『声』の残し方-いつかの、だれかに… -8ページ目

大阪に戻りました。

今朝の飛行機で台湾から大阪に戻りました。


こちらはすでに秋の足音が近づいています。夜は肌寒いほどです。


嬉しいことも、悲しいこともあった、台湾での夏、でした。

切った足、繋がった橋。

先週の火曜日。初めて楽生院に行った時からお世話になっている方が、左足を切った。


ずっと「痛い痛い」と言っていたのは知っていた。食事が喉に通らないほどの痛みだったという。二週間前、楽生院を訪れたとき、足を切ることにした、と話していた。


そして昨日、お見舞いに行ってきた。「いまはたくさん食べたい」と大好きな牛肉麺を残さず食べた。


しかし、右足も何年か前に切断しているので、両足義足の生活が始まる。一人暮らしで、転んだりしないだろうか。


それから、どうなるかはっきりしていなかった迴龍醫院と旧楽生院区を繋ぐ橋が架かっていた。まだ完成していない。完成すれば行き来がだいぶ楽になる。


『声』の残し方-いつかの、だれかに…


『声』の残し方-いつかの、だれかに…

分け隔てられた楽生院。

いま台湾です。けれど、今週はパソコンに向き合う時間が多くてあまりお出かけが出来ませんでした。が、なんとか一段落ついたので、来週からは外に出ようかと思います。


それでも、先日(19日)、近くを通ったので楽生院に行ってきました。工事はだいぶ進んでいます。びっくりしました。


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「旧楽生院」側から「迴龍醫院」を眺めると、間には工事現場。奥に見えるのは「迴龍醫院」の立体駐車場。

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こちらは「迴龍醫院」側から見た「旧楽生院」地区。以前使われていた病院の一部(写真正面)が、取り壊されずに残っていますが、壁にはヒビが入り、立地も悪いので、とても保存できるようには思えなかった。


というわけで、今の楽生院は、間に工事現場を挟んで、「旧楽生院」と「迴龍醫院」の二つの地区に分け隔てられています。


この二つの地域を繋ぐ橋をかける、という話がありますが、いったいいつになるのか、はっきりしないようです。


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その橋が出来るまで、この車で両地域を行ったり来たりするそうです。一度に乗れるのは二人まで。なので、「旧楽生院区」に治療にやってくる院民は、ちょっと大変です。でも、これまではこんな送迎車はなく、車椅子で一般道を移動していました。


今回は、3時間ほどの滞在で、あまりゆっくり話しも聞けなかったので、9月にもう一回行ってこようと思います。

暑いです。

・この暑さ、なんとかならないかなぁ。クーラーもなければ扇風機もない今の生活、そろそろ限界かも。そんな暑さのせいか、さいきんちょっと疲れ気味。

・そんな暑さとはまったく関係ないけれど、なんとなく、こんな歌が聞きたくなった。



・きょうは「大江・岩波沖縄裁判学習会」に参加。その帰り、学習会に参加していたという面白いおじいちゃんと梅田までご一緒させてもらう。

森宜雄『地(つち)のなかの革命』(現代企画室)。

森宜雄さんの新著。とりあえず「序章」まで読んだ。続きは時間を見つけて、こつこつ読んでいこう。

地のなかの革命―沖縄戦後史における存在の解放/森 宣雄

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出版社のホームページ より。

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沖縄と奄美、世界をつなぐ「消尽する革命」の大地
新史料と哲学によって明らかにされた新たなる世界史

1956年「島ぐるみ闘争」を準備し2010年の「普天間返還を求める県民大会」にまでつながる、占領下に生まれた「存在の解放」の思想とは?
「……献身のなかの変革を党派のものではなく「郷土」のものとして地下に浸みこませること——それによって基地のない未来を基地の地下に用意する。「郷土」は、そこでは所与の共同体や不変の原郷であるのではなく、基地沖縄の変革において新たにつくり出される、変革の大地である」(本書より)


『声』の残し方-いつかの、だれかに…

KoreaTour2010:ソウル‐いろいろなこと。

大邱からソウルへ。


ナヌムから小鹿島、陝川、大邱、そしてソウル。これからの日程は、ソウルが拠点になる。


自由行動日は、韓国独立記念館にいく。ソウルから約2時間。遠かった。


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韓国の国旗がこんなにたくさん。


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こんな銅像も。先頭は男で、女や子どもは、後ろから着いてくる?そんな構図かな。


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そういえば陝川でたまたま見た3.1独立記念碑も、やっぱり先頭は男。そして指を指している。その先には何がある?


