目覚まし時計で起こされ、階下へ。
母は介護用ベッドに、父はその横で座敷に布団で寝ている。母は夜中にひとりでトイレに行くことが出来ないので、父が添い寝をしている。
二階の自室まで物音が聞こえないが、夜中にトイレに行くと、たまに階下で煌々と明かりがついていることがあった。
母は着替えをひとりでは出来ない。父もしくは自分がゆっくり、時間をかけて手伝う。パジャマを脱いで、ズボンを履く。ズボンが一苦労だ、脱ぐのに時間がかかり、履くのにも大変。体温が高いらしく、寒くなってもシャツと上着だけ、お気に入りの赤のフリースを羽織る。トイレか洗面所に顔を洗いにくかしているうちに、ようやく朝ごはんの準備に取り掛かる。いつまで経っても洗面所から離れないので覗いてみたら、ずっと洗面台をごしごしごしごし磨いていたので声をかけてダイニングの定位置に座らせたりした。
食は細い。いつも少なめにご飯を盛るのだが、大体において残すので、自分の昼ご飯になる。認知症とまでは行かないと思うが、日にちとか曜日を間違える。毎日リハビリに行く水曜日だと勘違いしている。数独を好んでやっていたがしなくなり、お薬に日付を書いたりして過ごす。父は午前中仕事に行っているので、自分が自室からパソコンとスマホを持ち出して母がトイレに行ったりするのを手伝うようにしていたが、それでも2,3度大変なことがあったのだが、その話はまた次回。

リハビリに行く日は母がケアスタッフに引き摺られるようにして出かけるので、自分もいそいそ外出の予定を組む。
そのうちずっと母を見張っていなくても大丈夫ではないかと油断して母を残して外出するようになったのだが、それがいけなかった。

(続く)
 

大変だったのは

 

1.トイレに行くとき
定位置の可動式椅子から歩行器に移動してトイレまで、というのが、上手くいくときはすんなり移動できるのだが、十中八九上手く行かない。
時には父が
「おいっちに、おいっちに」
と掛け声出して両手を引っ張っていく。
自分が担当のときは甘えてしまうのか、上手く行かないことが多い、時には可動式椅子をずるずる引っ張って、という時も。
トイレに入ってからがまた一苦労、介護用パンツを履き替えたりする。局部が丸見えだが懸命にやっているので気にしない、気にならない。

2.お風呂
これもまた大変である。
週二回通っているリハビリで付き添われながらお風呂出来るので有り難い、母もさっぱりして帰って来ることがあった。
問題は週に一度自宅のお風呂を使うとき。
母は恥ずかしいらしく、息子には裸を見せたがらない。脱衣所から先は父が付き添う。浴槽の掃除は自分の役目、お湯を貯めるのも。
母の全裸を見てしまう、父と母が騒ぎながら着替えているときに。がりがりに痩せて骨格見本のような後ろ姿を見てしまいいたたまれなくなる。

時間をかけたといえば、服の着替え。
毎日の起床、寝る前も、大変だった。

(続く)


 

父、私、妹、揃って病院へ向かう。
父は一階で精算の手続き。私と妹は7階の母の病室へ迎えに。
母はすでに着替えており、病室のお隣さんとお話中。くつろいでいる様子にひとまず安心。
忘れ物がないか引き出しなどを確認し、バッグを持つ。母は一階までは車椅子、妹と看護婦が見守る。なるべくひとりで、と言明されているので杖をついてゆっくり車まで。乗り込むのはひとりでは難しい、両方で支える。
自分のパソコン前に使っていた椅子が高さ、可動などの面で母に適しているというのでえっちらおっちら二階から降ろしてある。以降、ほとんどその椅子から動かなくなった。

我が家は長く認知症だったお祖母様や足の悪かった母の兄の面倒を見てきた。いずれも要介護ホームだったり老人ホームへ入居して毎日、もしくは週一で面会に、という形だった。なので家で介護する、というのははじめてであり、玄関から廊下から介護用ベッドまでの写真を撮り、病院に確認してもらいこれなら、ということで自宅での介護が許可になった。あとは

1.週一の看護婦との体操、気分が良ければ玄関を出て公道まで歩くことも
2.ケアマネージャーと月間予定を組む、日々の記録をお話する
3.リハビリの出来る病院附属施設に週二で通う

というのが母の日課になった。

(続く)
 

母の入院している病院に面会に行く。
父は高齢者運転技能検査でも満点近い点数を取り、いまだに愛車のワーゲンゴルフを運転する。下手になったと言っているが、相変わらず運転は上手い。
国道を北方向へ走ったところにある病院は母の病名であるパーキンソン病の看護に特化するらしい。ベッドで寝転んでいたりリハビリ中だったり何か絵文字を書いたりしている。
ベッドに寝転んだままだったり起き上がって着座で、または休憩室でお話する。カレーを作りたいんだけどというと、
「材料をトントントン、鍋に入れて・・・」
と完璧に作り方をありありと話し出す母。少し認知症が、と看護婦が言っていたが、どこが、と言い返したくなるほど病室でも主婦。
退院の話はずるずる延び延びになり、時折父と外食をする。ホテルのレストラン、チェーン店のとんかつ屋、ファミレス、etc。時には自分で調理をする。父も厨房に入る。
月は変わり、ようやく退院の日が決まる。父が午前中仕事を続けているため、病院から精算は午前中に、と決まり文句のように言い張るので日が合わない。仕舞には父が折れて
「退院の日は仕事を休み」

ということになり、父、私、妹にも手伝ってもらうことに。
10月の4週目の月曜日と記憶している。

(続く)
 

心の整理がつくまで、ずいぶん長い時間がかかった。
どこかに残しておこう、と思いつつ、半年以上過ぎてしまった。

話は昨年9月1日に遡る。
標高千メートルのとある温泉旅館から、帰省したばかりだった。
週末になると時々帰省してくる妹とその長男が来ていた。
中古で買ったボルボV60に積んだ荷物を運ぶのに、スポーツマンの長男孫がやってくれるのでとても助かる。
温泉旅館で指定難病のからだを駆使して無理をしたものだから、ぼろぼろになっていたのだ。
面接の際障害があります、と話していたのに、やっぱり旅館側は分かってくれていなかった。
やれ耳が悪いだの、もっときびきび動けだの、他の人が手が空いているのに自分に作業を押し付けてはっと周囲を見ると誰もいない、なんてことが日常茶飯事。
まるで後ろに目があるのではと見まごうほどに女将はぶつぶつ五月蝿く小言を言う、調子に乗って社長も若旦那も声を合わせる、ボルボはタイヤがパンクするし大型台風は来る、疲れているのに不眠で夏の間よくやっていたものだと思う。
ボルボは自分には大きすぎて合わなかった。一度車庫入れに失敗して後部を隣の車に接触してしまい、保険に入る前だったものだから多額の賠償金を払った。さっさと売り払って、高速飛ばして自宅前に乗り付けた。

次の誕生日には90歳になる父が居る。母は入院中。
学生時代にひとりで自炊生活を送っていたこともあり、父はひとりでも暮らしていける。妹たちが遠方から父を心配して来るまでのことはないのだが、パーキンソン病を患う母の見舞いも兼ねてやって来る。しかし狭い4人部屋の病室でスマホでぱちぱち記念撮影など平気でしたりしているのはいかがなものかと思う。
母の入院を父からの手紙で知って、気がかりで時間があるときに帰省したいと思いつつ、温泉旅館のお仕事は忙しく、前述の通り車でトラブったりしていて、よし母の介護に専念しようと帰宅したのはいいのだけれど。

(続く)