、中大兄皇子の暗殺部隊だったっていう話。

 

当時は、中臣鎌足じゃなくて、まだ鎌子って名前だった。鎌子は、聖徳太子を暗殺して、山背大兄王をぶっ殺して、蘇我入鹿も殺してしまったと。で、中大兄皇子(天智天皇)が全権を握ることになった。

(鎌子は)中大兄皇子が政敵を全部倒すための暗殺部隊として戦っていて、その功績によって、藤原の姓をもらって、側近になった。

 

自分が政権を握ることになったときに、歴史書を作んなきゃいけない。歴史書を作って、要するに、自分の行ったこの罪を改竄するために、蘇我氏は王家なんですけど、王家ってのはまずバレちゃいけないと。

日本の王家の2大潮流を、自分が暗殺したってのがバレたら日本にいられないじゃん。

だから、まず、蘇我が王家であることを隠す。物部も王家であることを隠す。出雲系も王家であることを隠す。多重複合人格、神武天皇をつくって、崇神天皇・垂仁天皇の業績を神武天皇にあげて、で、その神武天皇が神倭朝を一子相伝で継いできて、こいつら関係ないよっていうふうにして、出雲王国の歴史は神話にしちゃった。

 

出雲王国の歴史を神話にするのに、当時の出雲の国造(こくそう)家の果安(はたやす)って人が、国造家は天穂日(アメノホヒ)系で、富家と神門臣家を差し置いて、ねじ込んじゃって、出雲の国造に。

ちなみに、出雲大社は7世紀にできたそうです。だから、7世紀に富家が半額出資して造ったらしくて、ものすごく、国譲りのときから2000年後ぐらいにできた大社で、当時は熊野大社。熊野ってのは、和歌山県、紀伊半島に熊野があるけど、あれは、第2熊野で、もともとの熊野は出雲にあった。

熊は、熊が久米で、米なんだって。米の野だから、米のできる野で、熊野ってのは田んぼのことなんだって。田んぼ大社で、豊穣の神で、それを、クナト大神を祀っていて、それに、神魂(かもす)神社で王家を認証する神社を造って……、

出雲の第1社、一の宮は熊野大社だったらしくて、で、熊野大社ができてから1300年後に、奈良時代に入ってから、富家と国造家が半額出資で、杵築(きづき)大社を造って、これ、神殿型の48メートルの杵築大社ってのを造って、これが明治になって出雲大社に名前が変わったということらしいです。

 

杵築大社は、ものすごい柱の上にある高層建築なんですけど、これ、ちょっと強度が足りなくて、何もせずにぶっ倒れるらしいです。平安時代までに7回倒れてて、7回建て直したって話があって。

明治時代になって普通のこういう形に変えましたよというような記述があります。

 

結局、何をしたか?

中臣鎌子がやった、王家の暗殺を隠すために、これが王族であることを隠して、全部神話にして、出雲国造家の果安って人が、藤原不比等と密談して、出雲の王国の歴史を神話にしちゃうことをお願いしたみたいな話で、要するに、出雲国造家を裏切ったっていうことを、王家が恨みがましく書いています。

 

物部とか蘇我が王家であったことは分かんなくなって、出雲は神話になっちゃって、王家であることが分かんなくなって、で、神武天皇をつくって、そこからつなげたということにして、聖徳太子を倒したのを蘇我にして、その倒した蘇我を倒したから、藤原は偉いんだよということにして、藤原氏が自分たちの正当性を獲得した。それが、古事記と日本書紀である。という話。

 

ついでに言うと、古事記を書いた、稗田阿礼って人が暗唱したんだけど、太安万侶(おおのやすまろ)って人が編纂したとされていますが、太安万侶は、藤原不比等の言うとおり編纂直後に、案の定幽閉されて、殺されるところだったらしい。真実を知ってる者は殺されるということだったんですけど、これ、自力で脱出して、出雲に行ってるの。

この人は、山部赤人と名前を変えて、赤人って名前を変えて、関東地方に逃げて、そこで一生を全うしたと。

太安万侶と山部赤人が同一人物だと。

 

古事記の万葉仮名の文章を書いたのは、柿本人麻呂が書いたらしい。

柿本人麻呂は、万葉集に残ってるけど、この人の最大の業績は古事記の文章を書いたことで、それによって、歌人として名前を残すことになった。みたいなことまで書いてあるかな。

 

