また橘玲さんの本を読んでいます。


なかなか斬新な事が書いてあります。


心理学研究者ジュディス・リッチ・ハリスはきわめて独創的で、かつ説得力のある仮説を提唱した。すなわち、子どもの成長に親は必要ないのだ。

  ひとは(チンパンジーも)生まれ落ちたときから、年齢のちかい子ども集団に同化することで性格(パーソナリティ)を形成するよう遺伝的にプログラミングされている。だから子どもは、親や大人たちではなく、自分が所属する 子ども集団の言語や文化を身につけ、同時に、集団のなかでの自分の役割(キャラ)を目立たせようと奮闘するのだ(『子育ての大誤解』早川書房)。  

 集団への同化と集団内での分化によって形成された性格は、思春期までには安定し、それ以降は生涯変わらない。ぼくたちは長い進化の歴史のなかで、いったん獲得した性格を死ぬまで持ちつづけるよう最適化されている。

 こんな事が本当なら子供を一生懸命育てるかいが無くなってしまいます。

 お釈迦さまも良い友達は選ば無いと行けないと言っています。友達は大事なんですね。

①知能の大半は遺伝であり、努力してもたいして変わらない  

②性格の半分は環境の影響を受けるが、親の子育てとは無関係で、いったん身についた性格は変わらない。

ここも辛い真実何でしょうね。

遺伝で頭の出来が決まるはなんて言われたらどうしようも無いです。


こころというのは、相手の気持ちを知るためのシミュレーション装置だ。この機能を持たない個体は、仲間と上手につき合えなかったり、機嫌の悪いボスザルに近づいて殴られたりして、生殖のチャンスを手に入れることができない。だとすれば、いずれは群れの全員がシミュレーション装置を持ち、お互いのこころを読み合うようになるだろう。この相互作用から、自分や相手の内面(無意識の気分)が実体化していく。それをぼくたちは、「こころ」と感じるのだ。

 これが心なら味気無いです。もっと特別なものであって貰いたいですね。

 ぼくたちは、相手のこころを日常的に読み取っている。そしてそこから、自分のこころを構成する。この高度化したシミュレーション機能が自意識、すなわち「私」なのだ。

 心が私と直結しているのは理解出来ます。


平等も格差も遺伝子に刻印されている


一見対等のように見えても、ぼくたちは無意識のうちに支配と被支配の関係をつくりだす。それは、ヒエラルキーのなかでしか生きられない社会的動物の宿命みたいなものだ。     

 もちろんサルもヒトも上位者に唯々諾々と従っているのではなく、チャンスがあれば相手を出し抜こうと虎視眈々と狙っている。でもその一方で、社会のルールを破って共同体から放逐されれば確実な死が待っている。ぼくたちの一生は、自由と服従に引き裂かれているのだ。

社会的動物だとどうしてもヒラルキーを作ってしまうんですね。


あらゆる生物は、遺伝子を後世に伝えるように最適化されている。


第一段階は、生き延びること。人類はその長い歴史の大半を、メス(オス)を獲得して次世代に遺伝子を残すことに費やしてきた。  

第二段階は、社会秩序を保つこと。ヒトは社会的な生き物だから、群れのなかでしか生きられない。集団のなかですこしでも高い序列を手に入れることが、彼らの人生の目的だ。テクノロジーが生存のための道具から、コミュニケーションのためのツール(情報通信技術 = IC T)に進化したのは、生存から社会性へという移行を象徴している。  

そして第三段階は、「楽しむこと」。豊かな社会では生存に対する不安は消滅し、テクノロジーによって広大なネットワーク空間にアクセスできるようになった。そうなれば、生きる目的は楽しむことしかない。

楽しむ今年から無い。何で楽しむか人それぞれですね。私はカヤック、浦和レッズ、寺社巡り、旅行でしょうかね。