もしかしたら。

気づくヒントはあちこちに散りばめられていたのかもしれない。

 







話は少し遡り、モモが初めて春を迎える頃のお話。
松本は小皿を片手に、慣れない作り笑いを浮かべていた。
はっきり言って、非常にぎこちない笑顔。
ピンク色の食器には猫の餌にしては仰々しすぎるほどの料理が盛られ、そこからは湯気がのぼっている。
 
「モモ~、ご飯だよ…いい加減食べろよ…」

ポソリと口からもれた本音は、猫に無視をされた。
すっかり参ってしまった松本は、大きなため息と共に天井を仰ぎ見た。

「…やっぱり早く帰ってきてよ。翔君…」


モモが松本の家で過ごすようになってから、1ヶ月以上が過ぎた。
それまで会社が忙しく、あわただしい毎日が過ぎていた櫻井だったが、ぽかりと空いた休日である今日。
『久々、実家へ泊まりで帰ろうかな、と。で、申し訳ないんだけど…』とモモの方を見ていた。
その話を聞いた松本は、快く猫の世話を引き受け、彼を送り出したのだった。 


だがその温かい気持ちも、現在となっては見事に消えてなくなっていた。
夜の8時を回った今、松本がいるのは二階の玄関口に当たる場所だった。
そして視線の先にはドアから一歩も動こうとしないモモの姿。
櫻井が朝に家を出て以来、この猫は何か憑かれたように玄関マットの上に腰を下ろして耳をじっとそばだてている。
はじめは飼い主がいなくなったから寂しいんだろうなと微笑ましく思っていた松本だったが、昼を過ぎたころからモモの櫻井への異様な執着ぶりに、さすがに心配せざるをえなくなった。

気がつけば今日一日、モモはトイレもしていなければご飯も食べていない。
普段は絶対にいつか太るぞというくらい食べている姿を見ているだけに、その光景は余計に松本を困らせた。

「今日は翔君帰ってこないんだから…って言っても、わかんねえよなー」

とりあえず小皿を猫の足元に置き様子を伺うものの、その豪華なご飯は無駄にいいにおいを振りまくばかりだった。
だが、そのおかげで松本自身が空腹であることに気付かされる。
キッチンへ行き、午前中に作っておいたビーフシチューへ火を入れた。

「相葉君に預けたときは普通だったはずだけど…」


じゃあ今日はなぜ?

翔君がいないにしても自分がいるはずなのに。
俺じゃ役不足ってこと?
玄関で変わらず座り続けているのだろう猫を思いながら、俺も一人の飼い主だろうが!と、心の中で毒づく。

大人気ない舌打ちをなんとかこらえ、皿に盛ったシチューをテーブルに置く。
スプーンで掬い上げ、デミグラスソースの香りごと口の中に含む。

「…うん、旨い」頷きながら呟いた。


だが、そのほんの数秒後。
「…でも、なんか足りない」


顔を上げれば、そこに広がったのはやけにだだっ広く感じるリビング。

時計の秒針が振れる音。
働き続ける冷蔵庫。

一人で暮らしていたときでさえ、こんなにこれらの音が大きく感じたことはなかったはずだ。
松本は未だ暖かそうに湯気をたて続けるシチューを見下ろし、数秒後にはラップを被せた。


時計は午後9時を回った。
モモは相変わらずリビングに入ってこないままだ。
松本はテレビから流れる映像にぼんやりと意識を向けている。
すると、そこへスマホの着信音が流れた。
…この音は。
慌てて通話ボタンを押して耳に押し当てると、そこからは聞きなれた声。


『あ、松潤?俺だけど』

「うん、どうかした?」

その呑気な声にどこか安心したような気分になった松本だったが、口からこぼれた言葉はつんけんとしたものになった。
その雰囲気を感じ取ったのか、櫻井は遠慮がちに話してくる。

「あのさ、ちょっと遅いんだけど、今から帰るのとか…あり?友達か誰か家に来たりしてる?」

「え?別に誰もいないから大丈夫だけど」

「マジ?よかった!実はさ、もう途中まで来ちゃってたから断られたらどうしようかって思ってたんだよ。
んじゃ今から帰るわ」

「あ、ちょっと待っ……って、切れたよ」

ツー、ツーと聞こえてくる音になんとも拍子抜けし、松本はふっと口角を上げた。
そして視線をキッチンに向けると、ソファに沈んでいた腰をあげる。
コンロの前に立ち、火をつけて弱火に設定した。
これでシチューは彼が帰り着くころには再び温まっていることだろう。

すると。

チリン、チリン

かすれるような高い音。
振り返るとそこには、しっかりと松本を見つめる、モモ。

「お、まえ…」

驚いて思わず出てきた言葉は、けれど続かずに途切れてしまった。

モモはそんな彼を確認したとでも言うようにきびすを返すと玄関へ戻っていく。
そんなモモが気になってについて行く。

そこにはすっかり冷えてしまったらしい小皿と、その前にちょこんとすましたような顔で座っている猫の姿。
猫は再度松本の姿を確認するように見やると、今までの頑なな態度を一変して冷たくなった料理に大きな口を向けた。

先程の電話の主の声を聞いてたのだろうか?
確かに猫はものすごく聴覚がいいという話を聞いたことがある。
だが、みるみるうちに料理をたいらげ、空になった皿を舐めていたモモが不意に顔を上げてみせたとき、松本は違う、と直感した。


「食べなかったのは…俺が原因か」

気が抜けたように力なく笑うと、
まるでその通りとでも言うよう一つ高い声で鳴くモモ。

猫に限ったことではないが、動物は人間の心に敏感なのだと言う話を聞いたことがある。

「俺、そんなに寂しそうだった?」

話しかけてみるも気ままな女の子はそ知らぬ顔で松本の足元をすり抜け、リビングのソファにゆったりと寝転んだ。





程なくして帰ってきた櫻井が玄関をガチャっと開ける。
その途端、モモがすかさず足元へ絡みつき存在を主張し始めた。

「お、モモさん、ただいまです!ってあぶね!踏みそうになるから、ちょっ、ちょっと離れて」

櫻井の両手には、出て行ったときの倍以上に増やしていた荷物。
その中身はほとんどがCDなどの音楽関係で、その他のどれもが彼の愛用品ばかり。
満足そうにそれを自室に運ぶ櫻井。
松本はその背中を眺めながら、この人はここを出て行くつもりなんか当分ないのではないかと苦笑しつつも、どこか安堵の気持ちで肩を下げた。