第二講義 VOL2 | 不幸のブログ 

不幸のブログ 

三次元と四次元の狭間 に関しての記事と生命の科学と宇宙の法則
について語ります。



先日Tvで国内の水源事情を取り上げていました。


内容は水源が外資によって買われていると言う内容でした。


これに関しても様々な意見があるかと思います。


それが単に利益獲得を目的とするものなのか
それとも母国に対して外資を送る事を目的とする物なのか
私達は判断できませんからこのことに関しても

其れだ良い事なのか否かは伏せることにします。


ただ、この話に関連して、
私達がまず意識しなければならないのは


外国の人間達が言っているように


「日本は水と安全がタダで手に入る国である」


と言う事だと思います。


私達はとても恵まれた環境に暮らしています。


生物が生きていくためには絶対に必要とされる水と言う資源、
それが廉価で安全に手に入れることが出来るのがこの日本です。


更に、自覚こそ無いかも知れませんが
この社会は他の国と比べても豊かな方だと思います。


そしてそこで暮らしている人間達の意識にも
沢山の道徳心が詰まってもいます。


つまりこの社会は人が人として暮らしていくための環境が
しっかりと整っている環境であると言えるのです。


そんな恵まれた人間の立場で思考すれば、
その恵まれた富を恵まれない人間に与えることを意識するのは
当たり前だと言えます。


以前、ある国の水事情をTvで見た事があります。


特定の地域では殆ど雨が降らず、水を手に入れるのは
至難の業だという話でした。


また別の国では急速な経済発展のため
水の汚染がつづき、そこで農作物を作って暮らしている人間は
そんな汚染された水で生育した農作物を食べる羽目になるそうです。


私達には考えられないような、とても困難な状況の中で
やっと何とか暮らしている人間達が今この瞬間にも世界には大勢いるのです。


それを省みれば、自然環境に恵まれ、豊かに暮らせている私達が
そんな境遇を自分達だけで守ろうとするのは決して良い事とは言えません。


勿論、誰もが自分こそがかわいいと言う意識を
本能と心のエゴによって培ってしまっているのが
私達、この世界の人間です。


しかし私達はできるものなら多くを持つものは
持たないものに対して分け与える

そんな意識を持って暮らしたいものです。


一方、持たないものは持っているものを妬むのもいけないと思います。


そんな意識がありとあらゆる側面で争いを生み出す事になるからです。


そして私達の社会の悲劇は
資源としての元素が有効に配分され流通していない事です。


これが殆どの争い事の原因になっているのだと思います。


お金と言うものが、資源を流通させるための
道具であると意識すれば


私達はそのお金含めて、この社会の中の資源を
もっと有効に活用し、世界の隅々まで皆が必要とするものを
流通させる事こそを意識すべきではないでしょうか。


そして同時に意識すべきは資源は限りあるものであるということです。


誰かが独占し大量に保有すれば、誰かが無駄にすれば
其れを必要とする別の人間にそれが行き届かないことにもなります。


私達は誰もが自分達だけの事ばかりを考えて生きています。


それは自分が今この世界に存在している本当の目的を
理解していないからです。


自分の目先の生活を維持し、
もしくは自分の心のエゴを満たす事にばかり意識を向ければ


誰もが必要以上のものを欲しがり

その結果、資源は必要としている全ての人間には
行き届かない事になります。


そうしないためにも私達は今を生きることが大切なのです。


老後をひたすら心配するのは、
私達が自分の今の生を一度きりであると信じているからこそ
培う事となった習慣です。


一度きりだと思えば、誰よりも裕福になりたい、楽に暮らしたい、
そしてありとあらゆる事を体験したいと願う事にもなります。


其の人生を少しでも長く生きようと、
更には面白おかしく暮らそうと言う気持ちにもなるでしょう。


このような全ては、今現在私達が常識と考えている価値観が
作り上げてしまった悪しき習慣なのです。


そして誰もが持っている心のエゴが其れを後押しする事にもなります。


心は自分を心地良くしてくれる事ばかりを願います。


其れを満たす事を繰り返しては
結果的には他人から自分を独立させて


自分中心に何事も見つめるようになってしまっているのが
この社会の多くの人間です。


しかし私が以前から言っているように
私達は誰もが至高なる英知の一部なのです。


私もそして貴方も誰もが神の分身として存在しています。


そんな自分を全体の中の一部であると認識する事が出来るようになりさえすれば
私達は誰もが他人と自分の間の垣根をはずす事ができるようになる。


自分の事だけではなくて他人の事を考える事ができるようにも成ります。


