想像のレッスン 鷲田清一




なのにどうして、性懲りもなく

あのひとでなければ、いまでなければと思いつめるのか。

それはたぶん、わたしがそこの賭けられているからだ。

恋わずらいが人生いくつになっても治まることがないのは

だれかとの恋が自分がここにいる

その確かな理由をあたえてくれるからだ。

「あなたにずっとそばにいてほしい」

「あなたがいないと生きていけない」

「あなた」という形で

自分の輪郭をきちっとまとめてもらえるからだ。


これを裏返していえば

ひとは自分がじぶんである確かな根拠がみあたらないという不安を

いつもこころの奥深くに抱え込んでいるということだ。

そのことを、恋にはまっている間は忘れられる。


自分の存在が、悶えというかたちで

内からまとまり、相手の像や言葉によって

外からまとめられるからだ。

狂おしいということが、痛いということがその証明になる。



だれかに焦がれている間、やるせないばかりに

せつなさが身を包む。

が、そのせつなさも、そのひとそのものというよりも。

そのひとの微笑みや後姿、脚の組み方、指の冷たさ

といったものに喚起されるものだ。

イメージの断片がせつなさのスィッチをいれる。


ひとの存在そのものよりも、そのスタイルに感応してしまうのだ。

こんどはわたしのスタイル。

つまりわたしの想像力のたちである。

つねにある決まった場面でエロティックな情動が発動しだすのも

想像力にはお気に入りのスタイルがあるからだ。


だれかを心底愛していると思いつめているときも

その人自身をあいしているというより

だれかある対象をだしにして

じぶんのお気に入りのあるスタイル

あるシチュエーションにはまりたがっているのだ

という想いを禁じえない。