チラッと書いてましたが、この夏は、アメリカの師匠が絡んだ複数の事が重なって、色々と巻き込まれて、振り回されてしまい、8月1ヶ月は波乱の月となってしまっておりました。。。年始から、小休止はあったものの、結局7ヶ月に渡り裏方として奔走して、"かなり"疲れた所に、アメリカへ帰国した師匠の身に、何か別の大きな事が起こったらしく、急に、"暫く書いて来ないで欲しい" と言われ、自分のストレス許容範囲限界を超えてしまいました…
基本的に、私は"巻き込まれた" お手伝いの身、なので、巻き込んだ人達に対して怒りが収まらなくなってしまって…それはそれは、凄い剣幕だったそうです(^^;)アドレナリン全開だったんだろうと思います。我ながら、誰かにこんなに怒った事は人生で殆ど記憶にありません(^^;) 8月半ばになって、やっと、自分の状態に気付き、手当てをする必要性に気付けて、お医者さんに、頼み込んで(笑) 睡眠薬を、普段のにプラス頓服として処方して頂き、鎮静化を図りました。又、色々良きアドヴァイスを周りの方々に頂けたのも効いてくれ、今はかなりマシになってくれたようです。
そして、落ち着いて来たら、自分に意外な変化が現れ出して来ているようです。端的にまず言えば、今まで出来て無かった、"師匠の立場になって考える" という事が出来るようになって来ているようなのです。この半年と、留めの師匠の突然の態度の変化。10年前に起こった、アメリカで1番キツかった出来事が思い出されて、色々な思いが錯綜しました。このブログでは、詳しくはまだ書いていませんでしたが、当時、周りの教授達の師匠への嫉妬と攻撃が原因で、私だけ内部受験で次の課程への進学受験に故意に落とされてしまったのです。前に書いてました"拒絶過敏", "自己評価の低下" とはとても相性の悪い一件で、物凄く深い傷を追ってしまい、心の中は地獄のような日々を過ごす事となりました。師匠は立場上、絶対に私に何があったか真実を口にする事は出来ません。その中で、師匠は必死に私をサポートしようと努めてくれていた、その想いを、今頃理解出来て来たようなのです(^^;)前にも書いていたように、アメリカのピアノの師匠との関係が、私の病気の経過にとても大きな影響力が色んな意味であります。10年前には、師匠が私の為にベストだと信じてやってくれた、言ってくれてた事が裏目にも出てしまっていたのです。私の病気症状のせいで。師匠は当時、私の病気の事を全く知らなかったので、ちょっと危ういな、とは思っても、基本的には元気なものとして扱っていたのです。私が、どうしても怖くて、パニック障害( 当時はうつ病の併発に私自身が気付いていなかったので…)だとカミングアウト出来なかったのです。。。本当に悔やまれます。仕方が無かったとは自分でもわかっていても。師匠が、"真実は言えない。この生徒は健康だ" と思ってする事と、"真実を知らない。病気持ちで限界がある" 私には、大きな隔たりが出来、私には、師匠に胸を抉られてるように感じられる事も多々あり、師匠を慕い、必要とする気持ちと、恨めしい気持ちとが混在するようになってしまいました。人生の希望を託した、大事な存在だったからこそ、マイナス感情も余計に湧いてしまって、、、。私があの時、自分の病気の事を師匠にカミングアウト出来無かった事は、師匠にも、私にも、とても痛かったです。
当時本当に起こってた事については、病気が回復に向かうにつれて、確信を持つようになりました。自分も、もうあの時の全身血だらけのような辛さや、苦しみの感情は殆ど残って無いので、客観的に当時の事を見れるようになったのです。内部受験だったからこそわかる、周りで起こっていた色々なおかしな事が、はっきりとした証拠になります。そして、今回は、更に一段上。その状況下、そして、その後の私の病状の変化、を見ながら、師匠はどう思い、感じ、行動していたのか。急に色々と見えるようになって来ました。
