前々から不思議だったんだけど、ミュージカルを好きな人たちってどうして「突然歌う」とか「突然踊る」とか、そういう感想に対して全面否定するのかしら。だって、歌うにしても、踊るにしても、感情の増幅表現なんだからその前後の感情と比較して突然とか唐突とかそういう見方も正しいし、意識的にしろ無意識にしろそういう見方を排除したミュージカルは未だに大嫌いだよ。わたし。

そもそも、ディズニーでミュージカルを嫌いになった人間としては宝塚を見るのがつらくてつらくて、そんな折、妹が

『思い切ってオペラを見てみたら』

そんなウルトラCな助言にイヤイヤ流石にそこまではと思いながらもそれならばと過去の名作といわれるミュージカルを片っ端から見始めて驚いたのは、その作りの丁重さ。一番最初に見た『巴里のアメリカ人』も次に見た『雨に唄えば』も、例えば二階の住人の弾くピアノに乗せられて歌う、例えば想像の世界で踊る、その一つ一つに理由を付けることにより飛躍した表現と思わせないその作りの丁重さによってわたしはミュージカルの世界に導かれた。その次に面白いと思えたのが『オズの魔法使い』や『ラ・マンチャの男』つまり、ここではない別の世界という設定によって歌うこと踊ることを楽しめたし、その合間合間に出会った『キャバレー』や『バーレスク』はその名の通りキャバレーの舞台で歌われる、バーレスクの舞台で踊られる、そういうショーナンバーを描いたミュージカル映画の中で心を掴まれたミュージカルナンバーはある種逆説的ではあるのですが『ショーより素敵な商売はない』の中盤、ドナルド・オコナー演じるティムがマリリン・モンロー演じるヴィッキーを部屋まで送ったあと彼女を想って歌って踊る、彼がショースターである設定と、特殊映像と、相まって恋するときのあの高揚感幸福感浮遊感が余すところなく描かれたそれこそがミュージカルがミュージカルである意味つまり物語と歌と踊りが一つになった時届いてくる場所がこの胸の奥にあると知った。このナンバーはまさに突然歌って、突然踊る、しかし、それこそが正解として届いてくるのは、作り手の側が分かっているから。それがどこに届くのか、どこに届けたいのか、どうやって届けるのか、それらを熟知した上で届くように作っているから。

その後も、新旧織り交ぜてミュージカル映画を見続けて分かったことは、ミュージカルはミュージカルの一言では括れない世界。まるでモザイクのように一つの絵でありながら複数のピースで成り立っている。そのことに気がついたとき、同時に私が嫌っていたのはミュージカルではなく形骸化したミュージカルつまり何故歌うのか、何故踊るのか、それに対してなんの答えも、思想も、工夫も持たない作品を嫌っていた。これは、私の答え。誰もが同じ答えにたどり着くとは限らない。ただ、私が宝塚に出会ったようになにかに出会ってこのモザイクの世界に入ってくる人もいるかもしれない。なのに、その人たちの素直な感想「突然歌う」「突然踊る」に対して全面否定して、マウンティングする。正直、かつての私はその手のマウンティングに対して「だからなに?」としか思わなかった。それらがミュージカルの理解の手助けになったことは一度もなかった。宝塚への想いだけを原動力にここまでたどり着いた。この道程は特異すぎて誰かの道しるべになるとは思わない。でも、かつての私のような人たちに対して北風のような、吹けば吹くほどコートをきつく閉じるような、心を閉ざすような言葉ではなく、どれだけちっぽけでも、この素敵な世界を明るい気持ち見てもらえるような、太陽みたいな言葉を無限の広がりをもつ電脳空間の出会いに向けて放ちたい。

 

 

 

 

蛇足

やっぱり、あと一言。

《楽しめないのは楽しめない方が悪い》

この思考はエンタテイナーのタブーです。

もし、それを言うならばミュージカルはエンタテイナーの看板を降ろすべきです。前衛芸術と名乗るべきです。

分かる人にだけ分かればいいのなら。

 

人工知能は人類の脅威になるのか。

そんな問いかけに出会うたびに《大丈夫だよ、私たちはクリストファーに出会うだけだもの》と真顔で思うくらい『イミテーション・ゲーム』が好きだし、なんなら、コンピュータにまつわる全てはたった一つの恋物語だとかなんだとか、小学生の時分、毎日のように遊んでいた友達の飼っていた頭の悪い柴犬の散歩にいった公園の木々は月の光に黒々と伸ばした影に入り込んで、