以上が、大体、出雲口伝の奈良時代までの概要なんですが、私の講評を言うと、

これ、崇神天皇あたりの、神武天皇、崇神天皇、応神天皇あたりの実際の業績何だったかってのは、今まで、どの文書にもちょうど載ってなかった。

ホツマツタヱでも、崇神天皇が何をやったか分からないということだったんだけど、それが非常に詳しく載ってて、九州の時代の。

で、あと、卑弥呼は誰なのかとか、卑弥呼はどういう権威なのかってのが明確に書いてあって、ここが非常によいでしょう。

ただ、ちょっと、アマテラスの子孫との関係性が分からんということです。

 

私が思うに、

神倭朝、今の天皇家以前に王朝が5つあるわけ。今の天皇家は第6王朝。

第4王朝がアマテラスだったんだけど、その息子のホノアカリ、ニニキネに分かれたっていう話を、以前したでしょう。

で、弟のニニキネの子孫が兄のホノアカリの子孫を滅ぼしちゃって、簒奪したのが神倭朝なんだけど、それを隠すために、兄貴の正統王朝を熊襲とか蝦夷とか言って、討伐に行ったっていう話をしたと思うんだけど、

そのホノアカリ系がクナト大神だと考えるとちょうどぴったりかな。

 

だから、アマテラス-オシホミミ-ホノアカリ・ニニキネ、

オシホミミは、瀬織津姫、ホノコの子供で、ホノコは、既に決まってた後継者を差し置いて、追放して自分の息子を後継者にしちゃって、それで一回内乱が起きる。

 

で、アマテラスの孫がホノアカリ・ニニキネと。

ニニキネ=ニニギノミコト。これが、九州に王朝を開いて、こっちは出雲に開いたと。

 

出雲の、このインド系じゃなくて、ホノアカリ系の子孫もしくは本人がクナトで、歴代の大名持ち全体もしくは後ろの数代がニギハヤヒだと。

このホノアカリ・ニギハヤヒ系が、出雲王朝をつくって、これの子孫が富家とか神門臣家だと考えると、ぴったりということかな。

 

で、物部は、私の調査によると、九州のいろんなごたごたはほぼ正しいんだけど、崇神天皇は物部のイニエだったのは嘘みたい。

物部は、どうも、やっぱり、吉備とか但馬辺りにいた民族がこっちに来たってんで、崇神天皇は崇神天皇で別に、恐らく、ニニキネ系だと思うんだけど、ニニキネ系で中国に残って、こんな感じで、豊の国と宇佐を含む日向王朝ってのをつくってて、ここから東征してきた。

1回目失敗して、垂仁天皇で成功というふうに考えると、ちょうどぴったりかな。

 

出雲がホノアカリ系、

物部じゃなくて、崇神天皇系がニニキネ系、

蘇我は新羅系、天日矛系、

藤原が百済系で、

ホノアカリ、ニニキネ、新羅、百済の四つ巴で戦ってたっていうふうに考えれば、ちょうど私の今までの説との整合性が取れる。

あと、登場人物と出来事同じにして、ちょうど、私の説に足りなかった九州のごたごたと崇神天皇のあたりの成り立ち。

古事記では東征は3回あって、この3回が1人なんじゃないかとか、実は神武だけなんじゃないかとか、崇神だけなんじゃないかって言われていたけど、本格的東征をやったのは崇神で、神武は、業績を合わせた複合人格。

応神天皇は大したことやってない。神功天皇の子供だったんだけど、幼少で即位してすぐ死んじゃったみたいな感じに考えると、ぴったりつじつまが合うかなと思います。

 

この辺の完全なつじつま合わせ、アメノミナカヌシから始まって、そのさらに前の第1王朝から始まってのつじつま合わせは、9月に合宿をやるんで、そこでやろうかと。合宿で5時間かけて説明しようかと思っていますので、お楽しみに。

 

***

 

出雲口伝、全く知らなかったので勉強になりました。

というか、難しいー。

 

八幡といえば、「FM八幡宮」が忘れられない。。

何の話(笑)

 

あとは、持統天皇のまんがを読んでたから少しそこら辺が分かってた。

とかかな。

 

最近、地元の博物館に行って、お隣の名取市に名取熊野堂ってのがあると知って、興味がありました。今度行ってみます。三社あるようです。

 

瀬織津姫が、復活したいって言ってるって話を最近聞きました。タイムリーだなあ。

 

これはほんとはこうで、こうで、ってお話で、あまり元ネタも覚えてないぐらいなので、ほえーそうかーと思って聞きました。

万世一系じゃないのは、結構、私でも気づいていたけれど、そういう文献もあったのですね。

 

ありがとうございました。