その時まで、私は、師匠の元でどんどん成長させて貰っていました。今まで苦しめられて来た色んな課題点を着実にクリアさせて行ってくれて。練習も良い方向性で出来るようになり、そうすると、意欲もどんどん湧いて来ました。3年目は、サバティカルから戻って来た師匠と、更に勢い付いて勉強が進んで、5ヶ月程でも、伸び続けて、師匠もそれに凄く喜んでてくれて、門下生達にも、演奏クラス等で、その様子が良く伝わっていたそうです。その矢先に起こった出来事でした。まず、当時の師匠の反応から、師匠は、私がピアノへの意欲を無くしてしまう事をとても懸念したのがわかります。実技試験翌日に結果を聞かされ、翌週のレッスンには来るように言われました。どんな小さな曲でも良いから譜読みして取り敢えずおいで、と。ショパンの短めのノクターンを一曲持って、レッスンに行きました。その場でも感じたけれど、後でビデオで見たら、いつに無い笑顔でテンション高く、教えてるのです(^^;)当時手伝いに来てくれてた 母と、あれは気持ち悪かったね、と今でも話してます(笑) 実技試験の1週間前には、私は、2回目の修士リサイタルを弾きました。正味70分くらいの、しかも難大曲を2曲も含む、とても大変な内容でした。普通は、ちょっとレッスンお休みして、疲れを取って新しい曲に取り組む時間を取ってから、レッスンを再開するものです。でも、1年前に、別の、しかも、将来有望だった生徒が、某有名音楽院の修士課程の受験で、また自分のせいで落とされてしまい、ピアノを辞めてしまった経験があったので、私のモチベーションを保たせよう、希望を持たせよう、と必死だったんだと思います。その生徒の不合格の原因が自分だと思う、というのは、直接師匠から後に聞いた事です。
私が落ちたのに、当時40代で、学部も修士課程もピアノ演奏専攻卒で無い女性で師匠に習っていた方が、結局合格しました。アメリカでは、実は、実力さえあれば、学部関係無く、何ででも修士課程まで終えていたら、次の課程を受験出来るのです。全然弾けない訳では無いけれど、決して高い実力の持ち主では無く、実技試験前、私の躍進もあったため、その方には、ちょっと厳しいように言っていたらしいです。実は、1年半程前、師匠と初めてゆっくりご飯を食べる機会があった時に、その方みたいな人達を教える事になるとは思って無かった、と師匠が言ってたのです、、、、。ただ、その方は、音楽学で修士号を取っていて、アカデミックな分野が得意でした。博士号に於いては、演奏だけで無く、アカデミックも同じ様に重要だ。彼女はその能力が高い、というのを理由に合格させたようです。私は、病気で基本的に脳の機能が落ち気味な事、演奏で克服しなければいけない課題が山積みだったから、演奏に重きを置いていた事、等から、アカデミックの方はギリギリでやっていました。確かに、アカデミックも重要、は正論なのですが。師匠は、前には、やはり演奏が重視される、と言っていたのです。
なのに、私が落とされてから、アカデミックの事を急に押して来るようになりました。私がそこに長けて居ない事を、落として来た教授陣が突いて来てたんでしょう。師匠は、私が次年度受験するなら、博士課程で使える授業を1つ取る事を要求して来ました。別の学校を受験した時、そしてその後の私の勉強に活かす為です。でも、病気で体力が落ちてる私は、演奏に集中出来なくなるので、拒否しました。そして、本来ならもう全て終えてて、卒業出来るのに、口頭試験を無理やり引き伸ばして、卒業を1年遅らしました。師匠はそれには反対で、その辺りから、師匠とのバトルが始まりました(^^;) 留学生達の色々な事情をちゃんと理解していない師匠は、話が通じなくて(^^;)
実技試験翌日、私に結果を知らせてくれた時には、翌年またチャンスがある、頑張ろう、という感じでした。が、翌年、の秋学期、願書を出し始める頃に、他の大学も幾つか、頼むから受けてくれ、と言い出して。でも、パニック障害を抱えてる私は、飛行機に乗るのが難題でした。そして、体力も並では無い、病気で落ちている。飛行機で色んな土地へ飛んで、受験ツアーをするのは、無理だと思っていました。そして、誰にも文句を言わせない演奏をして、今度こそ、ここで受かってやる!と思っていたのです(^^;)
