車を霊宝館に停めたのは、もちろん霊宝館に行くためです。


高野山霊宝館は、こうした高野山内の貴重な文化遺産を保存展観する施設として大正10年(1921年)に有志者の寄付と金剛峯寺によって開設されました。この時に建てられた本館は、平成10年(1998年)に登録有形文化財として指定されています。


高野山霊宝館では、国宝21件、重要文化財148件、和歌山県指定文化財17件、重要美術品2件、合計182件、約28千点弱を収蔵し、未指定品ともなると5万点以上を数える収蔵量を誇っています。

国宝多いですよね。


不動明王さまもいっぱいいらっしゃるんです。

この写真は絵はがきからです。


重文 不動明王坐像 一躯

正智院 平安初期

檜材の一木造。頭に載せる蓮華(頂蓮)が大きく、両目を見開き、身構える姿勢が特徴。奥行きのある体躯からは重量感が伝わる。高野山に現存する不動明王中、最も古い雄作である。平安初期の作。

この頃の不動明王さまは両目がパッチリです。


霊宝館で一押しの深沙大将立像、これも絵はがきから

ホームページより


深沙大将は、まずその奇異な姿に驚かされます。髪を逆立て、眼を見開き、顔の半分もあろうかと思われる大きな口を開け、物凄い形相で、普通では考えも付かないような、姿をしています。その姿で最も特徴的なところは、膝頭から象の顔が出ていることです。これは「象皮(ぞうひ)の面」といって、象の顔が付いた皮の半ズボン(膝当とも)らしいのです。と言うことは、あの大きな象の顔がいとも簡単に、しかも半ズボン状態になるのだから恐れ入ります。

ゾウというのは、人の心を理解するといわれ、インドでは聖獣としてあがめられてきたそうです。そして、時にはジャングルを切り開くブルドーザーとして、また荒野を突き進む戦車のように活躍するといった、賢さと力強さを兼ね備えているので、神聖視されてきたようです。つまり、深沙大将の足は、象のように荒れ地を突き進み、砂漠をも乗り越える強靱さを、象皮の面で表現しているのかも知れません。

動物の皮や面などを衣服の一部に使用する例は、天部の諸尊に比較的多く見受けられます。四天王立像などの鎧(よろい)の肩などに見られる獅噛(しがみ)と呼ばれるものや、薬師十二神将像の眷属の神将などにも動物の皮面をつけています。いずれも現代人の我々からしても、物凄いファッションセンスですね。

次に特徴的なのは、ドクロを胸飾りとしていることがあげられます。このドクロを飾りとするのも大威徳明王・伊舎那天・降三世明王・軍荼利(ぐんだり)明王などと同じであることがわかりますが、いずれも仏教化される以前の姿を色濃く残しているものと考えることができます。

深沙大将の場合ですと、七つのドクロを胸飾りとするのには、玄奘三蔵が七度生まれ代わった、それぞれの頭蓋骨であると伝えられています。

玄奘(げんじょう)三蔵(602年~664年)とは、中国からインドに経典を求めて旅をした僧ですが、孫悟空で有名になった中国明代(みんだい)の小説「西遊記(さいゆうき)」にでてくる、あの馬にまたがったお坊さんといった方が、わかりやすいかも知れません。

この玄奘三蔵が旅の途中、砂漠で一滴の水を得ることができず、息絶えようとしている時、流砂の中より現れて護(まも)ったのが、深沙大将であるといわれています。「西遊記」の登場人物に深沙大将をあてはめるとすると、カッパ姿の沙悟浄(さごじょう)あたりでしょうか。西遊記の中で、時には、三蔵法師の手足となって働いたり、逆に困らせたりしながら旅を続ける様子は、一筋縄では行かない天部神(てんぶしん)そのものを感じさせます。

次に、腹部を見てみますと人面(じんめん)が表わされています。その理由として明確なことはわからないのですが、一説には、中国での深沙大将は、別の姿が「童子(どうじ)」であったというのです。このことから童子(どうじ)の顔が腹部に表われているらしいのです。現代風にいうと、童子の体に深沙大将が憑依して、童子の顔だけが腹部に表れたということになります。

深沙大将の信仰は、上記の理由などによって、砂漠の熱風や悪疫の難を除く、旅人の守護神として、また玄奘三蔵がインドから持ち帰った「般若経」の守護神としてまつられました。 この「般若経」の守護神として描かれている本尊に、般若十六善神像(しんぞう)があります。般若経を護る十六善神とともに、般若経が詰まった笈(おい)を担ぐ旅姿の玄奘三蔵、それと対峙する形で、深沙大将が描かれています。


この恐ろしいを顔、ドクロの胸飾り、お腹の人面が何とも言えない魅力があります。


深沙大将立像の御朱印帳も売っていたんですが、悩んだんですが、今回は買っていません。次は買うと思います。