独立記念館は、第1館から第7館で構成されている。駆け足で第1館から第6巻まで見ることができた。第7館工事中。


気になったのは、展示の解説。基本的には、韓国語、英語、日本語、中国語だけれど、展示の内容によっては日本語や中国語がなかったり、訳に微妙な違いがあったりする。


しかし、自由行動日のこの日は移動でほとんどの時間をとられてしまった。


自由行動日の翌日は、民族問題研究所内の「太平洋戦争被害者補償推進協議会」へ。


隊長に言われて気づいたけれど、話をしてくれたのは「アニョンさよなら」の李煕子さんだった。


李さんの話のあと、協議会の事務所内にある展示室を見せてもらう。ここには日清戦争を書いた錦絵、教科書、すごろく、絵葉書・・・などが展示してあった。どれも貴重品だという。


なかでも気になったのは、B4サイズの紙に書かれた絵だった。


その絵をよく見てみると「WHITE CAMP」「BLACK CAMP」、そして「泰緬鉄道」というキャプション。おそらく、この絵を描いたのは、日本軍の捕虜になったアメリカやイギリスの軍人を監視していた朝鮮人で、日本軍の捕虜収容所の様子を描いただろうと推測できる。だとすれば、この絵の作者は戦後、BC級戦犯として裁かれたのかもしれない。


午後は、トゥレバンを訪問。基地村で働いたロシア人女性のドキュメンタリーを見る。が、英語だったこともあり、内容はほとんどわからず。


そして、夜は、金貴玉先生のお話を聞く。先生は、朝鮮戦争時に、韓国陸軍が日本軍の慰安婦制度を真似て慰安部隊を編成していた、と何年か前に発表し、「右」からも「左」からもいろいろな「問い合わせ」があったそうだ。


ツアー最終日。この日は、発表会。台湾、沖縄、韓国のグループ発表のあと、三チームにわかれて討論。最後に討論したことを発表して、発表会は終了。そして、打ち上げに。


今回の韓国ツアー、疲れたけど、すごく楽しかった。それから、じぶんの立場についてよく考えた。メンバーのなかでの立場、とか、ナヌムの家での立場、とか。ときに自分で選んだ立場もあった。けれど、いつのまにかその立場に立たされていたこともあった。そうした立場が、すんなり決まることもあれば、なんか変な空気を感じることもあった。


でも、そんな「立場交渉合戦」というか、ある一つの立場に安住していることが多い私は最近そういう「スリル」もないので、そういった意味でも楽しかったかな。たくさんの場所にも行けたし。

KoreaTour2010:大邱‐5/300、歌、歴史観。

陝川を訪問したその日に、大邱へ移動。


大邱では、「大邱市民の会」を訪問、李容洙ハルモニのお話を聞く。


李ハルモニと合流して、まずは昼食をとることに。

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李ハルモニは、台湾・新竹の空軍基地に作られた「慰安所」で被害を受けた。バックからファイルを取り出し、その空軍基地について書かれた記事を見せてくれた(この「慰安所」は、アメリカ軍の空襲で焼けたようだ)。

そして、昼食のあと、「市民の会」の事務所で、李ハルモニのお話を聞いた。

李ハルモニは、300人の軍人が乗った船に、他の4名の女性と一緒に乗せられた。300人の軍人に5名の女性、しかも逃げようのない船に、である。「この意味がわかりますか?」と李ハルモニ。

船から降ろされたその場所は、とにかく熱かった。ここが台湾・新竹だと後から知った。ハルモニは、新竹の空軍基地で被害を受けた。そして、「悔しい」と泣き崩れた。

その基地で、こんな出会いもあった。

基地で、特攻兵として徴用された日本人と出会う。その特効兵は、出征する前の日の夜、歌を歌ってくれたという。たった三回聞いただけなのに、いまでも口ずさむことができる。実際に歌ってくれた。


私は、そのハルモニが歌ってくれたその歌を、どう聞いたらいいのか、戸惑った。連行され、船や「慰安所」での被害の話よりも、この歌のほうが、わたしにはつらく、重かった。


ハルモニの話の後、「大邱市民の会」のイ・インスさん、アイスを買ってくれたチョン・ミンジェさん、活動家ですと言っていたいイ・ゴニヒさん、大学生のチョウ・スンホさんを交えて、「市民の会」の説明を聞く。

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「市民の会」の表札。


「市民の会」は、アジア女性基金(国民基金)をきっかけに設立された。色々な団体と協力して、過去史清算の活動を行なっている。平和や人権について考える歴史館は各地域に必要だ、と言っていた。


