創造主の意識 平等と謙虚と奉仕 | 不幸のブログ 

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三次元と四次元の狭間 に関しての記事と生命の科学と宇宙の法則
について語ります。

追加コメント



朝から呼吸を狙っての攻撃がありました。


脊髄や肺に対しての強い照射がありました。


呼吸機能を止めようとしているのだと認識できました。


流石は異常者の集まり創価学会とその関係者。


他の被害者も被害がひどくなっているようですし
創価学会は一気に被害者んお口封じを図ろうと
組織的に犯罪を強化しているのではないでしょうか。


今日は、その上に腹の異物の上昇回転で排泄妨害しては
それをそれを利用しては磁気の回転の強化
更には脳への周波数帯洗脳でイラつきの強化を受けています。


本当は肺や呼吸機能を弱め、摂食嚥下機能を妨害した上で
排泄物を上昇させ呼吸困難を狙っているのであろうことも想像つきます。


創価学会とその協力者でもある在日関係者は
日曜ごとに私を殺すを実行しているようですが


その時の音頭として6時と7時に打木でも叩くような拍子を
実行しているのは、よりによって近所のお寺でもありました。


法華教寺院ではないのですが
創価・在日の仲間であることだけは間違いないようです。


というよりも国内のお寺も多くが
創価学会や在日関係者に汚染されていて


実質まともなお寺など数える程しか
存在していないと思います。


練馬区は法華経の寺が殆どのようですが
どうせ実質は創価とお友達でしょうし

仏教寺院という看板は見せかけのものとなっていると思います。


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私に劇場型洗脳を実行している
創価学会と在日の軍団が今度は麻薬のようなものまで
使用し始めたようです。


