新ティマイオス8 | 2020年COVID-19爆発

新ティマイオス8

ることが大切だ。そうでなかったばっかりに家に帰ったとき奥さんからバケツの水を掛けられた人が昔いたらしい。

ヒロ:まさかそんなこと我々には起きないでしょう。古代ならともかく現代は生命の発生は科学の大問題として広く研究されています。確かに生命の起源についての理解は現代でもあなた方古代ギリシャとたいして変わらない状況にあるとは言うものの、宇宙で発生したという説と海底の熱水噴出孔で発生したという説が対峙しているのです。それについて考えることが…」

その時、いきなり建物が揺れ始めた。水差しの蓋が外れ机から落ちそうになっている。水差しも落ちそうである。それよりも何より建物がきしみ出したのだ。どこからか女の甲高い声が聞こえる。まさか奥さんが来たのか。ソクラテスはもう逃げだしている。光宏がもたもたしていると女がドアを激しく叩きながら叫んでいる。ドアが叩き破られた。その衝撃で光宏は目を覚ました。「早く起きて、マケドニア兵が攻めてきたの。この地下室が見つかるかどうか分らないけど、必要な資料は早く調べないと。」巫女アルテミスがドアの外で言っている。寝室の外に出るとソクラテスも出てきた。どこから光が入ってくるのか通路は明るくなっている。

「とにかく昨日の本を見てみよう。この明るさなら大丈夫そうだ。」

二人は正十二面体の部屋に光が当たって神々しいまでに輝いているのを見た。

「おお、明るいね。これはいい。」

確かに斜め上から入ってくる光は地下とは思えないほど明るい。

「あの面に光を集める螺旋がしつらえてあるのです。」ふと見ると巫女のアルテミスの白い服に光が映えて美しい。ソクラテスは早速本を調べ始めた。光宏は部屋の構造を見ようとして階段を上って行った。階段は十二個の面を回って上に続いている。一番上の面は空いていて階段は上にでて行っている。いつの間にかアルテミスが、やってきた。

「こちらへおいでなさい。」階段を更に上がっていくと、バルコニーから見下ろすように回りながら明るい壁暗い壁が交互に連なっている。きなり見晴らしのいいところに出た。神殿の上である。どうやらレリーフの人物の中らしい。目のところから下を見ると、マケドニア兵らしい姿が見える。どうやら神殿は完全に包囲されているようである。

「この神殿はどうなるのでしょう。破壊されてしまうのですか。」アルテミスが心配そうに聞いてくる。

「大丈夫です、この神殿は破壊されることはありません。二千年後でも立派に残っているのですから。でも残念なことにここにある大量の図書は失われてしまいます。

「そうですか、安心しました。私たちの努力は報われるのですね。」アルテミスの表情には巫女としての役割を果たせるという気持ちが溢れて輝いていた。

「図書の方は失われてしまうのですよ。」光宏は意外な気がした。この神殿もそうだが、むしろここにある著作の方が後世には遥かに役に立つのではないかと思えたのだ。

「分っています。勿論どちらも残って後世に伝えられるのがよいのですが。でも、この神殿は神の館としてずっと残ってほしいのです。たとえ私たちギリシャ人がマケドニアに支配されることになろうとも、私たちの神は私たちを守って下さるでしょう。でもこの図書は多くのギリシャの賢人達が表したものです。たとえ破壊されても、アカデメイアの伝統を受け継いだ方々によって再現されることでしょう。」アルテミスのまなざしは希望に溢れていた。しかしこのとき同時に光宏はこのまなざしが曇ることを予感していた。このギリシャ文明は確かに残るのであるが、図書がなくなったおかげでギリシャ文化は、特にその最も先鋭的な部分でついえてしまうのである。彼の知識では、失われたギリシャ文化を求めて多くの人々が模索するのである。その最も有名な端緒はシュリーマンのトロイアの発掘であった。これによってそれまでは単なる神話と思われていた文明が存在したことを示す証拠が得られたのだが、図書類が殆ど失われていたために、文化については遂に再現されることがなかったのだ。プラトンであれアリストテレスであれ現代社会に影響を与える人物とは目されていない。ソクラテスにいたっては単なる酔狂なじいさん以外の何物でもない始末なのだ。彼らがいてもいいが、いなくても現代社会は影響を受けないで進歩してゆくというのが常識になっているのだ。果たして本当にそうなのだろうか。