また、「慰安婦」にされたハルモニたちの生活を支えようと、一ヶ月に何回かお宅を訪問したり、ドライフラワーで絵を作る活動なども行なっている。


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すべてドライフラワーで出来ている。


今年は日韓併合100年である。韓国では「国恥100年」として、8月14日に平和大会を開くそうだ。


そして、台湾はどうですか?と、質問される。


隊長も答えていたけれど、知る限りでいえば、日本統治時代を「国恥」としたり、8月に平和大会を開いたという話は聞いたことがない。


だからといって、韓国が反日的で、台湾が親日的だ、とは単純に言えないように思う。たとえ、仮に、そういった「お話」があったとしても(というか、かなり強い主張としてあるんだけど)、それらは昨日今日に出来た「お話」ではなく、戦後の歴史観として(とりわけ民主化以降の90年代ごろからか?)今に続いているのだと私は思う。


そうした韓国・台湾の日本に対する歴史観を、日本人たちがどう考えるのか。政治的にこじらされて、難しい問題だけれど、大切なことだと私は感じている。

KoreaTour2010:三菱重工、対話の意向。

水曜集会の後、メンバーの何名かで「韓国挺身隊問題対策協議会」を訪問した。その「挺隊協」からのMLで、こんなニュースが送られてきた。(ツアー最終日に行なった討論会のテーマ、「作られる「被害」意識‐韓国・台湾・沖縄の現在」ともすこし関係するかな?)


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【光州15日聯合ニュース】

 日本の三菱重工業が太平洋戦争中に強制労働に動員した勤労挺身隊被害者の問題について、交渉の意志を示したことが確認された。日本による植民地支配からの解放後、強制徴用被害者に対する日本企業の補償が初めて行われるかどうかに注目が集まっている。
 市民団体「勤労挺身隊ハルモニ(おばあさん)とともにする市民の集まり」が15日に明らかにしたところによると、三菱重工業は14日に勤労挺身隊問題解決に関連する協議の場を設けることに同意するとの意志を「名古屋三菱・朝鮮女子勤労挺身隊訴訟を支援する会」に伝えた。支援する会は、勤労挺身隊問題の解決に向け結成された日本の団体で、被害者の損害賠償訴訟などを支援してきた。

 「勤労挺身隊ハルモニとともにする市民の集まり」は先月23~24日、東京の三菱重工業本社を訪問し、勤労挺身隊問題の解決を促す韓国の国会議員100人をはじめ13万4162人の署名のコピーを渡し、交渉に応じるよう求めた。三菱重工業は議論の末、謝罪と補償がある程度必要との事実を認め、交渉のテーブルに乗るとの意志を示したという。

 同団体関係者は「三菱重工業は、日本に対する韓国内の否定的な世論を相当負担に感じていた。交渉は来月ごろ始まるとみられるが、補償や謝罪問題など、交渉がうまく行われるかは見守りたい」と述べた。


http://japanese.yonhapnews.co.kr/relation/2010/07/15/0400000000AJP20100715000800882.HTML


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これからの交渉を見守りたい。が、「ある程度必要」は何を意味しているのだろう。なんかすっきりしない。


読売新聞もこのニュースを報道している。


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【ソウル=仲川高志】

 第2次大戦中、「勤労挺身(ていしん)隊」として、名古屋市内の三菱重工業の軍需工場で働かされた韓国人女性と遺族らが補償や謝罪を求めている問題で、三菱重工側が話し合いに応じる意向を示していることが15日分かった。

 三菱重工本社は14日、女性らを支援する韓国の市民団体に対し、総務部長名の文書で、補償や謝罪には言及せず、「問題について話し合いの場を設けることについて同意する」と回答した。協議の具体的日程は決まっていない。

 この問題では、女性ら8人が日本政府と三菱重工に総額2億4000万円の損害賠償と謝罪を求め提訴。2審の名古屋高裁は2007年、違法な強制労働や強制連行があったと認定したが、補償問題は解決済みとする日韓請求権協定(1965年)に基づき請求を棄却した。08年には最高裁で高裁判決が確定している。


http://www.yomiuri.co.jp/national/news/20100715-OYT1T00884.htm


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こっちでは「補償や謝罪には言及せず、…」と書かれており、こっちもすっきりしない。


いずれにせよ、今後の交渉がどう展開するのか、見守りたいと思う。

KoreaTour2010:陝川‐韓国のヒロシマで。

小鹿島病院を案内してくださった李世容先生を送って小鹿島のホテルに戻ったときには夜中の2時をまわっていた。あと何時間かしたら、ここ小鹿島を離れ、陝川に向かう・・・。