師匠は、本当は私にはチャンスが無いのを良くわかってるから、他の大学で進学して、チャンスを掴んで羽ばたいて欲しかったのです。自分の大学一本では、私はただ、落ちる為に受けるようなものだったのです。師匠は、自分の元から、手放そう、他へ目を向けさせようと必死だったようです。私が、どうしても、一本で行く、と言った時、師匠は強行手段に出ました。"僕は真っ当なアドヴァイスをしてるのに、そんなに言う事を聞かない生徒、もしここで受かっても、自分の門下にまた受け入れれるか考え直さなきゃいけない" と……
そこまでの課程では、"君はここから離れた方が良い気もするんだ" と言ってた事もありました。
そう、それは、全て、師匠の私への愛情故だったのです。私にはあの学校にはそれ以上の機会は閉ざされていたのです。しかも、理由は、師匠と私、つまり日本という国との縁を引き裂こうとする周りの教授達のせいで。自分の元に私がいれば、私の未来を閉ざしてしまう事になるからです。でも、疑ってはいつつも、はっきりはわかっていなかった、そして、物事を知性で客観的に判断する力が格段に弱っていた私には、全くそうは取れず。"拒絶過敏" と、"自己評価の低さ" が物凄く刺激されてしまい…
結果、うつ症状が悪化し、食べれなくなり、1ヶ月で5キロ痩せてしまいました。。。師匠は、心配で仕方が無かった筈です。実際に、"夜中に君が心配で目が覚める。僕の健康にも影響し出してる。もうダメだ。カウンセリングへ行くとか、何とかしてくれ!" と言われ…当時、師匠は別件でとてもとても大変な事を抱えてるのを知ってた私は。"その事で夜中に目が覚めるだけでしょ" とか思ってたのです、、、。何という捻くれ根性(笑)
でも、今から思い返すと、本当に本当に、私の事が心配で仕方が無くて、どうしてあげたら良いのかわからなくて、途方に暮れてたんだと思います。私のこの一件に関する個人的感情を全て抜きにして、第三者的立場から、師匠がやってた事を見る、感じる、そういう事が出来て来てるみたいなのです。
何で10年も経った、そして、その話も大分頭から離れてたのに、今頃…という感じですが、この数ヶ月の色々な事を通して、ここまでの歳月を、もっと師匠の立場から考えてみる事を覚え出し、師匠の真剣な弟子への情と責任感をヒシヒシと感じる事は、元々私を病気に追いやった、20年前の音楽高校での経験、深い深い、ほぼ致命傷だった傷、そして、その後の音楽大学での色々な経験、が更に深く癒される事に繋がってくれている感じがしています。虐待に近い扱いをされ、利用され、情のかけらも与えて貰えずに音楽の道を歩んでしまった事。教えられてた内容も酷く、物にならない所か、身体を蝕んでいた事。まだ子供過ぎて、若すぎて、気付けないまま。そして、先生の成績にならなければ、平気で捨てられる。崖から突き落とされる。学校では、透明人間扱いされる。ズタズタの粉々にされた傷。
"楽器の先生" 、しかも、実力も人間性も何もかも、月とスッポン、異次元の世界の人な先生が、別に私が自分の成績になる程力量が無くても、ただ、私がピアノが弾きたくて、音楽をやりたくてらという想いで全身全霊込めて取り組んでるだけで、師匠は、これだけの溢れんばかりの愛情を注いでくれた。責任感ゼロ、人でなしレヴェルの事をされた私だけれど、師匠は責任感の塊で、これだけ真剣に真剣に考えてくれ、そして、本当に倒れた後は、実に7年もの歳月を、既に、サポートし続けてくれている。今の私には、それが、どれだけ大変な事か、どんな意味か、前よりは良くわかります。こういう事を深く理解し、感じれる、事は、傷を更に癒す事に繋がるのは明らかです。
兎に角、大変な数ヶ月、特に8月は大嵐となりましたが…
嵐が、まだ残っている無駄な物を取り去って行ってくれてるような、そんな気がしています。既に変化は感じています。嵐になる前より、エネルギーも上がり、スッキリとクリアに世界が見え始めています。今年の秋は、良い時間を過ごせれると良いな、そんな希望が見えて来ました(*^^*)