もしも自分が宇宙全体の中の一部であると言う意識を持てないのなら、
せめて自分は地球の中の一員と言う意識を、


それが無理なら国や家族の一員と言う意識からでもかまいません。


私達は自分のエゴにばかり向けている意識を自分の魂に向け
それと根底では繋がっている多くの物事や存在にも
意識を向けるべきです。


其れを地道にステップアップすることで

自分が全体の中の一部であるという其の要素を
どんどんと広げていってみてください。


意識を向ける対象を拡大して行くのです。


其の事が私達を全体の中の一部であると言う意識へと
変えていくことになる。


私達は誰もが神の作り上げた宇宙の一部であると言う事を
自覚できるようになるはずです。


今の生ではむりでも次の生で、
次で無理なら其の次でその事を出来るだけ多くの人に
実感していただきたい。


私達は心にばかりに捉われてはいけない。


その事をしっかりと認識して頂きたいと思います。

--------------------------------------------------------


本題です。



第二講義 VOL2


私達が如何に感覚器官に依存して生きているかと言う事に関して
誰もがその自覚はないと思います。


見えて当たり前、聞こえて当たり前。


私達はその感覚を当たり前だと感じて其の状態に
慣れ親しんでいるからです。


勿論、以前の私もその事を自覚していませんでした。


しかし大学時代にそれを嫌でも認識させられる体験を
した事があります。


それは一切光の届かない”真の暗闇”の体験でした。


高速道路の高架橋の真下に長い側道があって
私は夜にそこを歩くという経験をした事があります。


その場所は長いトンネル状態になっている事もあり
道の真ん中にまで到達すると光は一切届かない状態でした。


つまり真っ暗闇で一切の光が視覚で感じる事が
できない状態になるのです。


その時私が感じたのは恐怖でした。


恐怖と言っても暗くて怖いというものではなくて、
真っ暗闇の中、一切視覚を感じる事が出来ない状態に、
心が不安でたまらなくなったのです。


それまで当たり前に使用していた視覚が一切使用できなくなり
そのために訳の判らない不安に陥り、


その上で体がふわふわとまるで平衡感覚を失ったような状態になり
そして地面に足がついていないような感覚を感じる事になりました。


その頃から怖いもの知らずだった私が其の時怖いと感じたのは
暗闇やそこに潜む危険ではなくて


単に普段、正常に使用できている感覚を失ってしまった事に対する
不安によるものだったようです。


近年で言えば私は聴覚に関しても不安を感じた事があります。


数年前に靖国神社に出かけた時に
夏の暑い中で無理して厚着でいたために熱中症のような感覚に陥り
聴覚が突然くぐもりだした時です。


その時は流石に涼しい場所に移動し
最後にはその場を後にして速攻で家に帰る事になりました。


しばらく続いた聴覚の違和感に
底知れぬ不安を感じた事を覚えています。


この事は私が無自覚のうちに感覚器官が使用できる事を
当たり前だと認識していたためと理解する事が出来ます。


おそらく私達は誰もが通常そのように、
無自覚の内に心が司る感覚器官に依存して生きているのです。


見えないものに導かれている人間であれば、
聞こえないものを聞いている人間であれば、
おそらくは私のような不安を感じる事にもならなかったのだと想像できます。


しかし私達は通常それができないのです。


結果、日々生活している中で
心が司る感覚器官に激しく依存して生きていると言う実態があります。


私達はまずその事を自覚する必要があるのです。


感じようと勤めるのではなく、ひたすら受身で波動を受け続けている。


因を感じるのではなくて、現象から現象へと目を向けて暮らしている。


誰もがそんな暮らしを続けています。


原因と結果として表現すれば
私達は結果ばかりに目を捉われていて、其の原因を
追求しようとはしていない事になります。


しかもその結果にしても色眼鏡を持って
心の価値観を持って見つめている。


それが私達の実態なのです。


私達は三次元と四次元を同時に体験している存在です。


只、結果としての現象を受け止めるだけではなくて
そしてそれを色眼鏡で見つめるのではなくて


持つべき意識を持って先入観や好き嫌いなしに
正しく見つめなければならない。


其の上で其の因なるものを感じてこそ
この社会を100%生きていることになるのです。


私達は目に見えるものと目に見えないものを
同時に感じ取らねばならないと言う事です。


今の私達は人生の半分しか生きてはいない。


アダムスキーの語った其の言葉が意味するのはまさにそのこと。


私達はイエスキリストの語った”死人”でいてはいけない。


その事を意識して暮らし続けて欲しいです。


【貴方に無限なる力の祝福がありますように】