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左の島が小鹿島。どことなく基隆の正濱漁港から眺めた和平島の風景と似ている。和平島にかかる橋はあんなに立派じゃないけれど。


目指す陝川は、韓国のヒロシマ、ともいわれる。なぜなら、ヒロシマで被爆した「韓国人原爆被害者」に陝川出身者が多かったからだ。


そんな陝川にある「大韓赤十字社陝川原版被害者福祉会館」と「韓国原爆2世患友会」を訪ねた。


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「福祉会館」の表玄関。


「福祉会館」は、1996年に開館し、今年で開館14年をむかえる。ここに暮らすのは全て「原爆被害者1世」の方々だ。


まず「福祉会館」の説明を聞き、そのあと、「被爆」の経験を聞いた(ごめんなさい、話してくれたハルモニの名前を失念してしまいました・・・)。


よくもわるくも「語りなれた」お話ではなかった。だけど必死に話すハルモニの姿が印象的だ。「日本に帰ってから、今日話したことを伝えてください」とハルモニは話を閉じた。


その後、「福祉会館」を見学させてもらった。


その時間、私があるハルモニとテレビを見ながら話をしていたとき、歩行がうまく出来ないハルモニが靴をはこうとしていた。けれど、足がうまく動かなくて上手に靴をはくことができない。「原爆の影響で歩けなくなった」と側にいたハルモニが教えてくれた。


原爆の被害は、1945年で終わったわけでは決してない。いつ、どういった症状がでるかわからないし、その被害は次の世代にも及んでいる。そして、その次の世代にも。いつまで原爆の被害は続くのだろうか。


「福祉会館」の後に訪れた「韓国原爆2世患友会」は、直接「被爆」してはいないけれど原爆の被害に苦しめられている「原爆被害者2世」の方々で組織されている。


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「患友会」の看板。


「患友会」会長・韓正淳さん、事務局長・陳景淑さんのお話を聞く。そして、「2世」がいまどのような暮らしをしているのか実際に見てほしいので、時間があれば見に行きませんか?と韓さん。そして、少しの時間だったけれど、「2世」の方のお宅にお邪魔した。


その「2世」の方は、20代で目と耳が機能しなくなった。仕事もままならないので、いまは草履の作り方を習い、いずれはそれを売りたいと言っていた。


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これがその草履。手作りだ。


こうした原爆の被害に苦しんでいる人は、日本にも、台湾にも、いる。もちろん、その他の地域や国にもいる(聞くところによると、20カ国に及ぶという)。


手作りの草履を見ながら、そもそもなぜ原爆は日本に落とされたのだろうか、そして、今まで続く原爆被害者の問題もふくめ、戦後の日本は何と向き合ってきたのかだろうか、とそんなことを考えさせられた。


最後に、「福祉会館」の駐車場のすみに建っていた碑を紹介したい。


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「平和火」と書かれたこの碑、その裏を見てみると、



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「韓国太陽会」、「日本太陽会」、そして「台湾蓮葉会」が建立したと記してあった。


この「台湾蓮葉会」についてネットで調べてみたが、情報は得られなかった。「日本太陽会」については、こんな記述があった。


「原爆が投下された毎年8月6日になると、福祉会館に一度も欠かさずに訪ねてくる日本人がいる。この10年間、韓国被爆者への支援に率先してきた「太陽会」の理事長、高橋公純(64)氏と同会のメンバーらだ。」 (同記事で、現・韓国大統領の李明博氏が高橋公純氏を表彰しているけれど、これはなんでだ?韓国のためにありがとう、ということかな…)


この記事から考えるに、もしかすると「台湾蓮葉会」も毎年陝川を訪れているのかもしれない。

KoreaTour2010:小鹿島‐「生」の帝国と象徴の政治。

水曜集会翌日の早朝、小鹿島を目指し出発。国立小鹿島病院を訪問する。


国立小鹿島病院 の歴史は、1916年に朝鮮総督府が立てたハンセン病施設に始まる。当初は慈恵病院だったが、1934年に小鹿島更生園に改称、1960年に国立小鹿島病院になった。台湾・楽生院より14年ほど早く建てられたことがわかる。


小鹿島には、楽生院に通っていた関係でいつかは行ってみたいと思っていた。念願、ついに叶いました。


この日、小鹿島を案内してくださったのは李世容先生。小鹿島へ向かう途中先生と合流、昼食をとって小鹿島へ向かった。


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昼食は先生行付けのお店へ。この日のスケジュールは全て先生のコーディネート。大変お世話になりました。



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正午を少し回ったこと小鹿島に到着。休憩も含め約6時間車に揺られました。