相変わらず、長々と失礼しましたが、お付き合い下さいました方々いらっしゃいましたら、有難うございました♪
基本的に、私は"巻き込まれた" お手伝いの身、なので、巻き込んだ人達に対して怒りが収まらなくなってしまって…それはそれは、凄い剣幕だったそうです(^^;)アドレナリン全開だったんだろうと思います。我ながら、誰かにこんなに怒った事は人生で殆ど記憶にありません(^^;) 8月半ばになって、やっと、自分の状態に気付き、手当てをする必要性に気付けて、お医者さんに、頼み込んで(笑) 睡眠薬を、普段のにプラス頓服として処方して頂き、鎮静化を図りました。又、色々良きアドヴァイスを周りの方々に頂けたのも効いてくれ、今はかなりマシになってくれたようです。
そして、落ち着いて来たら、自分に意外な変化が現れ出して来ているようです。端的にまず言えば、今まで出来て無かった、"師匠の立場になって考える" という事が出来るようになって来ているようなのです。この半年と、留めの師匠の突然の態度の変化。10年前に起こった、アメリカで1番キツかった出来事が思い出されて、色々な思いが錯綜しました。このブログでは、詳しくはまだ書いていませんでしたが、当時、周りの教授達の師匠への嫉妬と攻撃が原因で、私だけ内部受験で次の課程への進学受験に故意に落とされてしまったのです。前に書いてました"拒絶過敏", "自己評価の低下" とはとても相性の悪い一件で、物凄く深い傷を追ってしまい、心の中は地獄のような日々を過ごす事となりました。師匠は立場上、絶対に私に何があったか真実を口にする事は出来ません。その中で、師匠は必死に私をサポートしようと努めてくれていた、その想いを、今頃理解出来て来たようなのです(^^;)前にも書いていたように、アメリカのピアノの師匠との関係が、私の病気の経過にとても大きな影響力が色んな意味であります。10年前には、師匠が私の為にベストだと信じてやってくれた、言ってくれてた事が裏目にも出てしまっていたのです。私の病気症状のせいで。師匠は当時、私の病気の事を全く知らなかったので、ちょっと危ういな、とは思っても、基本的には元気なものとして扱っていたのです。私が、どうしても怖くて、パニック障害( 当時はうつ病の併発に私自身が気付いていなかったので…)だとカミングアウト出来なかったのです。。。本当に悔やまれます。仕方が無かったとは自分でもわかっていても。師匠が、"真実は言えない。この生徒は健康だ" と思ってする事と、"真実を知らない。病気持ちで限界がある" 私には、大きな隔たりが出来、私には、師匠に胸を抉られてるように感じられる事も多々あり、師匠を慕い、必要とする気持ちと、恨めしい気持ちとが混在するようになってしまいました。人生の希望を託した、大事な存在だったからこそ、マイナス感情も余計に湧いてしまって、、、。私があの時、自分の病気の事を師匠にカミングアウト出来無かった事は、師匠にも、私にも、とても痛かったです。
当時本当に起こってた事については、病気が回復に向かうにつれて、確信を持つようになりました。自分も、もうあの時の全身血だらけのような辛さや、苦しみの感情は殆ど残って無いので、客観的に当時の事を見れるようになったのです。内部受験だったからこそわかる、周りで起こっていた色々なおかしな事が、はっきりとした証拠になります。そして、今回は、更に一段上。その状況下、そして、その後の私の病状の変化、を見ながら、師匠はどう思い、感じ、行動していたのか。急に色々と見えるようになって来ました。
