戒律と進化 | 不幸のブログ 

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三次元と四次元の狭間 に関しての記事と生命の科学と宇宙の法則
について語ります。



極端な思考は決して進化を齎さない。


そんな事を考えるようになりました。


実は以前の私は自称正義感の塊でした。


良くないこと、間違っている事を指摘してはそれを叩く、
そしてそれの改善を求めるのが正しいと考えていたわけです。


その結果自分の正義感に抵触するものはすべてが悪とされては
私に叩かれる事にもなりました。


ただ、私の大きな間違いは、その判断基準を
結局は自分の価値思考に求めていた事にあります。


何が正義で何が悪なのかは
私達の自らの価値基準がそれを決める事になっている。。。


私達の心の価値観は私達が自分の本能と体験に拠る価値観によって
作り上げていくものである。。。


それは個人差があってもちろん千差万別であり
絶対的な価値基準など存在してはいない。。


私はその事に気がついていたはずなのに、
それを忘れて自らの価値観に基づいた正義を持って
しかもそれで対象物を裁くという誤りを侵していた事になります。


私達の善悪の価値基準は
私達が自分の生活の中で色々な経験を積む中で
心の心地良さや自分の嗜好と併せては無自覚のうちに作り上げた幻想だと思います。


それは決して絶対的なものでは有り得ないはずです。


私はその事を十分理解しているつもりでいながらも、
実は自分が真の正しい基準を持っていない事に
気がついていなかったわけです。


当時の私のその価値基準で世の中を見つめると
ありとあらゆるものが批判の対象にもなりました。


そしてその批判対象の改善を求める意識ばかりが強くなり、
それを見ている自分の意識の改善をおざなりにしていた。。。


そんな実態も在ったと思います。


これは私だけではなくておそらくは多くの人間
そしてあらゆる思想にも当てはまるものだと思います。


私達は誰もが無自覚にこのような状況を強いられているのです。


長い人生を歩む中で、それは私達の常識となり
気がつくとそれが物事を思考する尺度となっていて
しかも自分ではその事に自覚できてはいない。


私達がもしも”正しい”とされるものを認識することができれば
私達はそんな誤りを犯さずにすんだかもしれませんが
私達はその”正しさ”を認識する尺度を受け止めることができないのです。


そのために私達はいつしか自分の心地良さと不快さに
善と悪という名称を持って
自らの裁きの基準を設けるにいたります。


そしてその誤りを気がつく事なく今も生き続けているのです。


私はその事に少しだけ気がつく事ができました。


例えば、戒律の存在を考えてみてください。


徹底して自分の心の思うままにふるまう事を良しとする人間と、
徹底して自分に厳しい戒律を課す事を良しとする人間がいたとします。


この双方はお互いが異なった戒律を持っていると言う事で
争うことにもなると思います。


自分にとって正しい生き方は自分の生き方であり
相手の生き方は自分にとって悪だからです。


この両者が接点を持ちうるのはこの人間達が聖人であったような場合だけです。


元々の意識に他人に迷惑をかける意識をもたず、
そして自分の高い志を持ってそれに従って生きていれば


戒律のない状態であっても
その人間は一切誤りを実行することはなくなります。


放置しておいても他人に迷惑をかけることもないわけです。


無戒律であってもその人間は私達が罪と呼んでいるものを
侵すことはないのです。


しかし通常の私達は自分のエゴに従って奔放に振舞えば
あちこちに罪を犯すことにもなります。


そしてそのためにも私達は法律や戒律を持って
自分達の行動を規制したのだと理解できます。


一方では、聖人のようなすごい人間であれば
自らに多くの戒律を課しても、


それを自らの課題として消化しながらも
それを持って他人を裁く事もありません。


しかし聖人になる事のできない私達は、
多くの戒律を自らに課すと、それを自分で消化するだけではなくて
それをもって善悪の基準として他人を見ては裁く原因にもなります。


その意識で他人を裁いたとすれば、
それは無法状態をよしとする人間が他人に与える迷惑とは異なりますが、
結局は他人に対して良くない影響を与える事に変わりは無いと言うことです。


私はまさにそれに近い事を実践していました。


自分を絶対的な善であると勘違いしては
その視線であらゆる現象を見てはそれを裁いていたのです。


そして今となって気が付いたことは、
本当の正しい事は両極端ではなくて
真ん中にこそ存在しているのだと言う事です。


聖人には成りえない私達のような器の人間にとって、
自分勝手な生き方も、必要以上の戒律を持って生きる生き方も


結果的には自分の善悪の基準を独自に作り上げては
他人に悪影響を与えかねないと言うことになります。


しかし元々この創造主の世界には
善と悪というものは存在してはいない。。


それが正しい認識のようです。


私達が体感すべき状態は私達の主張する善と悪が融合した状態。


創造主の持っている偏っていない意識こそが
私達が持つべき本当の意識だと言うことです。


そのためにも私達は自分の魂を通じて
その意志の欠片を認識する事が必要である。。。


これが今の私達にとっての一番の課題であり
同時に難問となっているのだと思います。


進化を果たしてテレパシーを体感して下さい。


魂を感じて見てください。


その時に私達は通常は見えない神の意志を
感じることになるのだと思います。


僭越ながら少しだけ進化を果たしたと
自称する人間の寝言でした。