仕事を終え、会社から外に出た櫻井。
空を見上げ、極短いため息をついた。


「聞いてないよ。雨降るなんて」

女心と秋の空。
答えは、どちらも常に変わりやすい、だ。

そんな事考えてる場合じゃなかった。
しかも今は真夏だし。

傘を持ってこなかった自分を心底後悔した。
会社で少し待って小降りになってから出てもいいかなとも考えた。
だが、今夜は店の予約がかなり入っていると松本から聞いているを
それならば忙しい彼の負担を少しでも減らすため、早く家に帰って家事をやっておきたいと思ったんだ。

あの異臭騒ぎから、家事を殆どやらせてもらえないため、櫻井の心はますます焦っていた。

タクシーを使おうにも走ってすぐの距離ということを考えると、家が遠い同僚にそれは譲ってやろうという気持ちになる。
近くのコンビニで傘を買おうにも、みな発想は同じらしく売り切れだった。
しばらく考えた結果、自分の仕事鞄を頭の上に載せて雨の中へと飛び込んだ。

雨は容赦なく櫻井の体を濡らす。
会社を出て一分と経たないうちに灰色だったスーツはすっかり黒に変色していった。
しばらく大通りを走り、近道の細い路地に入り込んだ。
メイン通りと違って誰の目もなく、ほっと安心して走るスピードを緩める。

その時、櫻井は何かがかすかに聞こえた気がしてぴたりと足を止めた。
少しの間を置いて再び耳に届いたのは、聞き覚えのあるものだ。
そこには汚らしいダンボールが転がっており、その中に、ずぶ濡れになったタオルと小さな小さな白いカタマリを見つけた。
そのカタマリを両手でそっと包むと、できる限りの優しい力でゆっくり持ち上げる。

白いカタマリは小刻みに震えては、弱弱しい声で「にゃあ」と鳴く。
その体はすっかり痩せ細っていたが、まだしっかりと温かかった。
これ以上濡れないように、と背中を丸めて隠すように抱え込む。
そして鞄を脇に挟み、櫻井は残りわずかになった家までの距離を全力で走った。

家に着いて準備中の店のドアを開ける。
二階の住居へ直接繋がる外の玄関もあるが、裏手になり家に入るのに時間がかかる。
少しでも早く温めてあげたいので気にしてはいられなかった。

レジのところでお金の計算をしていた二宮と目が合う。
彼の目は驚きで大きく開いた。
その横をすばやく通り抜けて厨房の脇を通ると、予想通り二宮と同じ反応をしてくる二人の料理人。
とりあえずそんな三人に、「ただいまっ!」
と投げ台詞のように言って、櫻井は二階へつながる階段を駆け上がった。

後ろで松本が何か叫んでいたが、今の彼の耳にはその声が入る余裕などない。
中玄関で靴を脱ぎ捨て、お風呂場に直行する。
そして今までの行動速度を急に落とすと、棚から白いバスタオルを取り出して胸の中にいた子猫をふわりと包み込んだ。

寒いのか?
それとも怖いのか?
子猫は小さな体を未だ大きく震わせている。
床に座り込んだ櫻井は、まるで壊れ物を扱うかのように水滴を丁寧に拭いていった。

はじめて見たときには真っ白なのかと思われた子猫だったが、こうしてきちんと観察してみれば左の耳だけがオレンジ色の毛色をしている。
生まれて間もない身体は、両手のひらにおさまるほど小さい。
なんとかこの動物の震えを止めたい一心だった櫻井は、身近に迫る足音に少しも気付いていなかった。