以前から加害者がそばに居る時は
豚小屋のような妙な匂いがしてくることがありますが

何でも麻薬などを使用しては麻薬効果を齎すときに
そんな匂いがするそうで、
再びそんなものが周囲に撒かれている可能性があります。

私の脳に怒りの周波数帯を焼き付けています。

腹の中は電磁波の凄まじい回転で
その電磁気を脳にまであげては
怒りの周波数帯を焼き付けているようです。

この連中の意識は一体どうなっているのか?
簡単です、。
自分達の敵対者を潰すそれだけだと思います。

パソコンのそばににいると激しい電磁波を喰らうので
仕方なくゲームをしていたのですが

昨日はTVの外部接続機能を壊され
それすら妨害し始めました。

私はこの人間達が実行している
逆音声送信とも言える
思考を飛ばす技術のせいで

この連中の関係者に
音が煩いと文句まで言われています。

やっているのはこの連中の仲間であり
私を葬り去りたい人間なのにです。

音を止めるためには腹にコアを作るなと言われますが
この連中の関係者が排泄妨害を続けるのですから
どうしようもありません。

しかも酸を大量に撒き散らかしては
その音を大きくしているという実態もあります。

その酸を中和するためには塩が良いと言われては
頻繁に塩を飲まされる。

すると今度は塩気と水分を利用しては
私の身体を水膨れにもしてきます。
この人間達の実行していることは
ありとあらゆる行動をひたすら妨害すること。

私はこの一年間に風貌をボロボロにされただけでなく
脳機能をも実質的に壊されましたし
性格までイラついた嫌な奴に仕立て上げられました

そしてその介入は未だに終わらないのです。

最近は妻を人質に取って
私がこの人間達を批判すると
妻に危害を加えるようになりました。

本人は何も彼らの事を悪く言ってはいないのにです。

しかも私の行動が気に食わないと
妻を殺すと脅かしてもきます。

こんな恐ろしい人間たちを放置しているのが
この社会の実態であるということ。

戦う事、敵を倒することを意識している
創価と在日が私達夫婦をもひたすら苦しめてもいる。

この社会はこの人間達の手によって
まざに地獄へと変貌されているのです。


2015年4月19日
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コメント

昨日は夜間に延髄あたりに対して
繊維質状のものを作り上げられ

摂食嚥下といわれる飲み込んだりするための機能を
壊そうとしてきた人間達がいました。

寝ていても痛みもありその上に
飲食物が飲み込みにくいそんな関与で

老人がやられれば餅を喉に詰めてしまうことも
あるでしょうね。

私もこれをやられると頻繁に喉にモノが詰まりそうになります。

今日は昼間から夫婦で脳の塩基を熱で焼かれ続けています。

要するに激しい電磁波を脳に巻きつけた
飲食物で作り上げた皮膜へと打ち込んでいるような
状態です。

頻繁に水分などが蒸発しますし
創価学会は私達夫婦を本気で殺そうと
攻撃を強化し続けているようです。


中でも常軌を逸した老人達が
その中心を占めているようです。


時々は近所の創価学会らしき老人達の
気味の悪い高笑いが聞こえてきます。

老人が集中しているこの地域には
引手と言われる老人の電磁波使いが
沢山集ってもいるようです。

ハイテクは機器さえあれば
年齢も力も関係ありませんし
何よりも法律で規制されていないのが
彼らにとっての強みでしょうか。

高齢化社会とは言いますが
一方では出産率が激減し生物学的には
日本社会の人間は滅亡へと進んでいるようにさえ見えます。

その中で心無い創価学会のような中の
老人達が間違った価値観を持って
我が物顔で生きている状態をみると

この社会がまるで地獄そのものの様にも見えます。

まるで修羅の世界です。

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先日は創造主の意識として
万物に対する無償の愛に関して触れてみました。


