私は中東で二十何年働いていました。

初めて髭面の山賊のようなエジプト人と働いて居たんですが、「いつもあーでないこーでもない」と不平不満を言ってくるんです。しかし彼らはお祈りの時は真面目にお祈りに行くんです。それが不思議で井筒さんの上中下あるコーランを読ませてもらっていました。

今回は井沢元彦さんの本を読ませて貰っています。



イエスが「神の子」として誕生する事情を、「新約聖書」は次のように伝えている。


 天使ガブリエルは、ナザレというガラリアの町に神から遣わされた。ダビデ家のヨセフという人のいいなずけであるおとめのところに遣わされたのである。そのおとめの名はマリアといった。天使は、彼女のところに来て言った。「おめでとう、恵まれた方。主はあなたと共におられる。」マリアはこの言葉に戸惑い、いったいこの挨拶は何のことかと考え込んだ。すると、天使は言った。「マリア、恐れることはない。あなたは神から恵みをいただいた。あなたは身ごもって男の子を産むが、その子は偉大な人になり、いと高き方の子と言われる。神である主は、彼にダビデの王座をくださる。彼は永遠にヤコブ家を治め、その支配は終わることがない。」

マリアは天使に言った。「どうして、そのようなことがありえましょうか。わたしは男の人を知りませんのに。」天使は答えた。「聖霊があなたに降り、いと高き方があなたを包む。だから、生まれる子は聖なる者、神の子と呼ばれる。神にできないことは何一つない。」マリアは言った。「わたしは主のはしためです。お言葉どおり、この身に成りますように。」

マリアはよく「はい」と言いましたね。


「マタイによる福音書」には、「ヨセフは婚約者マリアが突然妊娠したが、身に覚えはないので、縁を切ろうと決心した。しかし、夢に天使が現れ、マリアの子は聖霊によって身籠もったのだ、イエスと名付けて大切に育てなさいと言ったので思い直した」とある。

ヨセフもヨセフです。私なら離縁ですね。

こんなみえすいた手では騙されません!😁


「福音」とは本来ギリシャ語「エヴァンゲリオン」に由来する言葉で「良い知らせ」意味する。

エヴァンゲリオンはここから取ったんですね。


イスラム教では


「神はすなわちマルヤム(マリア)の子メシアである」などと言う者は無信の徒。メシアが自ら断言しておるではないか、「これがイスラエルの子ら、我が主にして汝らの主たるアッラーに仕えまつれ、まことに、アッラーとならべて他の何者でも崇(あが)めるような者には、アッラーが楽園を禁断の地となし給う。落ち行く先は(地獄の)劫火(ごうか)。不義なす者どもには助け手もあるまいぞ」

普通はこうなります。イエス本人もユダヤ教の改革する預言者だと思って行動していました。


「神は唯一であるから絶対で尊い」が、「ヤハウェもイエスも神である」という一見矛盾した教理を解決するために、キリスト教の世界では「三位一体説」が圧倒的な多数派の教義として採用された。

 三位一体は381年にテオドシウス皇帝が三位一体の支持者で、コンステンティノーブル公会議を招集して三位一体であると決めました。


この事をニカイア・コンスタンティポリス信条と言います。

三位一体を信じない宗派は異端となりローマ帝国から追い出されました。 

 私は三位一体はあり得ないと思っています。だからキリスト教徒にはなれません。イエスの復活を信じられない人もキリスト教徒になれません。 パウロが居なければキリスト教はできなかったでしょう。


紀元7世紀に預言者ムハンマドは唯一絶対の神であるアッラーから「三位一体などありえない」という内容のメッセージを受け取った。

これは当然です。唯一絶対の神です。イエスはただの預言者、聖霊は神のお手伝いをするしもべです。


西暦610年、いつものように洞窟に籠っていたムハンマドのもとへ、天使が降臨した。

 その天使ガブリエル(アラビア語では「ジブリール」と呼ぶ)は巻物でムハンマドの首の根を押さえるようにして「これを読め」と命じた。


 本物の天使であるかどうかを確認している。


いつものように使徒の下にガブリエルが来た。神の使徒はハディージャ(ムハンマドの嫁さん)に言った。

「ハディージャよ、ほら、ガブリエルが来た」

神の使徒が彼女の胸に抱かれて坐っている時に、彼女はヴェールを取って、顔をさらした。

そうするとムハンマドは「ガブリエルが見えない」とことえた。

「あなた、しっかりしなさい、喜びなさい。神にかけて、天使よ。悪魔じゃないわ」


これ、預言者、お前の妻たちにも、娘たちにも、また一般の信徒の女たちにも、(人前に出る時は)必ず長衣で(頭から足まで)すっぽり体を包み込んで行くように申しつけよ。こうすれば、誰だかすぐにわかって、しかも害(あだ)されずのすむ。まことにアッラーは気のやさしい、慈悲ぶかいお方。


妻ハディージャはムハンマドが受けた啓示を真実であると確信した最初の人間です。

ハディージャが最初の信者です。

姉さん女房です。


アッラーはムハンマドを天国への「夜の旅(イスラー)」に連れ出した。

まず、アッラーはムハンマドに「聖なる礼拝堂(メッカのカーバ神殿)」から「最果ての礼拝堂(エルサレムの神殿)」まで、の夜の旅をさせた。


ムハンマドのもとに2つの杯が出された。1つには乳が、もう1つには葡萄酒が入っていた。ムハンマドは乳の入った杯を選んで飲み干した。それを見てガブリエルはムハンマドを賞賛し、「お前たちに葡萄酒は禁じられた。」と言った。

