第1楽章冒頭の、フルートの刻みで始まる軽快なテーマは、ちょっと耳にしただけで多くの人が「あ、聴いたことある!」と思うはずの交響曲第4番『イタリア』。ドイツ生まれのメンデルスゾーンが21歳のとき(1830年)にイタリアに旅行した際に着想を得て作られた曲だといいます。彼の交響曲のなかでは最もポピュラーで、南国イタリアの明るい青空と眩しい日差しを彷彿とさせる(行ったことないけど)、明るく軽やかな音楽ですね。

 ところでメンデルスゾーンというと、ユダヤ人である一方、一家はたいへん裕福な銀行家だったことも知られており、こんな話があります。日露戦争で日本と戦っていたロシアは、実は当時、ドイツやフランスのユダヤ人から多額の借金をしていて、「もうこれ以上の融資はダメだ。講和してもらわなければ融資を打ち切る」とまで言われていたのです。日本の戦費調達も苦しかったけど、本当はロシアもメチャメチャ苦しかった。

 そうして、危機一髪のところで、日本と有利な条件で講和したロシアの代表ウィッテが、いちばん最初に電報を打ったのは、他ならぬベルリンのメンデルスゾーン宛でした。電文には「講和成立した。融資継続を頼む」とあり、それから2番目に皇帝に電報を打ったというのです。あのロシアの財政を牛耳っていたのですから凄いもんです。超お金持ちのお坊ちゃんだったんですね。

 しかし、当時のヨーロッパでは、ユダヤ人に対する差別意識が高まりつつあり、メンデルスゾーンが7歳のときに一家はユダヤ教からキリスト教に改宗、さらにはキリストの12人の使徒の一人の名前をとって改名したほどです。それでも謂れなき差別や迫害は収まらなかったといいます。メンデルスゾーンはそれにもめげず、ドイツ音楽界の重鎮として活躍し続けました。しかし、彼の死後も、ワーグナーの論文『音楽におけるユダヤ性』によってその芸術性が否定され、ヒトラーの時代になると演奏会の演目からはずされたり、音楽の教科書から名前が消されたりしたそうです。

 そんな事情から、単にお金持ちのお坊ちゃんだったわけはなく、抗うことのできない苦難を背負いつつ音楽に向き合っていたのだとされます。しかしながら、彼の作った曲にはそうした陰の部分は微塵も感じられず、誰にも親しまれる心地よい音楽ばかりです。とくに交響曲第4番の明るさと屈託のなさといったらない。さらに彼の作品には、ベートーヴェン後の作曲家の多くに見られる気負いのようなものも全く感じられない。ひたすら我が道を行くといったらいいか、鷹揚、あるいは気高いといったらいいか。いったいどんな人柄だったのでしょうかね。

 愛聴盤は、クルト・マズア指揮、ライプツィヒ・ゲヴァントハウス管弦楽団による1987年の録音です。メンデルスゾーンの再評価に尽力したというマズアは好きな指揮者の一人でして、管楽器のアンサンブルの芳醇な響きと木管の透明感のある音色がブラボーです。