月に10本前後の映画を見る。

年に120本前後の映画を見る。

楽しい作品もあれば、退屈な作品もある。

ずっと忘れないだろうと思う作品もあれば、忘れようとしても思い出せなくても一向に構わない作品もあるけれど、痺れるようなラストシーンで幕を閉じる作品には、実は年に一本も出会えない。そんなオリンピックとかワールドカップとかなんやかんやで年に一回は表れて消えていく各種の流星群のような作品に先日出会った。

『ダラス・バイヤーズ・クラブ』

語弊があるかもしれない。

だが、病は人生に意味を与える。

その、意味を知りたくて私は難病ものと呼ばれる作品を見ていると言い切ってもいいかもしれない。

『ダラス・バイヤーズ・クラブ』の主人公も余命を宣告されてから意味のある人生を歩き始める、いや、這いつくばるようにして進み始める、死なない為に、国に認可されていない薬を入手する為に、その薬で金儲けを企てるようでいて結局薬害で苦しむ人たちがむざむざ死んでいくのを阻止する為に、彼は生きる、その一つ一つの行動が一つ一つ意味となって積み重なって価値となる、だが、その価値の高く高く積み重なった所で彼はふと呟く、

「死なない為に生きているだけで、生きている気がしない」

その時、人生の持つもう一つの側面に気が付く。

無意味の意味。

病を得る前の彼の人生にあったもの、酒、ドラッグ、女、賭け事、そんな怠惰な日々をはっきりと無意味だと思った。やがて、無意味に埋もれていた能力が病を契機として開花されていく、その眩しい程の命の輝きに逆照射され益々無意味となったはずの場所にあったもの。

それを幸福と呼ぶ勇気はない。

ただ、意味と幸福は同意語ではない。

只、生きている。

それだけの日々の価値。

それを愛しめた時、人生は初めて一つの輪となる。

意味も無意味も、まぎれもなく彼の人生だと。

映画の終盤、新薬の使用を求めて彼は裁判に挑み、敗れ、家路についた彼を仲間が迎える、勝つことではなく、戦うことを称える拍手で、、しかし、映画はそこで終わらない、何故人は牛に乗るのか、乗る必要もないのに、私にはその意味が一生分からないだろう、たが、彼はカウボーイ、愛して止まないロデオに再び挑む、牛に乗って、呼吸を整えて、いざ、暴れる牛の上で身をよじるカウボーイ、その躍動の瞬間、物語は終わる。

命を丸々刻み付けて。

そして、余韻を引き受けるエンドロール。

映画は映画であることに意味がある。

しかし、野暮を承知で蛇足的に語るなら、あの一瞬を切り取る、それこそが、多分、映画の意味なのだろう。





蛇足。

明けましておめでとうございます。

昨日が旧正月らしので新年のご挨拶をしてみました。

今年も、ペースは兎も角、ちょっとづつでもブログを書いていけたらと思っています☆