「一度失われれば、この図書は再現されないかもしれませんよ。」光宏はぽつりと言った。

「私たちはどうすればいいのでしょう。あのマケドニアが攻めてこなければ、私たちは神にさえ仕えていればよかったのに。ああ、戦争がうらめしい。」その時の憂いを見せるアルテミスの表情は神々しいほどであった。

「いいですか、ここの書庫については出来るだけ秘密にしておきましょう。もしこれらの図書が失われないで済むならそれに越したことはありませんから。しかし、どうしてもだめなら命を賭けるほどではありません。あなた方はこの地を守って下さい。この神殿が破壊されようとしたら必死に守って下さい。それは上手く行く筈です。」

「分りました。あなた方はこのギリシャの文化を守って下さるのですね。私たちはこの神殿を守ります。でもあなたはギリシャの方ではないのでしょう。どうして、そこまでして私たちの文化を守って下さるのですか。」

「私の時代においては、世界はものすごく広がっているのです。あなた方はこの後何度か再評価されます。それでも、最後に分らないのは人間がどのようにして生まれたかです。私たちはそれについてとても多くのことを考えましたがまだ決定的なものがないのです。」

「神々が生んだのではないのですか。それは大した問題なのでしょうか。私たちは親から生まれた。すると最初の親がいるわけでしょう?その親は神々が生んだということで何の問題もないように思っていました。それがこの後何千年も問題になるのですか。」その時のアルテミスの純粋な表情に光宏は感動した。確かにその通りだ。その神々はどうして生まれたかとか考えずに素直に人間を認め、その後どう生きるかを考える方がはるかに自然なような気がする。

「アルテミス…。」

「何も知らないのに、勝手なことを言ってごめんなさい。」

「いやそうではない。私たちはこのギリシャ文化から隔たって、全く、別のことを考えているのです。それは、全てを根源に戻して考えると言うやり方で、それによって我々の文化文明は大きく進歩したのです。おそらく、たった一つ、生命の根源は何かという問い以外全てにギリシャを凌駕してしまったのです。それにしても敵はどんどん増えてきていますね。」遠く海岸の方からこちらを目指して兵士が増えてきている。

「そうですね完全に囲まれてしまいました。この丘は市内を見渡す絶好の場所なのです。」

その時明るい面が急に変った。太陽の高度に応じて最も光を集める面が切り替わるらしい。

「降りてみましょう。そろそろ、ソクラテスが何かを見つけたか、聞いてみましょう。」

「もしこの図書が失われるべきものだったら、持ち帰っては如何ですか。ここの図書の中に他にはない一冊があるなら、それを守ってはどうでしょう。」

しかし光宏はそれは出来ないと分っていた。この空間は現実空間ではない。仮想亜空間である。確かに巫女アルテミスを見て感情は動くが持ち帰ることは出来ない。図書についても同じである。図書を読んで感情を動かすことはできるが持ち帰ることはできないのだ。

「ありがとう。あなたにそう言って貰って嬉しい。しかしとにかく戻ってみましょう。」

二人は階段を下りて行った。登るのに比べて降りるのは難しかった。時々、アルテミスを支えながら降りて行く二人は正十二面体の各面にステンドグラスのようなレリーフを見て行った。このギリシャ神話を題材にした絵をアルテミスは説明してくれた。「あれはダーフニスとクローエ。もう花になりかかっているわ。あのとても美しい花に。」光宏は今まで聞いたことはあるものの余り興味のなかったギリシャ神話が急に手に取るように分ってきた。この中には人の感情の多くの物がちりばめられているのだ。それが分ったのはある一つの窓でであった。その絵に込められた感情がアルテミスの説明でいきなり分ったのだ。確かにこの神殿の巫女をしているだけあって、説明は明快で理知的であったが、それだけではなく余韻のようなものが感じられた。ようやく階段下までたどり着いたとき、ソクラテスが丁度上を見上げていた。

「ありましたか。」

「いや見つからない。どうやらこの書庫にはないようだ。」ソクラテスが気落ちしたように言う。

「そうですか。ここまで来ながら残念です。でも仕方ありません。戻りましょう。」

その時アルテミスは光が降り注ぐ上を見ながら言った。

「あなた方にはお分かりにならないかもしれませんが、もしティマイオス続編があるとしても、それは公然と読めるものではないのですよ。多分正十二面体について書くことになるのですが、それは神々のカンバスであるということなのです。神々のカンバスに描かれるべきものは物質にしてしまうと一つしかありません。」

「知っていますよ、それは天体でしょう。確か昔の天文学は正多面体を頼りに惑星の軌道を決めたと聞いたことがあります。」

「違うのです。その一つとは、ああ恐ろしいことです。私にはそれを認めることも、否定することもできないものです。でもあなた方は未来からいらした。そして、ティマイオス続編を探しておられる。ということは確かにこのままでは続編は完全に歴史から消えてしまうに違いありません。」