小鹿島病院は、島全体が病院かと思わせる広さ。楽生院の何十倍あるだろうか。なので、(これも先生のはからいで)車で病院内を回ることができた。


まず向かったのが慰霊塔。


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慰霊塔には「追悼 故10656位 合同追悼式」とある。「10656」は、2009年10月15日までに小鹿島病院で亡くなった患者の数。


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その慰霊塔の前で。左が李先生、右はナヌムの家歴史館研究員の村山一兵さん。李先生は、ハンセン病患者強制隔離政策の背景には、帝国日本の植民地主義拡大と膨張があったと話してくれた。


その帝国日本が行なった隔離政策に関連して、李先生はとても興味深いことを言っていた。


先生は、戦前に作られたいくつかのハンセン病施設にはある共通点があるのではないか、という。


例えば、台湾の楽生院、小鹿島の更生園、岡山の長島愛生園、東京の多磨全生園、宮城の東北新生園を比べてみると、どれも「生」という文字が使われていることに気づく。そして、ここには、「生」を生まれ変わらせるという意味が込めらているのではないか、ここに人の「生」をもコントロールしようとする帝国の存在・力を感じるのだという。


次に向かったのは、「友村福祉会館」。


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わたしたちが到着したとき、一人ハーモニカを吹く患者さんがいた。


この建物は「福祉会館」だけれど、門には「公会堂」と書かれていた。


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ここは、当時の患者に帝国日本の理念を洗脳する場所だったそうだ。


この門の真向かいには、「敬天愛人」と書かれた記念碑が建っている。


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李先生が推測するに、この碑には昔、皇族の名前が彫られていたのではないかという。そして、こうした碑を建てたりすることを先生は「象徴の政治」と呼んでいた。


そんな話を聞いていて、そういえば楽生院にも同じような碑があったはず、と思って過去に撮った写真を見返してみるとが、それらしき碑の写真が見当たらない。なにかの記憶違いか。


ただ、皇族とハンセン病・施設との関係が深かったのは確かだと思う。例えば、こんな論文 もあるし、また、楽生院で発刊されていた『萬壽果』第三巻の「巻頭言」を見ると「皇太后陛下再度の巨額なる御下賜金を奉戴し…」とあり、皇族から楽生院に再度「御下賜金」が送られていたことがわかる(同号の「特輯欄」では、その御下賜金に対する拓務大臣や台湾総督の感謝が掲載されている)。


また、慈恵院も明治天皇の「御下賜金」で建てられた(はず…)。というのは、あとで紹介する「花井院長彰徳碑」の碑文に「全羅南道小鹿島慈惠醫院大正五年二月以 明治天皇御下賜之基金所設立…」とあったので。


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その碑文がこちら。


その「象徴の政治」との関連で、小鹿島病院の院長をつめた二人の人物を紹介しておきたい。花井善吉と周防正季 である。


花井は1921年から29年の8年間院長を務め善政に勤めたといわれる。一方、周防は1934年から42年まで園長を務めた。しかし、そのあまりにもひどい悪政のため、42年に患者だった李春相に殺された(李先生は、この李春相を伊藤博文を殺害した安重根と同様に英雄として扱うべきだ、と韓国政府に申し入れたそうだが、認められなかったという)。


善政を施した花井には「花井院長彰徳碑」が1930年に建てられているが、悪政を行なった周防の場合、その悪行ぶりが伝えられている。


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いまの小鹿島病院では、二人はこうした語られ方で記憶されている。しかし、李先生は、確かに周防は悪いことをしたけれど、戦時下だった当時の時代背景を考える必要がある、と述べていた。


いまこの記事を書きながら気づいたのは、周防が園長に就任したのが1934年で、慈恵院が更生園に改称したのも34年だということ。すると、周防の歴史はそのまま更生園の歩みと重なるのかもしれない。


それでは以下、何枚か写真を紹介します。


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これは刑務所。時間がなかったので、車で通りすぎた。


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「中央公園」に建つ「救癩塔」。「中央公園」は、周防が患者たちに作らせた公園。



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塔の裏にはハングルで碑文内容は、ボランティア数十名が力をあわせ作った塔・・・だったかな。うろ覚えです。


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断種台。実際に使われたものかどうか、不明。

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かつて患者たちが住んでいた宿舎。いまはそのまま放置されている。赤レンガだし、楽生院のと似ている(ただ三合院ではないけれど。当然か。)


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小鹿島病院には、こんなに広い浜辺があります。私にとって楽生院は大きなガジュマル。小鹿島病院は海かな。