それは創造主の意識を一言で表現したものであり
私達はその意志の分身を魂と言う形で誰もが持っています。


その魂から出てくる意志によって表現されるものを
パウロは”御霊の想い”と言いました。


それと対極にある私達の心から出てくるエゴを、


イエスは


「人間を汚すものは口から入るのではなくて
心の中から出てくるのだ」
と表現し、


パウロはそれを”肉の想い”と表現しました。


言うまでもなく私達の心の発するエゴや本能を中心とした
価値観であり負の想念といわれる物です。


私達はその想いを生活の中のあらゆる経験から作り上げてきました。


自分の心を心地良くするもの、本能を満たす効果を快感と認識し
そんなものにばかり重きを置いて暮らしているのです。


そんな価値観を持って作り上げられてきたのがこの社会。


つまりこの社会に反映されている想いは
私達のエゴであり本能に他ならないと言うことです。


創造主にとっては私達一人一人の人間は誰もが平等であり、
そこには優劣は存在しません。


一人一人の人間の差は、魂の学習の差や経験の差、
そして表現の差として認識されることになると思います。


創造主は全く同じものを作り上げようとしたのではなくて
あらゆる生命のあらゆる表現を実現しようとしたと言いますし
そのことが私達の実態には反映されているのです。


そのためにも私達が誰もがそのまま創造主の意志に従うのではなくて
自ら思考し行動を選択するように心と自由意志を与えられました。


先日、太陽系の惑星のカラフルさに感動したばかりですが
バリエーションに富んでいるのは
人間であっても動物であっても植物であっても同様です。


地球と他の惑星が異なった見栄えになっているのも
すべては表現の現れだと言うことであり、


青き海に満たされた地球こそが
偶然選ばれ生命体が暮らせる社会になっていると考えるのは
私達地球人にとっての選民思想でもあります。


そしてアダムスキーが触れていたように
異なった二つの要素が交わる時に、
そこに両方の性質をもった別のものが生まれると言う法則が


この宇宙空間では延々と繰り返され、
その結果全く同じものはただの一つとして存在していないのだという
話にもなってきます。


そしてそれは私達にしても同じことです。


私達は誰もが異なった父と母から肉体を持って生まれてきますし
一方私達を三次元に具現化させている私達の魂にしても
誰もが異なっているからです。


その結果、私達はそれぞれが別々の能力や風貌を持って生まれ、
更にその後はそれぞれが全く別の環境で育ち、

様々な個別の経験をすることで自分独自の価値観を作り上げ、


その中で自分を自分と認識するようになり
他人と自分とを区別する事にもなります。


そこでは私達が与えられている自由意志の存在の役目も
無関係ではありません。


私達は自分の意志で行動を選択し経験をつむことで
もしも全く同じ境遇に落ちたとしても他人とは違った選択をしては
異なった体験をして


そこから異なったものを学び
それを持って独自の価値観とすることになります。


だから創造主の法への覚醒のきっかけも人それぞれですし、
農業からそこにたどり着いた人もいれば
科学の研究からそこにたどり着く人もいるわけです。


もしも私達が心と自由意志を持たねば、
私達は誰もが植物のごとく創造主の意志だけによって生きる存在となり
自分と他人との区別もがつかない存在だった事でしょう。


そうではなくて私達は自分達で選択して
自分の意志で行動する権利を与えられました。


それは単に創造主の意志に従うだけの存在を
創造主が欲したからではなくて


私達が自分の意志で成長していくことで
様々な表現をする人間の姿を見たかったのだと
アダムスキーは言っていました。


勿論、私達が進化することこそが前提での話です。


しかし私達は実際には進化の過程においても未だ初期段階です。


それどころが自由意志を持って暴走し自分達独自の価値観を作りあげては
創造主の期待している創造物では無くなりつつもあります。


私達は創造主の意識からかけ離れつつあるのです。


そして私達が持っているあらゆる能力は、
そのまま私達の進化や表現の差であり
経験の差であることを私達は理解できないゆえに


私達は人間に優劣の差をもつける事にもなっています。


本来創造主の前では誰もが平等であるはずで、
その差は学習してきた時間や体験や表現の差に過ぎないものを


人間としての優秀であるとか劣っていると言った
誤った価値観で置き換える習慣まで作り上げています。


もしも進化した事を偉いと表現するのであれば、
私達地球社会の人間は皆、未だ本当の進化への道へとは進んでいないわけですし、
私達は誰もが全く偉くはないのです。


私達はどんぐりの背比べの過程にこそ存在しているからです。


しかし馬鹿な私達は、そのどんぐりの背比べの中で
自分をより大きなものであると感じたくては背伸びをし続けているのです。


よくない表現ですが,私達は、
野蛮で原始的な動物かもしれないサルが集っていて
その中で誰が偉いかを競争しているようなものだと思います。


自分達を滅亡させることがない分だけ
実はサルの方が私達よりも勝っているかもしれません。


私達は、自分達の誰もが平等な立場であると言うことを認識できず
そこに優劣の価値観を作り上げ自分が他者に対して優越感を持つことで
自分を大きく感じ、心のエゴを満たしているのです。


この社会では私達が創造主の意識として感じるべき
”謙虚”や”平等”といった意識が欠如しているのだと思います。


自分が偉いと思いたい、
自分のことを大物であると思いたい。


他人と比較して特別であると思いたい。


そして他人から褒め称えられたい、
そして他人よりも社会的に有利な立場になりたい。。


そんな意識がこの社会には蔓延しています。


しかし私達が持たねばならぬ意識は優越感や自己満足ではなくて
”謙虚”であること、そして”他人と自分が同じだ”と認識することです。

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イエスキリストが、弟子達が誰が一番偉いのかと
揉めていた時に言ったのは


「一番偉い人間になろうとしたら、全ての人間の下について
それに奉仕しなさい」


と言うことでした。


勿論イエスキリストの住んでいる世界には
偉いとか偉くないといった概念はありません。


尊敬と言う意識は強いようですが、
実はそんな意識さえも誰に対しても持たれる事になるそうです。


きっと指導者に対しては尊敬の念も強いのだと思います。


しかしそこでの指導者は、だからと言って
それに対して踏ん反りかえるわけではありません。


マスターはマスターとしての役目を感じ
周りの人間達も自分達の役目を感じ
それをお互い協力し合って果たしながら進化を続けている。


調和の意識があるからこそ彼らの社会は
私達の社会とは大きく異なっているのかもしれません。


団体で行うスポーツではそれぞれが
自分の役割を担うようにです。


そしてマスターのような人間は率先して奉仕をするのだと思います。


この過酷な地球社会に転生しては愚かな私達に創造主の法を教えようとして
十字架に貼り付けられたイエスキリストを考えれば、
マスターが率先して身を張って奉仕をしている事も理解できます。