その時まで、私は、師匠の元でどんどん成長させて貰っていました。今まで苦しめられて来た色んな課題点を着実にクリアさせて行ってくれて。練習も良い方向性で出来るようになり、そうすると、意欲もどんどん湧いて来ました。3年目は、サバティカルから戻って来た師匠と、更に勢い付いて勉強が進んで、5ヶ月程でも、伸び続けて、師匠もそれに凄く喜んでてくれて、門下生達にも、演奏クラス等で、その様子が良く伝わっていたそうです。その矢先に起こった出来事でした。まず、当時の師匠の反応から、師匠は、私がピアノへの意欲を無くしてしまう事をとても懸念したのがわかります。実技試験翌日に結果を聞かされ、翌週のレッスンには来るように言われました。どんな小さな曲でも良いから譜読みして取り敢えずおいで、と。ショパンの短めのノクターンを一曲持って、レッスンに行きました。その場でも感じたけれど、後でビデオで見たら、いつに無い笑顔でテンション高く、教えてるのです(^^;)当時手伝いに来てくれてた 母と、あれは気持ち悪かったね、と今でも話してます(笑) 実技試験の1週間前には、私は、2回目の修士リサイタルを弾きました。正味70分くらいの、しかも難大曲を2曲も含む、とても大変な内容でした。普通は、ちょっとレッスンお休みして、疲れを取って新しい曲に取り組む時間を取ってから、レッスンを再開するものです。でも、1年前に、別の、しかも、将来有望だった生徒が、某有名音楽院の修士課程の受験で、また自分のせいで落とされてしまい、ピアノを辞めてしまった経験があったので、私のモチベーションを保たせよう、希望を持たせよう、と必死だったんだと思います。その生徒の不合格の原因が自分だと思う、というのは、直接師匠から後に聞いた事です。
私が落ちたのに、当時40代で、学部も修士課程もピアノ演奏専攻卒で無い女性で師匠に習っていた方が、結局合格しました。アメリカでは、実は、実力さえあれば、学部関係無く、何ででも修士課程まで終えていたら、次の課程を受験出来るのです。全然弾けない訳では無いけれど、決して高い実力の持ち主では無く、実技試験前、私の躍進もあったため、その方には、ちょっと厳しいように言っていたらしいです。実は、1年半程前、師匠と初めてゆっくりご飯を食べる機会があった時に、その方みたいな人達を教える事になるとは思って無かった、と師匠が言ってたのです、、、、。ただ、その方は、音楽学で修士号を取っていて、アカデミックな分野が得意でした。博士号に於いては、演奏だけで無く、アカデミックも同じ様に重要だ。彼女はその能力が高い、というのを理由に合格させたようです。私は、病気で基本的に脳の機能が落ち気味な事、演奏で克服しなければいけない課題が山積みだったから、演奏に重きを置いていた事、等から、アカデミックの方はギリギリでやっていました。確かに、アカデミックも重要、は正論なのですが。師匠は、前には、やはり演奏が重視される、と言っていたのです。
なのに、私が落とされてから、アカデミックの事を急に押して来るようになりました。私がそこに長けて居ない事を、落として来た教授陣が突いて来てたんでしょう。師匠は、私が次年度受験するなら、博士課程で使える授業を1つ取る事を要求して来ました。別の学校を受験した時、そしてその後の私の勉強に活かす為です。でも、病気で体力が落ちてる私は、演奏に集中出来なくなるので、拒否しました。そして、本来ならもう全て終えてて、卒業出来るのに、口頭試験を無理やり引き伸ばして、卒業を1年遅らしました。師匠はそれには反対で、その辺りから、師匠とのバトルが始まりました(^^;) 留学生達の色々な事情をちゃんと理解していない師匠は、話が通じなくて(^^;)
実技試験翌日、私に結果を知らせてくれた時には、翌年またチャンスがある、頑張ろう、という感じでした。が、翌年、の秋学期、願書を出し始める頃に、他の大学も幾つか、頼むから受けてくれ、と言い出して。でも、パニック障害を抱えてる私は、飛行機に乗るのが難題でした。そして、体力も並では無い、病気で落ちている。飛行機で色んな土地へ飛んで、受験ツアーをするのは、無理だと思っていました。そして、誰にも文句を言わせない演奏をして、今度こそ、ここで受かってやる!と思っていたのです(^^;)
