脳科学者である茂木健一郎さんの著書『すべては音楽から生まれる』からの引用です。

 ―― かつての私は、頭でっかちな聴き手であった。というのは、演奏会が終わるやいなや、連れの友人に「今日の演奏会、どうだった?」とやたらと感想を求めたり、「今日の演奏は、第一ヴァイオリンはよかったけど、管楽器が精彩を欠いていた」などと批評したり、「あの交響曲のテーマはこうで、主題が表わしているものは・・・・・・」と講釈をたれたり、ああだこうだと、なんともうるさく迷惑な男だったのだ。連れは閉口していたことだろう。

 私は、本当には音楽を聴いていなかったのだ。聴こうともせずに、もっともらしい説明や理解を求めていたのである。音楽の至福とは、音楽そのものの核心、わからない「なにか」に接した時の愉悦であり、感動であり、喜びなのだ。・・・・・・何も言う術を持たないこと。わからないことを、わからないままにすること。音楽によって発見したこの姿勢を、端的に代弁してくれる概念がある。釈迦の思想、「無記」である。

 あるとき釈迦の弟子が、繰り返し師に尋ねた。「人間は、死んだらどうなるのですか」「生まれる前、人はどこにいたのですか」「宇宙の果てはどうなっているのですか」「魂というものはあるのでしょうか」。答えを求める弟子に、釈迦はこう言う。

「お前の目の前に、毒矢が刺さって、もがき苦しんでいる男がいるとする。周囲の者が医者を呼ぶと、その男はこう言った。『治療は待ってくれ。その前に、この矢を射た男を捜してほしい。そして、聞いてくれ。どんな弓を使って、どんな毒の種類で俺を射ったのか、と』」

 お前は、この男をどう思う? そう問う釈迦に、弟子は「その男は馬鹿者だ。そんなことをしているうちに、死んでしまうじゃないか」と答えた。すると釈迦は、こう言った。

「お前の質問も同じことだよ」

 わからないものは、わからない。わからないのなら、断定的なことを語らない。これが釈迦の「無記」の思想であり、死後の世界や魂の存在の有無について、いっさい答えない、という仏教の哲学である。音楽に対しても、私はこういう姿勢で臨みたい。――


 うーん、ずいぶんなるほどのお話です。まー、私のようなゆるーい聴き手は心配しなくても頭でっかちになりようはないのですが、お釈迦さまがおっしゃる「無記」の思想は、クラシック音楽の鑑賞に限らず、何かにつけて肝要かと思う次第です。わからないものは、わからない。