6.
「おう、そんじゃ行ってくるな」
紫堂秋彦(あきひこ)はそう言うと席を立った。テーブルの上の茶碗には几帳面にそろえた箸が置いてある。磊落でいて繊細。おおらかにして几帳面。彼の人となりを言葉にすると、相反する形容が並ぶ。
「いってらっしゃいあなた」
妻の諒子(りょうこ)は大学時代の同級生だ。とは言え、年齢は4つほど離れている。現役ストレートで有名私大に入学した才女を、2浪2留の秋彦が口説き落としたとき、驚かなかったのはキャンパスでは諒子一人だった。
間もなく諒子は妊娠し、大学を中退。20歳で長男、憂弥を出産した。
「約束された人」
諒子は秋彦のことをそう表現した。それは周囲を大層呆れさせたが、もとより一度言い出したことは絶対に曲げない頑固者だということと、秋彦と一緒にいるときの諒子があまりにも幸せそうな顔をしているのを見て、両親も周りの友人も反対することができなかったという。
6年がかりで大学を卒業した秋彦は、さらに警察学校に入学。足踏み、遠回りを経て、現在は警視庁の捜査官として勤務している。
「おう、今日は遅くなるよ。先に寝ててくれ。憂弥もなっ」
「はいよ。言われなくても早寝するって」
「そうか、明日だもんな、大会」
「うん。ま、かるーく日本一になってくらぁ」
「すごい自信だな」
「父親譲りよ。ホント、よく似てるわ…」
「ははっ、じゃあ明日は間違いなくうちの大将が優勝だな、俺の子だし」
「そんなに簡単にいくかしら?」
「任せといてよ」
「頼もしいな。んじゃ、行ってくらぁ。明日は応援に行くぞ。そのためには、今日がんばっておかないとな」
「行ってらっしゃい。気をつけてね」
「ああ、行ってきます」
「行ってらっしゃい」
「行ってらっしゃい」
2年前、紫堂家の食卓に影はなかった。