「木の影と私の影がひとつだね」

その不思議を呟けば、

「ごめん、そういうの分からない」

困惑を隠そうともしない友達をさらに困惑させそうなことばかりを思い思いて、四半世紀が過ぎて、こんな大人に私はなったよ、ともちゃん、お元気ですか。

 

 

 

 

 

 

そっか、キャロルも、また、なにが欲しいのか分からないから全てに頷いて、でも、頷いた先に欲しいものなんて、でも、、頷いてしまえばそこから動けなくなって、だから、その不幸を免罪符に人を傷つけるけど、可哀想なのは自分なのだと思考は停止しているから、誰を、愛を、どれ程、無残に切り裂いたかも分からないまま、それが報いと分からないまま、新たな不幸の始まりにまるでコインの裏或いは表のような彼女と出会って、どちらも頷いた者と頷く者と触れ合えば生まれるのは愛だろうか。逃避行から連れ戻されて、元の生活に押し込められて、壊れそうになったキャロルは一人彼女の姿を伺いにいく。そして、初めて責任を取る。頷いてしまった過去に対して、免罪符で切り裂いた愛に対して、停止した思考が引き起こした全てに対して、罪には罰を、そして、痛みと引き替えにそこから出て行く。与えられる人生から選び取る人生へ。その先で、彼女も、また、痛みと引き替えに選び取った人生と人生が出会ったときに始まるのが愛ならば、この映画の主題は同性愛だろうか。女と女が出会い、惹かれ合い、結ばれ、引き離され、再び出会う。確かに粗筋を追えばラブストーリーだけれど、事の起こりは、離婚調停中に昔の恋人と戯れて、そもそも、ずっと浮気してたからね、その挙げ句、若い女たぶらかして、家に連れ込めば、そりゃ、旦那さんも怒りますよ。人として最低でしょ、男も女も関係ないでしょ、同性愛も関係ないでしょ、そんなの関係ねぇ、はい、オッパピーって話ですよ。それまで、浮気しても、浮気しても、浮気しても、その相手が同性だったとしても、それを理由に母親失格とか言わなかった旦那さんに対してなんて酷い仕打ちなの。その上、審議までの間娘に会えない寂しさを紛らわすために若い女と旅に出て、肉他関係になって、それがばれたら、恋人を置き去りにして元の生活に戻るって、お前さんが不幸なのは同性愛者だからかい?ゲス野郎だからかい?ゲスだからだよっ!!

そのゲスを描くため設定なのではないかと。

1950年代も。

女と女と組み合わせも。

つまり、キャロルや彼女の置かれている女性であるということは結婚して子どもを産んで家を守る以外の選択肢もなくはない、みたいな状況は、現代では現実味に乏しく、かといって、それ以前であれば、こめんなさい、私、女性史にもフェミニズム史にも疎くて、『風と共にさりぬ』や『アンナ・カレーニナ』等々今まで読んできた或いは見てきた作品を元に推察するならば、もっと、強固に性と役割が固定化された時代では、キャロルが或いは彼女が選び取った家を出て、仕事を持って、自立するという選択肢が成り立たない。それと同じく、例えばキャロルが、もしくは彼女が、どちらかが男性であった場合、頷く相手が変わるだけ。それでは、人生の選択肢が限られている、その不幸を免罪符に他者を傷つけている自覚もないゲス野郎という状態が変わらないままでは、自分の行いにひいては自分の人生に責任を取れないようなやつは誰を愛することも誰に愛されることもない。そんな、夢も希望も打ち砕いたところにある普遍性に、たった一つの答えにたどり着けない。そう、これは、愛と人生の関数。ならば、1950年代という時代設定も、女と女と組み合わせも、最適な例題の為のピースにすぎない。今までの同性愛を扱った作品の多くは女と女と或いは男と男と、その間に芽生えた感情もまた愛であると証明するため痛々しいほどにラブストーリーを描いていたけど、もはや、誰が誰を愛そうと、それを愛だと証明する必要などない。どんな愛も人生とは切りはせない。その先の普遍性を描く、そんな時代が始まっているのかもしれない。