彼らの世界の指導者は、椅子に座ってふんぞり返っているのではなくて
自らの身を駆使して他人に奉仕を続けていると言うことです。


更に、イエスの言ったような、誰もの下について奉仕するような存在は
結果的には謙虚さと平等さを理解していてそれを実践している事になります。


つまりその人間は他の人間よりも精神的には進化しているはずなのです。


そして精神が進化した人間には、
偉くなりたいとか人に褒め称えられたいと言った欲すらも
存在しない状態になります。


イエスは結果として12使徒に対して、”偉くなる方法”を教えたのではなくて


そんな意識を捨てて謙虚に平等さを持って生きることこそが、
賢明な人間のあり方だと伝えたかったのではないでしょうか。


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私達の社会が人間の上下関係が
どうやって出来ているかを分析してみます。


たとえば古代の争いの時代、そこで権力を持つに至ったのは
どんな人間だったでしょうか。


それは肉体的能力の優れた人間です。


もっと言えば物理的な力の強い人間、
武器の捌きが巧みだった人間と言う事になると思います。


殺し合いもが正当化される時代では、
相手を肉体を持って倒す能力を持っている人間こそが
他者から恐れられ権力を持ったはずです。


それは古代国家の軍隊の規模としても現れます。


彼らの時代にも直感の優れた人間が占い師になっていたり
思考の優れた人間が側近に置かれていたかも知れませんが

中心となっていたのは武力を持つ人間達のはずです。


私達の人間の優劣はその時代背景によって異なり、
求められている能力が優れていれば他の能力は無関係だと言えます。


そして今のこの社会で言えば、どんな人間が偉いとされるかと言えば
学校の勉強が出来て、難しい大学を卒業したような人間でしょうか。


そして国家試験をパスしたり、大企業に勤めることが出来た人間が
エリートとされていると思います。


つまりは私達の価値観による”頭の良い”とされている人間です。


しかし腕力も学校の勉強も、
すべてが人間が与えられた能力の一部を使用しているに過ぎません。


肉体の能力も脳機能も百人いれば百人皆異なることになります。


喧嘩が強いからと言ってスポーツが出来るとは限りませんし

この社会の学問に関して頭が良いとされていても
それで発明が出来るわけではないのです。


誰もが独自の能力を持っているのです。


私達の能力が多岐に及ぶことは特殊な人間達に彷彿されます。


例えば音楽を仕事としている人間達や芸術を仕事としている人間もいます。


彼らは学校教育でそれを学んだとはいえないと思います。


しかしそれだって私達の能力の一環です。


困ったことに私達のこの社会の中では
優秀だとされる人間は学校の勉強の出来る人間と言うことになっています。


つまり今の私達の社会は
学校での教育こそが人間の能力を測る尺度とされていて
そこに重きを置いているばかりに、


人間がそれぞれ独自の様々な能力を持っているということ
人それぞれが異なった能力に強いていると言う実態を
認識できないでいるのです。


そして今の社会では肉体の強さも
古代のように優秀だと言う判断材料にはなりません。


つまり私達の優劣を決めているのは
その時々の時代で重きが置かれている価値基準だという事にもなります。


私達は過去の歴史を通じて、
「人間はあらゆる能力を持っていてその人間ごとに優れたものがある」
と言う事実を未だに理解できないままでいるのです。


更にその時代ごとに、
多くの人間の能力の中のホンの一部にばかり照準が当てられては
それが優れている人間が優秀だという風潮にもなっています。


そして優秀とされた人間には
お金も権力も与えられる事にも繋がっています。


つまりは人間が作り上げた価値基準が
人間の中に優劣関係を作り上げているのです。


それは創造主が私達に与えた価値観とは無関係な基準によってです。


学歴偏重社会と言う名の下に、すべての人間は画一的に評価され

しかもそこに重きを置かれた事で
誰もが同様な能力にばかり目を向けるようになり


人間が画一化されてもいるのです。


そして今のこの社会は左脳偏重社会でもあります。


その左脳偏重が私達に一体どんな弊害をもたらしているのか
それを私達は認識しなければなりません。


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価値基準の尺度が特定の能力に限定され
しかもそれで決められた優劣がその人間の生活をも変えてしまうとなれば
誰もがその価値基準に重きを置いてそれを伸ばすことに特化することになります。