師匠は、本当は私にはチャンスが無いのを良くわかってるから、他の大学で進学して、チャンスを掴んで羽ばたいて欲しかったのです。自分の大学一本では、私はただ、落ちる為に受けるようなものだったのです。師匠は、自分の元から、手放そう、他へ目を向けさせようと必死だったようです。私が、どうしても、一本で行く、と言った時、師匠は強行手段に出ました。"僕は真っ当なアドヴァイスをしてるのに、そんなに言う事を聞かない生徒、もしここで受かっても、自分の門下にまた受け入れれるか考え直さなきゃいけない" と……
そこまでの課程では、"君はここから離れた方が良い気もするんだ" と言ってた事もありました。
そう、それは、全て、師匠の私への愛情故だったのです。私にはあの学校にはそれ以上の機会は閉ざされていたのです。しかも、理由は、師匠と私、つまり日本という国との縁を引き裂こうとする周りの教授達のせいで。自分の元に私がいれば、私の未来を閉ざしてしまう事になるからです。でも、疑ってはいつつも、はっきりはわかっていなかった、そして、物事を知性で客観的に判断する力が格段に弱っていた私には、全くそうは取れず。"拒絶過敏" と、"自己評価の低さ" が物凄く刺激されてしまい…
結果、うつ症状が悪化し、食べれなくなり、1ヶ月で5キロ痩せてしまいました。。。師匠は、心配で仕方が無かった筈です。実際に、"夜中に君が心配で目が覚める。僕の健康にも影響し出してる。もうダメだ。カウンセリングへ行くとか、何とかしてくれ!" と言われ…当時、師匠は別件でとてもとても大変な事を抱えてるのを知ってた私は。"その事で夜中に目が覚めるだけでしょ" とか思ってたのです、、、。何という捻くれ根性(笑)
でも、今から思い返すと、本当に本当に、私の事が心配で仕方が無くて、どうしてあげたら良いのかわからなくて、途方に暮れてたんだと思います。私のこの一件に関する個人的感情を全て抜きにして、第三者的立場から、師匠がやってた事を見る、感じる、そういう事が出来て来てるみたいなのです。
何で10年も経った、そして、その話も大分頭から離れてたのに、今頃…という感じですが、この数ヶ月の色々な事を通して、ここまでの歳月を、もっと師匠の立場から考えてみる事を覚え出し、師匠の真剣な弟子への情と責任感をヒシヒシと感じる事は、元々私を病気に追いやった、20年前の音楽高校での経験、深い深い、ほぼ致命傷だった傷、そして、その後の音楽大学での色々な経験、が更に深く癒される事に繋がってくれている感じがしています。虐待に近い扱いをされ、利用され、情のかけらも与えて貰えずに音楽の道を歩んでしまった事。教えられてた内容も酷く、物にならない所か、身体を蝕んでいた事。まだ子供過ぎて、若すぎて、気付けないまま。そして、先生の成績にならなければ、平気で捨てられる。崖から突き落とされる。学校では、透明人間扱いされる。ズタズタの粉々にされた傷。
"楽器の先生" 、しかも、実力も人間性も何もかも、月とスッポン、異次元の世界の人な先生が、別に私が自分の成績になる程力量が無くても、ただ、私がピアノが弾きたくて、音楽をやりたくてらという想いで全身全霊込めて取り組んでるだけで、師匠は、これだけの溢れんばかりの愛情を注いでくれた。責任感ゼロ、人でなしレヴェルの事をされた私だけれど、師匠は責任感の塊で、これだけ真剣に真剣に考えてくれ、そして、本当に倒れた後は、実に7年もの歳月を、既に、サポートし続けてくれている。今の私には、それが、どれだけ大変な事か、どんな意味か、前よりは良くわかります。こういう事を深く理解し、感じれる、事は、傷を更に癒す事に繋がるのは明らかです。
兎に角、大変な数ヶ月、特に8月は大嵐となりましたが…
嵐が、まだ残っている無駄な物を取り去って行ってくれてるような、そんな気がしています。既に変化は感じています。嵐になる前より、エネルギーも上がり、スッキリとクリアに世界が見え始めています。今年の秋は、良い時間を過ごせれると良いな、そんな希望が見えて来ました(*^^*)
相変わらず、長々と失礼しましたが、お付き合い下さいました方々いらっしゃいましたら、有難うございました♪