日曜日に訪れた町田市立国際版画美術館で開催されている谷中安規展。
その図録から、谷中安規とその作品を皆さんにご紹介したいと思います。

215頁にわたる立派な図録には、谷中安規作品がほぼ完全網羅されています。
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この中から数点の作品をご覧頂きながら、ご存知の方が多くはない谷中安規という、私の大好きな芸術家をご紹介したいと思います。
作品をご紹介とはいえ写メで撮ったものなので、ピンぼけだったり、スマホの影が写り込んだり、室内の照明で部分的に光っていたり、なによりほとんどが歪んで写っているのですが、スキャナーを持っておりませんものでご容赦下さいませ(;^_^A
なお、色を変えて斜体字になっている文章は図録の引用です。


谷中安規(たになかやすのり)は1897(明治30)奈良県で生まれます。
父は事業家で裕福な暮らしをしていたようですが、7歳で実母と死別します。

父は、母が生きていた時から女遊びの激しい人で、内縁・再婚含め次々と後妻が変わり、また転居も多く、若い頃の谷中の精神不安定の因になっていると思われます。

「妄想」と名付けられたシリーズは、妄想癖のある谷中の脳裏に浮かんだイメージを木版画にしたものです。
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不気味です( ;´Д`)
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このグロテスクさはビアズリーの影響もあり、ロマンチックな悪魔主義を標榜する「眩法主義」を提唱しました。
とはいえ、谷中以外に「眩法主義」に賛同する者は無かったようですが(;^_^A

「ムッテル ショウス」
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魔女や魔界のキャラクターは谷中作品の常連モチーフです。


第一次世界大戦が終わり、世の中は急速に近代化し、一時代前には無かったロマンが谷中をも魅了していました。

その一つが映画であり(「シネマ」)
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ロボットであり(「実験室」)
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歓楽街であり(「ムーランルージュ」)
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変わりゆく街並みでもあります(「動坂」)
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色が付いているのは手彩色です。
なので、色違いバージョンがたくさん存在します。


谷中作品の魅力は、独特のモチーフと白と黒のコントラストだと思います。 

迷いの無い線の迫力(「自転車A」)
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懐かしいような切ないような、不思議な気分にさせられます(「祭り」)
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一見不可解な、幻想的なモチーフが、卓越した画面構成力で描かれています(「蝶を吐く人」)
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この「蝶を吐く人」は作品制作する谷中の姿とされています
蝶は谷中がよく用いるモチーフで、神秘的な存在、あるいは慈しむべき存在として画中の人物の眼差しを集めています。
とするとこの絵は、蝶のような作品を生み出したいという谷中の制作への想いを示していると考えられます。


晩年の作品は穏やかで、優しい風情です。
晩年と言っても没年35歳ですが(~_~;)

「童子騎象」
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童子も象も丸々と愛らしく、初期のグロテスクさは影を潜めています。

「童子図 鷲」
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どこか牧歌的で微笑ましい版画。
色彩も穏やかで落ち着きを感じます。

「若き文殊と友達」
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幼少期に親しんだ奈良の長谷寺、真言宗豊山派の私立豊山中学校に通い、身近であった仏教が作中に滲み出ています。
ちなみに我が家の旦那寺も真言宗豊山派です。


「自画像」
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谷中の作品を愛する文化人はたくさんいて、出版の際に装丁や挿絵を谷中に依頼する作家も少なくありませんでした。
私が大ファンの内田百閒はじめ、日夏耿之介や佐藤春夫、堀口大學、高橋留吉、石川道雄、萩原朔太郎、西川滿、坪野哲久、野田宇太郎ら文芸作家、永瀬義郎や前川千帆、恩地孝四郎、平塚運一、料治熊太、棟方志功、小林朝治、関野準一郎ら版画家たちが谷中の芸術の理解者でした。
さらに版画荘の平井博、小山書店の小山久二郎ら出版関係者も谷中の挿絵・装幀を気に入り、数々の谷中挿絵本・装幀本を出版しました。

