仕事帰りの街歩き ・・・ | 大阪ミナミの山小屋(別館)だより

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世間が、コロナ・コロナ と騒いでる内にも

季節は移ってますなぁ ・・・

 

大阪でも造幣局の “ 桜の通り抜け ” が中止されて

静かに 桜の花の季節も終わろうとしてますわ。

 

で、ここらで

仕事帰りに市中で見つけた桜の便りを うp してみます。

 

 

 

4月10日

 

 

 

 

 

 

人通りも少なくなった御堂筋 ( 瓦町辺り )

 

 

 

【 御霊神社 】

 

御霊神社は、大阪府大阪市中央区淡路町にある神社。正面鳥居の扁額は御霊宮と表記。なお、当社は御霊神社という名称ではあるが、御霊信仰とは関係がない。

Wikipedia より

 

御霊神社は古来大阪市の船場、愛日、中之島、土佐堀、江戸堀、京町堀、靭、阿波堀、阿波座、薩摩堀及び立売堀、長掘の西部、南北堀江の西部等旧摂津国津村郷の産土神として、信仰の中心になっていました。

神社の創立は、太古大阪湾が深く入り込んで海辺はぬかるみ、芦荻が繁茂して圓江 ( つぶらえ ) と云い円形の入江に創祀された圓 ( つぶら ) 神祠に始まり、嘉祥3年 ( 850 ) の 『 文徳 ( もんとく ) 実録 』 に八十嶋祭 ( やそしまのまつり ) の祭場が圓江で、そこに創祀されたのが圓神祠とされ、800年代後半の創建とされています。御神威高く、上古 天皇御即位の大嘗祭に続く八十嶋祭に預かり給い、後に土地が次第に固成して村を形成し、その名も津村 ( つむら ) と転訛しました。

 

豊臣秀吉公の大坂居城と共に政治経済の中心地として発展し、諸大名が来集してその崇敬も厚く什器の寄進も相次ぎました。

中でも石州津和野藩の祖亀井茲矩候が邸地を割いて寄進されたので、文禄3年 ( 1594 ) 境内の小祠乾八幡宮と源正霊神とを本殿に合祀して圓江 ( 現在の靭 ) から現在地に鎮座しました。寛文年中御霊神社と改称、元禄9年 ( 1696 ) 御霊大明神と御贈号、宝暦3年 ( 1753 ) 9月正一位の神階を授けられました。

 

また、伏見宮家より神輿修復の御寄進があり、幕府も城代巡見社として崇敬、明治6年 ( 1873 ) 郷社に昇格し、大正2年 ( 1913 ) 府社に列し、商業金融の中心地の鎮守として商家の崇敬が厚く、お弓神事、火焚神事や夏祭のお旅所への神輿渡御列淀屋橋から大川筋を下博労御旅所へ船渡御神幸)の華麗さは浪速名物の一つに数えられ現在に至っています。又、江戸時代大坂三十三か所観音参りの三十三番礼所でもありました。

 

江戸時代までは、神仏習合で 「 神宮寺 」 という神社に付属して建てられたお寺がありました。御霊神社にも神社とともに 「 宝城寺 」 と言われる神宮寺が併設されていました。

近松門左衛門の 「 曽根崎心中 」 冒頭にも登場し、西国三十三か箇所霊場めぐりにならい、大坂にも寛文年間に 「 大坂三十三観音霊場めぐり 」 がつくられました。一番札所・太融寺から時計回りに、第三十三番札所である御霊神社までの寺社をめぐることにより、西国三十三ヶ所を遍路したのと同じ御利益があるとして、庶民の信仰を大いに集めました。

御霊神社 HP より

 

 

文禄3年 ( 1594年 )、因幡国鹿野藩主の亀井茲矩から船場の自邸敷地の一部を寄進され、境内の小祠乾八幡宮と源正霊神を本殿に合祀した上で、 圓江から船場の現在地へ遷座する ( 亀井茲矩はこの後、因幡高草の白兎神社を再興した ) 。

 

明治時代に入ると神仏分離令によって、御霊神社と宝城寺の境内を分けることとなったが、後に宝城寺は廃寺となった。

Wikipedia より抜粋

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

1884年 ( 明治17年 )、人形浄瑠璃の劇場 「 文楽座 」 が境内に開設。「 御霊文楽座 」 として、近世文楽における黄金期のにぎわいを見せる。しかし、1926年(大正15年)11月に御霊文楽座から出火、本殿とともに焼失した。

 

1930年 ( 昭和5年 ) に社殿を再建するが、1945年 ( 昭和20年 ) 3月13日・14日の第1回大阪大空襲により、再び全てを焼失した。1957年 ( 昭和32年 )、現在の社殿を再興する。1959年 ( 昭和34年 )、鳥居玉垣を再建。その後、年を追って往時に勝る威容を整備しつつある。

Wikipedia より

 

文楽座之跡の碑

 

大阪市の建立で 「 御霊文楽座跡 」 の石柱が、また大阪北浜船場ライオンズクラブの手で 「 文楽座之跡 」 のブロンズ製床本型の記念碑が1974年 ( 昭和49年 ) 11月3日につくられた。

 

 

 

 

副業の仕事帰りに、何気なくブラブラ ・・・

ふと見付けた桜の花につられて、

ふらぁ~っ と立ち寄ったんが御霊神社。

 

無機質なビルに囲まれたビジネス街の一角、

新しモン好きの現代に

大阪の歴史を垣間見れましたわ。

 

 

 

 

御霊神社の斜め向かいの三階建ての民家 ( 恐らく 木造 )

登録有形文化財に指定されてました。

 

幾多の災害を乗り越えて来た歴史的建築 ・・・

タワーマンション、高層ビルも結構やけど、

日本古来の木造建築技術を見直すのもエエんやないやろか。

 

 

 

 

御霊神社から北御堂の裏を通り ・・・

 

本町通、中央大通を渡って、

南御堂の直ぐ裏手の ・・・

 

以前にも訪れたことのある “ 坐摩神社 ”

 

 

 

 

初めての方には、まず読めないであろう ・・・

坐摩神社 ( いかすりじんじゃ )

 

 

 

 

【 坐摩神社 】

 

大阪市中心部の船場にある古い神社で、同地の守護神的存在で。南御堂の西隣に位置し、境内は東向きで、入口では大小3つの鳥居が横に組み合わさった珍しい 「 三ツ鳥居 」 が迎える。

住居守護の神、旅行安全の神、安産の神として信仰されています ・・・

 

 

残念ながら、ここは もぅ 葉桜でしたわ。

 

 

 

 

 

 

で、南御堂から2筋ほど南 ・・・

初詣では、小屋番も長らくお世話になっている “ 難波神社 ”

 

 

 

 

ウィルスの感染に、どれくらい影響があるのかは判りませんが、

神社も時短ですわ ・・・

 

 

 

 

ここは、境内西側の博労稲荷の辺りに

桜の樹がまとまって植樹されてます。

 

既に、ソメイヨシノは、落花盛んでしたが ・・・

 

 

 

 

 

 

 

八重桜は、まだまだ見頃!

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

ここ数日は、桜吹雪が楽しめそうでしたなぁ ・・・

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

今日のお昼は、カツ丼 ・・・

 

 

 

 

 

 

 

テイクアウト や お弁当、デリバリー が

顔を利かすようになった今日この頃 ・・・

 

賛否はあるものの

やっぱ、こうして営業してくれるんは、有り難いですなぁ。