第八章  諸王朝分立時代における諸学派の継続的発展一  


諸王朝の分立  


 グプタ王朝は五世紀末葉に衰微し崩壊した。480年ころからフン族(匈奴 )が侵入して来てインド文化を破壊したが、533年にヤショーダルマン王に破られた。しばらくインドは四分五裂の状態に陥っていた。

ここにも匈奴が影響していますね。

ローマ帝国の崩壊もフン族のせいですね。


 この時代全般の特徴としては四七六年に西ローマ帝国の滅亡以後は西方との貿易が衰退し、その結果インドの貨幣とローマのそれとの等価関係も消失し、インドにおける貨幣の統一も破れ、貨幣経済が全面的に衰退した。それは社会的には商業資本の没落と萎縮をもたらし、他面、インドの停滞的な農村に基盤をおく政治的・文化的勢力が伸張することとなった。この社会的事実は、思想面においては商業資本に支持されていた仏教およびジャイナ教の衰退とバラモン教・ヒンドゥー教の全面的伸張、保守的思惟の持続となって現われた。この時代の文化は一般に停滞的であり、哲学に関しては、前の時代までに大体成立した諸学派がそれぞれの確定した教説を継続的に発展させていたにとどまり、新しい飛躍は見られない。仏教およびジャイナ教は、時には圧迫されたり寺領を没収されたこともあり、かかる時代の趨勢に妥協し適応しなければならなかった。そのために仏教では民間信仰を摂取・融合した密教が盛んとなり、ジャイナ教もヒンドゥー教の影響を受けた。


ヴェーダーンタ哲学の発展


 シャンカラ( 約700─750年)は、しばしば過去のインドにおける最大の哲学者と称せられるが、それは、かれの学系が中世以後のインド思想界において圧倒的な勢力を保持しつづけて来た事実にもとづく。かれの伝記と称せられる書が少なくとも十一種伝わっているが、いちじるしく伝説・神話に彩られている。ともかくかれは南インドに生まれ、ヴェーダを学習し、遊行者として諸地方を遍歴し、種々の奇跡を現じ、シュリンゲーリなどに僧院を建設し、多数の書を著わし、最後に北方インドで死んだという。

 かれは不二一元論を主張した。絶対者ブラフマンはいかなる限定をも許さぬ絶対無差別の実在であり、最高我とも呼ばれる。それは部分を有せず、変化せず、永久に存在する。個我はその本体においては最高我と全く同一のものである。何人といえどもアートマンの存在を意識しているが、そのアートマンはブラフマンにほかならない。ところでブラフマンが現実の経験世界において個別的な多数の個我となって現われ出ているのは、無明に由来する。それは、各個我を自己中心的な行動主体として成立せしめている先天的原理である。それは、純粋知を眩まし迷わすはたらきがあり、輪廻の原因となっている。現象界の多様相・差別相も無明にもとづいて成立しているのであり、勝義において存在するものではない。それは幻のごときものであり、仮りに現われている虚妄なるものにすぎない。真の実在は唯一にして不二なるものである。世界創造は主宰神によってなしとげられたものであるが、主宰神はブラフマンが無明の制約を受けて成立したものにほかならない。かかる無明は有とも無とも定め難いもので、ブラフマンに沿って存立している一種の原理である。  

 この無明はアートマンの本性を直観することによって滅ぼされる。すなわちアートマンは身体や諸機官とは別のものであるということを知り、個我が実は最高我と同一であり、現象世界は実在しない虚妄のものであるということを知るならば、その明知によって解脱が起こり、一切の苦悩を消滅することとなる。完全な解脱の境地においては個我はブラフマンと合一し、その個別的存在を失う。  

 かくて、ブラフマンには二種ある。無属性なる最高ブラフマン(ブラフマンそのもの)と、無明と結合して種々なるかたちを現じている有属性なる低きブラフマンとである。それに対応して、明知にも最高の明知と低き明知との二種がある。低き明知によって漸進解脱が得られ、高き明知によって完全な解脱が得られる。高き明知を得ても、過去からの業の影響力の存する限りは身体が存続しているが、業の果報が滅すると身体も死滅し完全な解脱が得られる。

難しいですね。


密教


 開祖は竜猛( 西紀600年ころ)であると称せられる。


 密教においては根本の仏を大日如来( 大毘盧遮那仏)と呼ぶ。従前の諸々の仏教は釈尊の説いたものであるが、密教は大日如来の所説である。従来の大乗仏教とは異なるという点で、みずから金剛乗と称する。秘密の教団であることを標榜し、閉鎖的であり、特有の複雑な儀礼を発達せしめた。人は師( 阿闍梨)について教えを受けねばならない。秘儀にあずかる儀式を灌頂( 頭の頂きに水をそそぐこと)という。

灌頂は昔は油だったんでしょうが、ここでは水をそそぐんですね。


 1203年に密教の根本道場であるヴィクラマシーラ( Vikramaśīla)寺院が回教徒の軍隊に破壊され、僧尼が諸所で殺戮された。それとともにインドで仏教は急激に衰滅してしまった。

ここから密教が始まります。


第九章  回教徒の侵入と思想の変化


シク教


 シク教は、ヒンドゥー教にもとづきながらも回教の要素を採用結合した改革的宗教である。その開祖ナーナク( 1469一1538年)は、カビールの思想を受けるとともに、回教神秘主義の強い影響を受けている。北方インドを遍ねく旅行し、ヒンディー語とパンジャービー語との混合語によって教えを説き、パンジャーブを中心として広い感化を及ぼした。シク教の聖典はナーナクやカビールなどに帰せられる詩および散文より成る。かれは唯一神に対する信仰を強調したが、諸宗教の本質は一つであると考えていた。この宗教では形式的な儀礼を否認し、偶像崇拝を禁止し、苦行を制し、カーストを否認し、いかなるカーストの者とでもともに同一食物を食し、食物に関する禁忌をなくし、酒・麻薬・煙草を禁じ、世俗の普通の職業に従事し、他人に奉仕すべきことを勧め、宗教の道徳的側面を強調している。

 最後の第十代の法王であったゴーヴィンド・シングはシク教を形式化し、信徒は五つの kを身に保つべきであると定めた。それは、 長髪( kes)、 膝上までのパンツ( kacch)、 鉄の環( kara)、 懐剣( kripān)、 櫛( kangha)である。それ以来、シク教は独立の宗教としての様相を顕著に示すようになった。また、かれのときから、信徒はすべて自分の名がシング( singh「獅子」の意)という語で終わるべきであると定めたが、特殊な習俗として、毛を剃ることを禁じ、男はターバンを巻くことになっている。

初めてアブダビに行ったうん十年前にホテルのバーの前にターバンを巻いた大男がいました。それがシク教徒でした。

新鮮な驚きでした。

その後インドで働いた時ものシク教徒がいましてお身長は2mの大男でした。