にもかかわらず、谷中は35歳の若さで餓死します(ノ_<)
いくら戦後間もない食糧不足の時期とはいえ、病気でもない大の男が餓死するのは滅多にあることではありません。
百閒はじめ、頼れば頼れる先もいくらもあったのに。


そんな谷中について、町田市立国際版画美術館学芸員の滝沢恭司氏が図録の巻頭でこう述べています。

谷中安規は少なくとも数えで37歳(1933年)になるまで、中学時代の友人や知人の家で居候生活をし、喧嘩などして追い出されると浅草の木賃宿で寝泊まりしたという、およそ生活力のない人だった。
その後三畳一間のアパートに住んでからも、眠くなれば眠り、腹がへれば伯夷・叔斉を手本として生米や生にんにくを齧り、味噌をなめて空腹をしのぐという、常人とはかけ離れた生活を送った。
おどろと乱れた髪、よれよれの着物で幽霊のように街中を歩き回り、しばしば警官に誰何された。
アパート暮らしを始めたその年に知りあった内田百閒は、そんな谷中を「風船画伯」と名付け、「風船の繋留索が、しょっちゅう切れて、どこかを浮動する」(「風船画伯」『心境』1934年7月)などと書いて雑誌に紹介した。
当の谷中本人の人生観は『谷中安規草稿(ノート)』に書かれた、二幕の「こまりもの」という自作の戯曲の登場人物に語らせた、次の言葉に窺い知ることができる。
「目的なんてあってたまるものか。機械のやうにみんなは
    うごいてゆく機かいのやうに、同じことをくりかえす
    ただそれだけぢゃないか。
    機かいの方則にしたかはねは人間はひあがってしまふのだ。
    そんなキカイの方則はごめんだ。
    僕はてうてうでまっていたゐのだ。
    未来も過去もない、ただこの一瞬にすごしてゆく
   この現在のなかだけでだ。
   夢見てゐると云ふのはどうしてわるいのだ。
   大人が子供であってはならないとはどなた様のごたく
   宣だ。
   就職口、ぼくはこの字がきらひだ。灰いろじみた、陰きな
    屋たい骨の下でうめいてゐるやうな不快さだ。」
こうした人生観を貫き通した末路は、「餓死」だった。
   

奇人変人の域を超えています(;^_^A
居候先を追い出されるのも、夜通し激しく踊りまくったり、興が沸けば座卓でも机でも御構い無しに版木代わりに彫ったりするからでした。
画料が入っても無計画に使い果たすし、もちろん結婚なんて出来るはずありません。
狂ったように描き、走り抜けた35年だったのでしょう。


私は「狂」と呼ばれる芸術家がむしょうに好きです。
そういう人だけが、常人の思いもよらない創造が出来るのだと思います。
画狂人北斎、太蘇芳年らに若い頃から夢中になりました。
真の芸術家は、まともな社会生活など送れない、まともに社会人や家庭人が務まる人は真の芸術を創りだせない…と思っています。
谷中安規は、その奇矯な生き様だけでも充分私を惹きつけます。

幼い頃から絵を描くのが好きだった私、画家になろうと思ったこともあるし、進路として勧められたこともあります。
でも、私は美術系の進路を選びませんでした。
私には無理だと思ったからです。
私には湧き上がる創作意欲がありませんでした。
寝食を忘れて打ち込むほどの情熱が見当たらないのです(。-_-。)
滾るマグマのような、魂が揺さぶられるような、創作への情熱が私の中には無いのがわかっていたからです。

芸術の道を選ばなくて大正解でした。
しかし、だからこそ、谷中安規のような生き方に強い憧憬を抱きます。
たとえ35歳の短い人生を餓死という不遇で終えたとしても、後世の私たちの胸を打つ作品群を遺せた谷中安規を不幸には思えません。



谷中安規展は11/24まで町田市立国際版画美術館で開催されています。
私の記事をご覧になって、興味を持たれた方、是非町田市立国際版画美術館に足をお運びくださいませ。
紅葉が色付き始めた芹が谷公園も気持ち良いですし、三連休のお出かけにオススメです(^ー^)ノ!






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