減らない薬 | カトリック・クリスチャン放浪記

カトリック・クリスチャン放浪記

イエス、マリア、ヨゼフ、我御身を愛したてまつる。

北陸地方のおじさんカトリッククリスチャンの日誌。
警備員しています。
見かけたら声をかけて下さい(笑)

新約聖書にはイエスが5つのパンと2匹の魚を増やし、5千人以上の群衆に配り、それでも余ったパン切れと魚を集めると12の籠いっぱいになったという記述がある。
同様の奇跡体験をした人は現在でもたくさんいる。
今回はその一例をご紹介しましょう。

オランダにコリーテン・ブームと言う婦人がいます。
のちに「隠れ家」という映画の主人公になった人です。
コリーはオランダのハーレムで時計店を営む家庭で育ちました。

ナチスが台頭してきた当事、聖職者だったコリーの兄はユダヤ難民の保護活動を始めました。
ドイツがオランダを占領した時、コリーもメンバーに加わり、ユダヤ人の友人たちが無事に密出国できるまで自宅の秘密の小部屋にかくまっていました。
コリーの家は次代に街のレジスタンの本拠地のようになっていきました。

1944年2月28日にコリー家は密告され、コリー、妹のベッツィー、父親は逮捕されました。

コリーと妹がラーベンスブリュック女子強制収容所に到着した時のこと。
コリーは全ての所持品が没収されることを知った。
コリーは小さな聖書に紐をつけ、首にぶら下げていました。
だか、きっと聖書も没収されてしまうだろうと覚悟した。

服を脱がされ、身体検査をされる順番が近づいてくると、コリーはお手洗いへ行く許可をもらいました。
そして自分と妹のウールの下着に聖書をくるみ、その包みを手洗いのすみに置き、収容者の列に戻りました。
囚人服に着替えさせられた後、防寒用の下着と聖書の包みを服の下に隠しました。
かなりふくらみがめだちましたが、コリーは祈りました。

「主よ、天使を使わして私を囲んでください。今日だけは天使を透明な存在になさらないでください。看守に私が見えないように」

コリーわ気を落ち着かせて看守の前を通りました。
コリーの列に並んだ他の囚人は体の隅から隅まで徹底的に身体検査され、どんなに小さな所持品もたちまち見つかり没収されていました。
しかし、コリーは誰にも触れられず、しかも見られもせず通過したのでした。まるでコリーが並んでいるのを誰も見ていなかったかのように。
外へ通じる扉でも厳しい身体検査がおこなわれていましたが、そこでもコリーは見過ごされました。

聖書は所持することを禁じられていました。
聖書を持っているのを見つかると、刑期が倍になり、ただでさえ餓えをしのぐのが精一杯の食料の配給を、さらに減らされてしまいます。
身体検査は定期的に行われましたが不思議と聖書が発見される事はありませんでした。

収容者内においてビタミン不足は命に関わる重大な事でした。
コリーは「ダビタモン」という、複合ビタミン剤を持ち込んでいましたが、収容所に連行された時には、すでに半分しか残っていませんでした。
コリーはこの貴重な薬品を病気にかかり痩せ衰えている妹のためにとっておこうと考えていました。
しかし、他にも病気の囚人はいたし「高熱でふちが赤くなった目や、寒さで震えている手を見たら、あげられないとは言えなかった」そうです。
やがて、毎日この薬を投与する人の数は30人にたっしましたが不思議な事に、その小ビンを傾ける度に口のところに必ず一滴現れました。
コリーも不思議に思いましたが薬はあとからあとから出てきたのでした。

ある日、収容所内の病院の勤務を割り当てられた人が、ビタミンが含まれた薬用酵母の袋をこっそり持ち出し、コリーのもとへ持ってきました。
コリーは囚人一人ひとりに一週間分づつ配りました。
その後、ダビタモンのビンを開けてみると、ビンの底は空っぽになっていました。
しかし、今度は何週間もの間、酵母の袋が空にならず、ダビタモンの代用を果たしました。
コリーは、この説明のつかない出来事には、神の介入があると考えていました。

妹のベッツィーは収容所内で病死しました。
それから間もなく、コリーは収容所から釈放されました。

戦後、コリーは世界各地を回り公演活動を行いました。
ある日の事、公演を終えたコリーのもとに感動した沢山の人たちが握手を求めてきました。
その中にコリーたち囚人を虐待していた元看守がいたのをコリーは見つけました。
元看守は自分が虐待していた囚人だったとは気づいていないようでした。
自分の妹や仲間を殺したも同然のような元看守…
しかし、コリーは元看守を赦しその場で抱きしめました!
コリーも本当に赦すと言うことはどのようなことかをこの時、初めて知ったそうです。

1959年、コリーは再び慰霊のためラーベンスブリュック収容所を訪れました。
その時、衝撃の事実が判明しました。
コリーが収容所から釈放されたのは事務手続き上のミスだったことが判明しました。
コリーが釈放された一週間後、コリーと同年代の囚人たちは全員、ガス室に送られていたのでした。