 イスラム教が葡萄酒だけでなく全ての酒について禁酒を定めているのは割を知られた話だが、実はアッラーは初めから酒を禁じていたわけではない。当初は人間が酒を作ることを認めていた(コーラン16蜜蜂の章69節)

そして「四女」の章46節には「酔うている時には、自分で自分の言っていることがはっきりわかるようになるまで祈りに近ずいてはならぬ」と言っているから、酔うことつまり飲酒を認めていたことが分かる。ところが、とうとうアッラーは酒を全面的に禁じる。

 これ汝ら、信徒の者よ、酒と賭け矢と偶像神と占矢とはいずれも厭(いと)うべきこと、シャイターン(サタン)の業(わざ)。心して避けよ。さすれば汝ら運が良くなろう。シャイターンの狙いは酒と賭矢などで汝らの間に敵意と憎悪を煽り立て、アッラーを忘れさせ、礼拝を怠るようにしむけるところにある。

このおかげでお酒を飲めなくなったんです。私はお酒の飲めないイスラム教徒にもなれません。


ムハンマドはこの「夜の旅(イスラー)」という夜の旅の後、さらに様々な奇跡を体験する。「天国への昇天(ミイラージュ)」です。

「聖なる館」を出たムハンマドは、ガブリエルの案内で極めて立派な「人が臨終のときに見る梯子」を昇り、天界の門に辿り着いた。

 そして、最下天」から最上の「第七天」を目指す過程で、自分の祖先である人々にも会う。

 最下天にはアダムがいた。アダムの前にはその子孫である人間の魂が次々と差し出されていた。

 ある魂が差し出されると「よし」と言って喜び、「良い肉体から出た良い魂だ」と言った。別の魂が差し出されると「ふん」と言って顔をしかめ、「悪い肉体から出た悪い魂だと」と言った。

 つまり、アダムは地獄の獄卒のような役目を果たしていた。


 「第ニ天」では、「母親どうしが親類である、マリアの子イエスがザカリアの子ヨハネ(洗礼者)がいた」

ここは問題の場所ですね。イエスが第二天にいると言うことは、イエスは預言者です。

 そして「第三天」、「第四天」、「第五天」にはモーセの兄アロンがいた。イエスより上に居ます。第六天」にがモーセがいた。モーセは大活躍して居ますから納得です。

 最後の「第七天」の入り口にいた「イスに坐っている中年の男」こそ、最初の預言者にしてユダヤ人の、そしてイスラム教成立以降はアラブ人も含めた、共通の祖先であるアブラハムであった。ムハンマドはアブラハムとも言葉を交わさず、「第七天」の奥に楽園に入り、遂に「主の御前」に至った。

 イスラム教徒はムハンマドとアブラハムを尊敬しています。

 「主は使徒に毎日50回の礼拝を義務として課した」とのみ「預言者ムハンマド伝」は記している。

 しかし、その命令を聞き退出したムハンマドが帰り道でモーセの横を通ると、モーセは課せられた礼拝の回数を訊き、ムハンマドが50回と答えると、次のように言った。

 「その礼拝は思い(多すぎる)。お前の民は弱い(耐えられない)。手に御許(みもと)に戻り、お前とお前の民に課せられた礼拝の回数を少なくしてもらえ」

 そこでムハンマドは主の御前に戻って主に礼拝の回数を少なくするようにお願いすると、主は10回減らして40回にしてくれた。ところが、また戻ってくるとモーセはまだ多いという。そこでムハンマドは再び引き返して主にお願いすると、さらに10回減らしてくれた。ところが、モーセはそれでも多いという。結局、ムハンマドが何回が嘆願(たんがん)を繰り返すと、とうとう主は1日5回にしてくれた。しかしかし、5回でも篤き信仰心を持って礼拝をすれば良いとしている。

 「この5回の礼拝を行う者は、規定されていた50回分の礼拝の報酬をいただける。ムハンマドとその家族に、神の祝福あれ」

礼拝が五回で良かった。それでも多いです。50回なら一日中お祈りです。仕事出来ません。

 こうしてムハンマドは再び地上世界に戻ってきたわけだが、このことは結果的に後世の世界に深い争いのたねくぉ残した。

 問題は、ムハンマドが一夜にしてメッカから移動し、そこから昇天したという「イスラエルの神殿(聖なる館)」である。これは現在のイスラエルの古都エルサレムの中にある「岩のドーム」だとされている。

 この「岩のドーム」のドームとは、ムハンマドが昇天した「岩」を劣化から保護するために建設されたものである。

 その「岩の」というのは、実は神の命令によってアブラハムが息子イサクを犠牲として捧げようとした場所だともされている。 

 そればかりではない。モーセがシナイ山で神から授かった十戒の石板を収めた「契約の櫃(ひつ) 」もここに置かれていたと言われている。

 さらにソロモン王はそれを御神体とし、ユダヤきょうqの大神殿を建設し、ヘロデ大王がそれを再建大拡張したのも、この場所なのである。

 つまり、先行するユダヤ教にとっても、それを継承したキリスト教にとっても、この岩は「聖なる岩」であって、だからこそこの場所は聖地なのだが。

 エルサレムはだから三大宗教の聖地でここを巡って争いが起こるんですね。


 自己をすべて神に委ねた人を「ムスリム」と呼びようになった。