その結果私達の社会で言えば勉強なるものが私達の優劣を決めるのですから
受験勉強、学校教育に重きが置かれることになります。


それは私達の能力のほんの一環に過ぎませんが
その氷山の一角にばかりに拘ることで
私達は自分達の他の能力を退化する事にも繋がっています。


もしも彫刻を彫らせたら素晴らしい芸術を
作り上げるような人間も、


作曲をさせたらベートーベンのごとく素晴らしい音楽を
奏でたかもしれない人間も


誰もがこぞって学校の教科書と睨めっこしては予備校通いでは
その能力が花開くこともないでしょう。


しかしそんな傾向がこの社会の中では極端に進んでいるのです。


そして私達が学校の勉強と言われているものが
左脳に特化したものであることに目を向ければ


私達は想像力と創造力を
落とし続けている事にも気がつくはずです。


多種多様な能力を封じ込めた状態で画一化された教育を施され、
しかもその教育は全ての真理を私達に伝えるものではなくて
間違いや捏造までも含むもの。


こうなると私達は集団的にその意識をコントロールされて
同じ価値観、しかも限られた能力に限定された状態での価値観しか
認識することしか出来なくもされているようなものです


私達は権力や社会的地位と引き換えにその能力を制限し、
画一化された思考へと誘導され続けている存在なのです。


「科学は発展しているし私達の能力は進化している」と主張する人間は
自分がその発展していると言われる科学の一体何を知っているのかを
自ら問いただすべきだと思います。


その発展した能力で貴方は電球を作り上げることが出来ますか?


私達は与えられた機械を使用しているに過ぎず
それを発明したのも、製造方法やメカニズムを知っているのも、
ごく一部の限られた人間のはずです。


私達はその人間達に与えられた技術を
ボタンを押して使用しているに過ぎません。


さらに私達は機械化で便利になった社会の中で
創意工夫を忘れることにもなります。


自分の意志で考えて自分で何かをするという行為をする機会が
極端に減っているからです。


近年では仕事までマニュアル化が進み
それを見てそのとおりに実行することが仕事だと
思っているのかもしれません。


そして機械操作や与えられたマニュアルが上手に実践できていれば
それで能力が高いと思い込んでいるのです。


それ以前に私達はその学校の能力評価によって仕事の選択肢までも決められ
自分の真の能力に見合った仕事を出来るわけでもないのです。


しかもその上にその仕事ごとに見返りとしての
報酬まで異なってきます。


こうなると誰もが自分の資質とは無関係に
社会の中で高い地位であり高い見返りを与えれる仕事を求め


そのための評価である学校の教育での高い評価を受けようと
勤めることにもなります。


仕事にしても”優秀”とされた人間が多く就業していて
高い給料をもらえる仕事が高く評価され


一方ではそうでない仕事は低く評価されます。


ここでは誤った価値観の尺度によって
仕事上での不平等が発生するのです。


聖書のソロモン神殿の例え話にあったように
何かを成し遂げようとしたときに


その仕事は他の仕事とは無縁では存在しないこと。


そしてこの社会であればこの社会を成立させるためには
誰かがその必要とされる仕事をしなければならないことを理解すれば


全ての仕事の間にも優劣は存在してはいけないことも理解すべきです。


更に得意な人間が得意な分野で勤めることで
誰もが社会奉仕を勤めることも出来ます。


太陽系の兄弟達の社会ではどんな仕事も同様に尊敬され、
その間に差別も優劣もありません。


聖書のたとえ話では
ソロモン神殿の功労者は誰かと言う話になった時に、
そこを直接手がけていない鍛冶工がやってきて


「自分こそが功労者だ」


と主張したのは誤りではないはずです。


鍛冶工がいなければノミが作られず
ノミがなければ素晴らしい彫像も作ることは出来ませんでした。


全てを一から作り上げている仕事など存在せず
すべての仕事は誰かがした仕事から何らかの恩恵を受けている。。


有意義な会議を開けたのは会議資料を作った人間の功績ですが
会議資料を作れたのは他の仲間の助言もあったかもしれませんし


会議資料は紙やトナーやコピー機を作ってくれた人が
いるからこそ出来たわけで


紙であればそれを伐採した人間がいたからそれが作れたわけです。


そして木を育ててくれたのは創造主の意志ということにもなりますし
種をまいた人間の存在かもしれません。


私達はすべてが誰かの仕事の恩恵を受けているのです。


自分が立派な仕事をしていて社会的に認められるべきだと自惚れている人間は、
そんな物の考え方は出来ないと思います。


自分こそが偉いとか優秀だとか立派であると言う
謙虚さのかけらもない姿勢が
私達の社会の中の人間観に上下関係を作り上げていっているのだと思います。


そしてこれが改善されない限り
私達は自分と他人との間に平等意識を持つことも出来ないと思います。


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更に時代が進み、その傾向が顕著となっているのは
人間の能力をしのぐ力と権力の象徴としてのお金です。


