大本教の出口王仁三郎さんは怪物とか言われていたスケールの大きな人ですね。

艮の金神は国常立尊ですので、親近感はあったのです。

p24


上田喜三郎として1971年(明治4年)8月22日に亀岡市曽我部町穴太で生まれた。

p43


明治31年から神秘体験が始まる。吸い込まれるような感覚を最後に、何度かの無意識状態に陥ったとき、夢うつつのうちに人影を見た。

その男は洋装姿で喜楽亭の中に現れて、喜三郎に話しかける。2、3問答を交わした後、喜三郎はやがて男について家を出た。

はっきりした目的意識は無いのだが、なんとなしに富士山へ行くつもりである。

貴三郎はその時、巻紙に1通の書き置きをしたため残している。


我は空行く鳥なれや

はるかに高き雲に乗り

外科医の人が様々の

喜怒哀楽にとらわれて、

身振り足ぶりするさまを

われは忘れて挑むなり

げにもおもしろの人の世や


喜三郎は翌朝、自分が郷里の高熊山の岩窟に座って、案内してくれた男の姿もない。彼は白雪に覆われた、深山の岩頭に丹座し、静かに瞑想していた。

高熊山では別格だった。昨夜の一連の出来事を契機として、喜三郎は全く次元の異なる別世界に入っていった。彼の意念はさながら鳥のように思さま翼を広げて自由自在に飛び回る。明鏡止水の静けさも、熱狂の乱舞も、意の如く実現した。インスピレーションと法悦の境に彷徨(ほうこう)し、そしてまた祈りと修坐の世界に身も心もすい寄せられていく。そして、祈念しているうちに夢とも、現ともつかぬ世界に旅している。

 喜三郎は1週間、とうとう断食したまま岩の上に座り続けてしまった。気がつくと、ジュバン1枚のまま頑張っていたではないか。

このような方ですので、当然神秘体験されていますね。1週間も座り続けられるとは、とても出来ませんね。

p47

神霊に対するまつりを大別すると、顕斎と幽斎の二つになる。顕斎とは、一定の神社や祭壇におまつりしてある祭神に対し、神饌物や祭典をもっておまつりする神事であり、字のごとく、形に顕された神祇への儀式である。これに対し幽斎は特定の場所や時間、祭儀などにこだわらず、神霊に心魂をまつりあわせる神がかりの法である。

 ついでながら、この幽斎のなかに、精神をおちつけしずめる「鎮魂の法」や、神がかりになる「帰神の法」などがある。つまり、この鎮魂帰神は神人感合の法というものであって、数多くの分類や区別が行われている。


p50


喜三郎は御嶽教太元教会の中教正松山昇の強いすすめにより、同教本部を訪れる目的で家を出ようとした。そのとき、月見里神社に付属する駿河の稲荷講社総本部の役員で三ツ喜右衛門という人が尋ねてきて、いろいろ神霊学の話をし、講社の総長、長沢雄楯(ながさわおたて)爺の霊力非凡なことを吹聴した。

 長沢爺は、国学者本田親徳の教えを受けついで、幽斎や鎮魂帰神を修行し、神道、神霊学に造詣が深く、当代随一のその道の大家として聞こえていた。

 4月28日に静岡県安倍郡不二見村の長沢爺を訪れた。

 喜三郎は長沢爺から霊学の話や本田親徳師の来歴をくわしく聞かされた。長沢の母豊子からは、本田師から授かった「神伝秘書」一巻と「道の太原」「真道問答」各一巻をもらった。

 不思議なことに豊子は、「本田先生の遺言に、これより10年ほど先になったら、丹波からコレコレの青年が訪ねて来るだろう。神の道は丹波から開ける、というのがある。あなたが師の大志を継ぐ人に相違ない」といってたいそう喜んでいた。

 2度目に喜三郎が講社をおとずれたとき、この豊子は、本田師より預かりの宝物を彼に与えている。鎮魂の玉と天然の石笛の神器である。このように神伝秘物をさずかったことのほかに、審神(さにわ)をうけたことも最も大きな喜びであった。審神というのは、文字どおり、神がかりした神の審査である。神がかりの状態にあるものを見て、どのような神がかかっているか判定するのである。神霊の道にとくに修行を積んだものがこれをおこなうのだが、喜三郎はきれを受けた。

審神は爺が直々にこれを行い、喜三郎は高等の神がかり鑑定される。喜三郎にかかる神がかりの名は、小松林命という。それは、素戔嗚尊の分霊といわれている。その神様が喜三郎に霊的感応を与えておられる。

神道系の繋がりはあるようです。

御嶽教ともですね。