昨日のお昼は蕎麦が食べたくて小嶋屋さんに行っています。





蕎麦美味し!


ミスドのGODIVAのドーナツも



浦議チャンネルで「異端のチェアマン」の本の作者「宇都宮徹壱」さんとの対話でこの本の事を知って購入しています。




何とコロナ流行時に最悪Jリーグの解散も考えに入れて判断していました。


2017年1月のSHC(スポーツヒューマンキャピタル)の講義

米田恵美が書き起こしを行った。


彼女の村井満へのメッセージ


私は組織というのは、社会にとっての公器であり、人にとっての成長の場であると思っている。その理想の組織を、命を削って創り上げてきた村井満という人間の生き様に触れられたことの感謝し、そのメッセージを受け取った者のひとりとして、私も同じ時代を生きる社会の乗務員としてがんばりますよ。という誓いを自分の中にそっとたていぇみた。


村井満の言葉

「私の任期は(2018年)3月末まで。そこに期限を切って、総決算として今回の統合プロジェクトに取り組もうと思います。皆さんと力を合わせて、世間からかけ離れたJリーグの中だけの理屈や、やり方を叩き直していく。その上で、社会に開かれた魅力あるJリーグを一緒に創っていきたい」


 村井の言葉を聞いていた米田は、この日の心情を以下のように書き留めていた。

「これを聴いている時の私の気持ちがどうだったかといえば、チェアマンが口を開く前から激しく胸が痛んでいた。チェアマンがこの話しを始める直前に、呼吸を整えたのが感じ取れたくらい私も集中していた。組織のリーダーに、ここまでのことを言わせてしまうというのはやりすぎというきもち、本当にそこまでしないとこのメンバーに危機を伝えられなかったのだろうかという申し訳なさ、自らの不甲斐なさが混じっていた。」

村井チェアマンは卓越した経営者でした。

村井チェアマンは元々浦和レッズのサポーターです。

チェアマンに就任して直ぐに浦和レッズサポーターが起こした「Japanese only」事件があります。

https://www.wikiwand.com/ja/浦和レッズ差別横断幕事件

この処分で無観客試合を行っています。

コロナ流行時に無観客試合行っています。

 

1992年のナビスコカップの初戦の大宮サッカー場の試合からJリーグの試合を見ている。

 日本代表の試合も1997年のワールドカップ予選のホームアウェーの試合をほぼ行っている。本大会出場を決めたジョホールバルにも行って、試合後の空港に行き帰国している。

 

 28歳の時に2歳の長男を幼児性突然死で亡くしている。2歳の子供は可愛い盛りで、わんわん泣いたかとおもうとw、不意に屈託のない笑顔を見せる。その喜怒哀楽が、とても美しく尊いものに感じたが

 喜怒哀楽を解放した時の表情って、確実に人を引きつけるんです。

 自分は、今まで何をしていたんだろうか。そんなことを深く考えるきっかけとなったのが、28歳の時に直面した長男の死だったんです。

 あの日を境にして、私は決意しました。心の底から喜怒哀楽を表現できるような、それこそ子供のような表情が出来る人間になろう。

 もちろんビジネスの世界で、しょっちゅう喜怒哀楽を露わにするわけにはいかない。でもサッカーの世界でなら、応援しながら感情を爆破させることができるじゃないんですか。悔しがったり、絶望したり、時々ブーイングして、勝ったら喜びを爆破させて。まさにサッカーの世界って、喜怒哀楽そのものじゃないですか。

 だからこそ私は、ずっとサッカーに夢中だったんだと思っています。

村井チェアマンはJリーグ開幕前のナビスコカップから観戦しています。サポーター歴長いです。

2000年のレッズのJ2リーグ時にホーム&アウェーの全試合にも行っています。

村井チェアマンのサッカー観戦は悲しい長男の突然死から何です。

喜怒哀楽は大事ですね。心がこもらない人間の言葉は信頼されませんし、人々を動かすことできませんね。


 パンデミック


 東北医科薬科大学医学部感染症学教室特任教授の賀来満夫(かくみつお)。第一回の対策連絡会議で、村井と初めて出会った。

「村井チェアマンが、われわれに求めていたことは明確でした。「百年に一度のパンデミックについて、われわれが持っている情報は少ない上に、経験もありません。選手、スタッフ、観客が、安心かつ安全に試合を進めていくために、感染症の専門家の方々のご助言をいただきたい」そう、おっしゃったんです。」

 「私たちは感染症の専門家として、診療や感染症対策に携わってきたわけですが、それはあくまで医療機関の中での話しだったんです。今回の対策連絡会議は、スタジアムやトレーニング施設、選手の宿泊、さらには移動や家庭生活までもカバーしなければいけない。今までに経験したことのない、非常に難易度の高いチャレンジでした」

 そんな賀来の懸念を払拭させたのが「先生方にお願いしたいのは、リスクの評価です。」という村井の言葉だった。

 「村井さんは、こうおっしゃいました。「現在のリスクが100だとして、どうしたら80に、70に、60に下げることが出来るのか。その部分こ評価しながら、ご支援いただきたい」と。その上で「われわれが責任を持って、リスクマネージメントをします」

 感染対策のすべてを丸投げするのではなく、専門家との役割分担を明確にした上で、リスクマネージメントについてはJリーグがしっかりと引き取る。そのことを村井は、最初に名言した。それゆえ賀来も「そんなことが言える組織のトップに、私は初めて出会ったので驚きましたが。」と、実感を込めて語っている。

経営者はリスクを取って、初めて信頼される経営者になります。

 明治安田生命が、この「特別協賛」をJリーグに提案したのが4月8日。最初の緊急事態宣言が発出された翌日であった。

「当時の私の正直な気持ちは「村井さんのために自分はできることは、これだろうな」というものである。もちろん長期的な視点で見れば、明治安田生命にもメリットある話です。けれども、そのこことは別に私が考えたのが、Jリーグのために、そして村井さんのためになにが出来るのか、ということでした。」


 JリーグにとってのDAZNは明治安田生命とは違った意味では「運命共同体」となっていたのである。ゆえに「もしもDAZNになにかあったら、Jリーグはどうなるのだろう?」という危惧は、サッカー界全体に共有されていた。だからこそ、8月25日の契約更新の発表に胸を撫で下ろしたのは、私だけではなかったはずだ。

 極めて難易度の高い交渉を終えた時の感慨について、村井はこう総括する。

 「激しく本音ではぶつかり合って、お互いの主張を尽くした着地点を見出した時、そこに深い信頼関係が生まれます。この時の経験は生涯、忘れられないでしょうね。もっとも私自身に、中国やインドの企業とのM & Aの経験がなかったら、あるいは腰が引けた交渉にになっていたかもしれませんが」

交渉ごとはやっぱり人が大事ですね。