肉体的な力がなくても優秀な?頭脳がなくても
今の社会はお金があれば力を持つことが出来ます。


今の時代はお金がお金を生みますし


全ての価値観は物や財に集約されつつあるからです。


元々が社会的地位がなくてもお金があれば
それを持って資本として資本家になれば社会的地位も買えます。


ほしい物は何でも手に入れることも出来ますし


人をも動かすことが出来ます。


それは権力に他ならないと思います。


そして心のエゴが欲に満ちている私達は
誰よりも偉くなり権力とお金を少しでも多くほしいと望むようになり
そして社会は乱れるのです。
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スペースブラザーズの社会の羨ましさは
何よりも誰もが平等だという意識を持っていることです。


姿も形も能力も、全てが人によって異なっているのは
彼らの社会も私達の社会と同じです。


しかし彼らは他人を創造主の表現でありフォーム(形態)であるとみなすのです。


彼らの意識には人間の能力の優劣の差はありません。


誰もが相手を創造主の表現、
つまりは創造主の意志の現れであると認識するそうです。


彼らの目的は調和であり進化です。


特定の能力に差があれば、そこに優越感を持つのではなくて
それを相手に教えると言う奉仕の気持ちに変えるのです。


一方ではそれを教わる人間は謙虚な意識でそこから学ぶことになると思います。


そうやって彼らは他人や万物と共に進化を続けている。。。


彼らは調和と進化を実践しているのです。


考えてみれば私達は永遠を生きるのですから
1万年生きている人間と10万年転生を繰り返している人間とでは
進化の度合いも異なるのは当たり前です。


ましてすべての面において他人よりも優秀な
脳や肉体を持っている人間など存在してはいません。


私達の社会が勝手に人間の評価基準を設けているだけであり
その価値基準は真理ではないのです。


しいて上げれる進化の具体的評価基準があるとすれば
イエスキリストのようにより神に似ていくこと、


創造主の意志を自分の肉体を持って
より表現できることこそが進化の進んだ証拠だと思います。


そして「私の肉体を持って父が為している」と言ったイエスのその意識こそが
神に似ている事の現われではないでしょうか。


更に、私達は他人に劣等感を感じる必要もなければ
優越感を感じてもいけないのだと思います。


時がたてば誰もが一歩ずつ進化するわけですし、
究極の目的は創造主に限りなく似ることであり
そのころには私達の脳も100%活性化するのかもしれません。


私達のように、”謙虚”と反対の意識である
”傲慢さ””驕り高ぶった意識”を持っていては
物事を学ぶと言う姿勢すら持てなくなってしまいます。



彼らの社会では仕事であっても、
それが真の意味で社会を通じての創造主への奉仕となっている事も
この社会との大きな違いだと思います。


彼らにとっての創造主への奉仕は、
神を賛美することではなくて神の創造物と調和しそれに奉仕することです。


万物は四次元における創造主の魂を三次元で表現したものです。


私達は創造主の分身として存在するのですから
万物への奉仕はそのままが創造主への奉仕となります。


しかも創造主の意志に従い奉仕すること、
つまりは”御心を実践すること”で私達は進化することにもなるのです。


そして彼ら天使達はそれを仕事でも勉強でも実践しています。


彼らは自分達の社会を維持すべきために必要な仕事と言うものを
最初に想定していて


それを皆で協力して実践している存在だと思います。


それは私達が仕事と言っているものよりは
ボランティアでの共同作業と言われるものに近いかも知れません。


それは見返りを求めない奉仕であるからです。
(必要な衣食住はそこから与えれますが
万人に対して必要なものが与えられる)


そして与えられた仕事をこなす事が
その社会を構成する人々全員への奉仕となりますし
人々への奉仕はそのまま創造主への奉仕です。


そんな奉仕の積み重ねが彼らを真の進化へと導いているのです。


私達の持てないでいる平等の意識と謙虚を持っている事が
彼らの社会をも進化させている。


そんな話に繋がって来ると思いますがいかがでしょうか?


