久々に中沢新一さんの精霊の王を読んでいます。


精霊はこの列島上のいたるところに生息し、場所ごとに少しずつちがった呼び名で呼ばれていた。シャグジ、ミシャグジ、シャクジン、シュクジン、シュクノカミ、シクジノカミなどというのが、この精霊の名称の一部であるが、柳田国男はそうした呼称すべてに、「サ行音 +カ行音」の結合をみいだすことができることを発見していた。この形をした音の結合は、きわめて古い日本語でものごとや世界の「境界」を意味するものだった。この精霊は、古代の人々が空間の構造や事物の存在を認識するうえで、とても大きな働きをしていたことが、これによってあきらかにされた。

 素性をたどると縄文文化にまでさかのぼる古さを持ち、人間が超越的なものについて思考するようになってまだまもない頃から、すでにその活動ははじまっていた。

 国家というものがこの列島に出現し、人々の思考がそれによって大きな変化をとげてしまうと、かつては列島上にみちあふれていたシャグジの精霊 =神たちの、巨大な規模での没落がはじまった。この精霊の祀られていた場所に神社が建つようになると、居場所を失ったこの「古層の神」たちは、神社の脇のささやかな祠や道ばたの粗末な祭場に放置されるようになってしまった。

 社会の表舞台からは姿を消したかのように思われた、この縄文的な精霊であるシャグジという「古層の神」が、たくましく生き残っていた世界があった。芸能と技術を専門とする職人たちの世界では、この精霊はその名も「宿神(シュクジン)」と呼ばれて、芸能に生命を吹き込み、技術に物質を変成させる魔力をあたえる守護神として、大切に守り続けられていたのである。

 秩序の神、体系の神の背後に潜んでいて、自分自身を激しく振動させ、励起させることによって、世界を力動的なものにつくりかえていこうとする神 =精霊の存在を、中世日本の人々は「後戸の神」と呼んだ。「後戸の神」はただの観念ではなく、よく動く物質的な身体をもっている。その身体を激しく揺り動かすことによって、思考の体系にはみなぎる力が注がれていくのだ。シャグジや宿神のような精霊的な存在が、それをおこなう。

諏訪前宮に行くとミシャグジの影が大きいですね。

大好きな縄文が色濃くてまた行きたいです。

縄文系の博物館も多いのでそちらも楽しみ何です。

柳田國男さんの石神問答も読ませて貰っています。インターネットの無い時代に日本の地名をあそこまで調べるのは大変だったと思います。