玄奘三蔵は一応、西遊記の主人公なのです(・ω・)ノ
主人公なのですが…
西遊記の中での三蔵法師は、
度々腰を抜かすなど、臆病な面が描かれていたり。
悟空、八戒、悟浄とは違い、
金蟬子の生まれ変わりではありますが、人間なので、妖力が無く。
法力はわずかであるため、妖怪の仕掛けた策略や罠に簡単に引っ掛かり。
そのたびに悟空を破門にしたり、敵に捕まったり、生命の危機に瀕する、という事を繰り返すのです。
勧善懲悪の連載物語には、お約束ごとがあります。
例えば水戸黄門。
悪者は印籠を見せられて、やっつけられるのです。
しかも、その、印籠を見せる時間もきまっていたそうです。
それから、ヤッターマンでは、悪のドロンボー一味は勝っても負けても、お仕置きがあるのです。
西遊記のお約束ごとと言ったら、
『三蔵法師が妖怪に騙されて、悟空を破門し。
でも、悟空はお師匠を見捨てられずに助けるのですが、妖怪を痛めつけすぎて、お師匠様にお仕置きされる』
というのが、物語の最初の頃で。
中盤からは、
『お師匠さまが妖怪に騙され、「お師匠さまは慈悲深いからしょうがないよね」と、悟空たちに助けられ、悟空にたしなめられる』
…という、パターンではないでしょうか(笑)
さて。
西遊記では、
高僧と言われている三蔵法師が、結構人間臭く…俗人ぽく書かれている本があります。
長安を恋しがったり、
今日の目的地が遠いと愚痴をこぼしたりする場面があったり。
乱暴者の悟空の事はかなり疑うのに、
お調子者の八戒の讒言や、
人に化けた妖怪は外見を見ただけですぐに信じてしまうなど、
聖人と言うより、
人間の持つ弱さや矛盾が読み取れます。
さらに、女人国では、その川の水を飲むと子を宿すと言われる子母河の水を飲んで妊娠し、大変に焦り、
「どこかに医者はいませんか? 堕胎薬が欲しいのです」
という、仏に帰依した人として耳を疑うような発言もあったりします( ;´Д`)
ただし、こういった人間の弱さが出ている三蔵法師は、古いタイプの西遊記にみられるそうで。
強さや破天荒っぷりなど、悟空の活躍が強調された結果。
西遊記成立以前の三蔵法師のように、慈悲深いけど、強く、逞しく、かっこいい主人公である必要がなくなってしまったのです。
また、歴史上の実在の人物が多数登場する配慮からか、三蔵の生い立ちの部分も書かれなくなりました。
なので、元の時代に書かれた西遊記を除いて、実際的な主人公は孫悟空となっているのです。
三蔵法師を主人公とする古い西遊記に多く見られる、三蔵法師の弱さ(脇役の悟空が三蔵法師を諌める場面もあったりするのですが)は、
主人公がひたすらに強い孫悟空に移っていくにしたがって、
三蔵法師は徳の高い聖人で、法力も弱く、非力な人間としての面がかなり強調されていき、
俗人的な弱さ…想像していない出来事にオロオロしたり、ただただ自分だけを守ろうとする部分は削除されていきました。
その代わり、
『人であれ、妖怪であれ、命は奪ってはいけないもの。
人であれ、妖怪であれ、その言動を疑ってはならないもの。
人であれ、異形のものであっても、困っているのなら助けるもの』
というような、とてつもなく尊大な慈悲の考えによる言動に、悟空たちが振り回されるようになりました。
特に、旅に出る前までは、
欠点が一つもない聖人・聖僧として描かれています。
実際の玄奘三蔵は色白で、イケメンの、ガタイのでかい青年でしたが、
大変に慈悲深い高僧でした。
でも、インドに着いた時、40人いた弟子は全て亡くなっていて…
…人間とは、こんなにも儚く弱い生き物だったのかと、「大唐聖域記」を読んだ者すべてに思い知らせたのでしょう…。
清らかで、慈悲深いーー心は強いけど、
自分の身を守る力は弱い…という部分が…
…悟空のような乱暴な妖怪にさえも、気をかけ心を配る姿に、
「お師匠さんを護りたい!」
と、悟空に心から言わせる様になる
慈悲深い三蔵法師のイメージが、徐々に強調され。
現代の西遊記の形になったのかもしれませんね。
つづく。