そう言うとアルテミスはすっくと立ち上がった。白いドレス姿の彼女は何かを守るために心を決めたときの、あの透き通った雰囲気を表していた。その時階段から兵士が入ってきた。彼らは本には目もくれず食料庫、武器庫を漁り始めた。「仕方がありません。この梃子を思いっきり引っ張って下さい。」アルテミスの言葉に従って、ソクラテスと光宏は二人掛かりで思いっきり引っ張った。床面の正五角形が開き、何冊かの本が現れた。

「これは禁断の書です。ギリシャの到達した異端の学が書いてあります。これがあなた方の探しているティマイオス続編です。くれぐれも扱いには気を付けて下さい。この部屋は崩れますよ。」見ると上の方の面がゆがんだかと思うと大音響とともに崩れてきた。ついで周りから壁が崩れてきている。壁面のギリシャ神話を描いたステンドグラスが目の前に落ちてきて二人は思わず後ずさりした。ぽっかりと空いた穴からは神殿の柱が見える。

「さあ上がりましょう。あの柱の中に入ればいいのですよね。あなた方はそこからいらした。」アルテミスは崩れた正十二面体の横に空いた通路に入って行った。通路は螺旋となって上に続いている。上からさす光はときに明るくときに暗くなって道を照らしている。

「確かにこれは続編だ。素晴らしい。あのプラトンのティマイオスの続きがここまで出来ていたとは。私の書いた新ティマイオスが恥ずかしくなるような内容だ。」歩きながら読んでいたソクラテスは明らかに興奮していた。

「全部読んだのですか。」

「いや、古い言葉なので、現代ギリシャ語と違ってよく分らないところもある。この本を持って帰れれば良いのだが歴史を変えることになる。」ソクラテスは困ったような顔をしてアルテミスの方を見た。

「私も、先ほど話を聞いて、どうせ失われるなら…と思ったのですが。」

「確かに、持ち帰りたいようだがそれは出来ないでしょう。となればここでもう暫くこの本を詳しく調べてみてはどうでしょう。」光宏は時空を越えることでこの本が失われることが確かでないならばいちかばちか持ち帰ってみればよいのかなと思いながらも危険を冒す度胸は今ひとつないのだった。「この本を守って下さい。私に出来ることなら何でもしますわ。」アルテミスはもう書物をソクラテスに託したいような様子だった。神殿は残り、書物は失われるという予言を聞いてから彼女は何としてもこの書物を後世に残したいと言う気持ちが強くなってきたのだった。

「それにしてもアルテミス、この正十二面体はすばらしいステンドグラス構造でしたね。外からの明かりが絶妙に差し込んでくる。ここで本を読んでいると思わずいつまでも読んでいたいと思えてくるほどです。」ソクラテスは意外とのんきなことを言っている。

「ソクラテス、たぶん急がないといけないでしょう。今、階段の上の覗き窓から見たのですが兵たちがもう神殿に入りかかっています。それで、ティマイオス続編にはどんなことが書いてあったのですか。実は私は昨晩夢を見たのです。」光宏は夢のことを話した。

「素晴らしい。貴方もそう考えていたのですか。ティマイオスの第五の元素に生命をあてはめるとは。多分同じことを言おうとしているのでしょう。まだ、全てを読んだわけではないのですが、この本の中では神々に対する十分な考察と、おそらく神々を否定したり出来ないので様々な工夫を考えて何とか天球世界に閉じ込めようとしています。正十二面体は神々の絵を描くキャンバスであるというアイデアを大事にしたのでしょう。そして生命が元素だとするとどういうことが起きるのか慎重に考えているようです。顕微鏡がなく岩石にしか見つからないこの構造のために立方体の中から正十二面体を生み出すのに苦労しているようです。」

「私達神に仕えるものの間ではこの本は決して読んではいけない物として伝わってきました。この本が開かれるときギリシャは基礎を失って崩壊すると言われてきました。今マケドニアの兵が来たのはまさにその証でしょう。噂は聞いています。ギリシャ最高の知性を教師として学問をおさめた王が武器の力で全土を支配してゆくのです。

「うかうかとはしてられないようですね。ソクラテス、この書物を現代に持ち帰ることができるかどうか分りません。とにかく読める所まで読んではどうでしょうか。私はその間、ここからの脱出の方法を考えます。」

「その通りだ。とにかく読んでみましょう。」