私達であればこそ気が付くこの社会の間違いも沢山あります。


しかし既存の価値観や習慣は容易に変えることも出来そうにありません。


せめて私達の様にその事に気がつき
それを心に留め続ける事の出来る人間が増えてくれれば
それはいつしか実践されるかもしれませんね。


理想の社会は果てしなく遠い。


しかし私達はその理想を持ち続けなければいけないと思います。


【貴方に無限なる力の祝福がありますように】


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P.S.


そして彼らは日々の生活の中でも
お金のために働くことで日々を終えてしまうこともなく


残された多くの時間で勉強や研究を続けては
更なる進化を続けているのです。


一方私達の社会での仕事は決して社会奉仕ではありません。


それは給料と言う見返りを求めるための行為であり
無償ではないからです。


しかも一方ではその自分の奉仕は
企業や資本家に分配されることにもなります。


私達は創造主の意志に奉仕しているのではなくて
資本家や企業家と言った特権階級と、
お金に対して奉仕しているようなものです。


そして個々の企業も社会奉仕のために存在しているのではなくて、
見れば分かるように利益獲得こそが目的となっています。


本来社会にとって必要な仕事でも、
それがお金にならなければ企業として存在することは出来ませんし
不要なものであってもそこにお金が動けば仕事として成り立ちます。


結果この社会の中では本来必要とされるべき仕事が存在しなくなり
無用なものであってもそれでお金を生むとなればそれは仕事になるのです。


この社会の仕事と言うのは社会奉仕ではなくて
お金獲得の手段の延長にこそ存在しているわけです。


結局はそこでもお金が私達を動かしているのです。


一方人間の欲は限りないために資本家はもっと利益を出そうと勤め
私達は少しでもお金を稼ごうとします。


それは、社会や人類や創造主への奉仕という意識とは
かけ離れている事に気がつくべきです。


更に私達の人生は、
労働と消費をすることが目的になっています。


生活のため、お金を稼ぐために夜遅くまで働いて
帰ってくればお酒でも飲んでぐったりしながらTVをみる。


せっかくの休みには部屋でごろ寝か
外に消費にお出かけです。


自分の進化のために研究や勉強を続けていると言う人は
ほとんどいないはずです。


私達はお金を中心に労働と消費のために生きています。


そこには私達の人間としての進化など存在してはいないのです。


だからこそ私達は太陽系の中で
地球社会の中に落第し続けているのです。


一方必要なものを皆で作り上げ必要な人間に分け与えている社会では
元々の彼らの意識も高い事もありますし


彼れが必要以上の多くの物をほしがらないために
労働時間も短くなっています。


彼らは元素を無駄に使用することもないのです。


通販で買ったダイエット器具が押入れで大量に眠っていることもなければ
共同して使用できるものは個人が所有することもない。


結果製造する商品も少なくてすむことでしょうし
資源の無駄もありません。


少ない資源を奪い合う必要も無いですし
もともと彼らはそんなことはしませんが。


製造の機械化も進んでいることもあるのでしょうが
イエスの母星と言われる金星社会では


一日二時間程度の労働で皆が必要なものが
届きわたる暮らしだと言います。


私達の社会の労働時間にして集二日程度の労働が
彼らの日課だと言うことです。


彼らはお金にも権力にも地位にも拘る事がないので
仕事と消費のために生きる必要もないのです。


そして人として求められている事を自覚してい彼らは
自分達の勉強と経験のためにこそ時間を費やすことになります。


私達の社会の姿はそのまま私達の価値観の反映になっていると思います。


偉くなることで権力と見返りが大きくなる社会。


平等でないがゆえに誰もが競争しては多くの見返りを求める。


無償ではなくて多くの代償を求め

しかも優越感や劣等感、傲慢さに満ちて生きているのですから
進化など難しいのは当たり前ですよね。