今日は犠牲祭のイード・アル・アドハーで祭日です。


 アブラハムがアッラーへの犠牲に息子のイシュマエルを捧げた事を記念する。実際は刃物を振り上げた所で天使が止めに入っています。

 旧約聖書ではイサクが生贄になる事になっていますが、コーランではイシュマエルです。

 アブラハムは85歳の老齢になるまで子宝に恵まれなかった。アブラハムの妻サラが所有していたエジプト人の女奴隷のハガルとの間の子供。

 イサクはサラが85歳で産んでいます。アブラハムは100歳でした。

 イシュマエルが家を出されてアラブ人の先祖になります。


 この犠牲祭の月、イスラム教の義務であるメッカへの巡礼が行われ、締めくくりとして最終日に犠牲祭用の動物(牛や羊)を屠ることが奨励されます。


 9時ごろ近くのモスクに行っています。

一つのモスクではほぼ首の下側からほぼ首の半分まで切られた牛がいました。

この状態でも牛は動くんです。足と首は縛られていて動いても良いようになっていました。

 私達が食べている牛肉は結局は同じように生命を頂いていると改めて認識出来ました。


出番待ちの牛がモスクの周りにいっぱいいました。

イスラム教の六信

 「アッラー」「天使」「聖典」「預言者」「来世」「予定」


 第一に、基本中の基本は「アッラー」という唯一の神が絶対的に存在すること、これを確信すること。

 第二に、アッラーの周りにはそれを助けるものとして、ムハンマドを最初に導いたガブリエルのような「天使」が存在することを確信する。

 第三に、ムハンマドがアッラーから聞いてきたメッセージをまとめたものつまり「コーラン」を神の言葉「聖典」として絶対的に信じる。

 第四に、ムハンマドを最後にして最高の「預言者」とし、それ以前にも「預言者」がいたということを認める。

 第五にその聖典の中に神に酔って示されていることであるが、「来世」というものが存在することを信じる。

 第6に、この世のすべての出来事はアッラーの思し召しによって起こる。それ以外に理由はない。別の言い方をすれば、すべてはアッラーによってあらかじめ「予定」されていること。


これがイスラム教徒が絶対に信ずるべき6つの真理。


イスラム教徒が行うべき行動が「五行」


 第一は「信仰告白(シャハーダ)」

具体的には「アッラーの他に神は無く、ムハンマドは神の使徒である」(この言葉はサウジアラビア王国の国旗にも書かれている)


 第二は「礼拝(サラート)」これは1日5回と決まっている。礼拝の方向はメッカのカーバ神殿に向かって行われる。


 第三は「喜捨(ザカート)」 収入に余裕のあるものはにその一部を施すことである。これは信仰のためにやるべき行為だから、それをそれを願う者は叶えてくれた者に感謝の意を示す必要はない。普通は恵んでくれた人間に、恵んでもらって人間は感謝すべきことでない。


 第四は、「断食(サウム)」イスラム歴のラマダーン月の間、日の出から日没まで飲食を慎むこと。性行為も禁止。


 第五は「巡礼(ハッジ)」 これは巡礼。

 目的地はメッカのカーバ神殿であるり、その周囲を7回巡り、カーバの内部にある神聖なる。「黒石」に可能なら7回接吻する。

 「黒石」とはカーバの東隅に置かれた要石であり、直径は約30cm、地面からの高さは約150cmである。イスラム教の伝承によれば、神に犠牲を捧げる祭壇を地上のどこに築けばよいのかをアダムとイブに示すため、神が天国から指標として落としたものを伝えられている。

 この「黒石」は、ノアの一族以外のにんげんを滅ぼした大洪水の時に行方不明になった。しかし大天使ガブリエルはその在処(ありか)をアブラハムに教え、アブラハムは息子イシュマエルに、石の安置する聖所を建設するように命じた。これがカーバである。


アッラーが「最後の審判」で裁く天国と地獄


 「これこそ、お前らがなんとしても信じようとしなかったお裁きの日。さあ(と天使らに命令する)、悪いことばかりしていたもの(偶像崇拝)をひとまとめにして、地獄への道に連れて行け。」

 神の御心にかなった人間の行く「天国」どんなところか?

 昔の人が大部分で、後世の者はほんの僅か。金系まばゆいベットの上に、向い合わせでゆったりと手足伸ばせば、永遠の若さを亨(う)けた(お小生たち)がお酌に廻る、手に手に高杯、みずさしw、汲みたての盃ささげて。この(酒は)いくら飲んでも頭が痛んだり、酔って性根を失くしたりせぬ。そのうえ果実は好みにまかせて。鳥の肉なぞのぞみ次第。目すずしい処女妻は、そっと隠れた真珠さながら。

 ちなみにここで言う「後世の者」とは、ムハンマド時代の人のことだそうだ。天国の酒をいくら飲んでも酔わないのは、それが神の作った完璧なものだからであり、それ故に、人間の造った不完全な酒は飲んではいけないのである。