私の父は、と聞かれて一番人に知られたくなかったのは、刺青しょってること。前科もあること。
背中から腕、胸や足にもちょこっと刺青してたから、プール連れて行ってもらっても海に連れて行ってもらっても、父は長袖の上着をいつも羽織っていた。
酒も好き、タバコも好き、パチンコも好きだった。
今だと叩かれるけど、私の小さい頃は、親に連れて来られた子どもたちが、パチンコ屋で友達になって遊んでたものである。
しょっちゅう連れて行かれた。
景品に好きなもの選ばせてくれた。
父は、母より6歳年下である。
普通、年上女房なんだからもっとしっかりしてても良さそうなものだが、うちの母は、とんでもない大バカで、そんな母と一緒になった父もはっきり言って大バカだと思う。
私たち一家の故郷は、北の大地である。
父も母もそこで産まれて育って出会った。
母の話によると、私が産まれるまで8年の歳月、入籍せず事実婚状態だったらしい。その間、女遊びも相当されて、矢口真里の不倫騒動のような、ベッドにいる状態の父と浮気相手のところに乗り込んだこともあったらしい。
いま考えると、多感な時期の娘によくこんな話してやがったな……。
父は、幼少期から不良少年だったと言っていた。小学校からタバコ吸ってた、と言う。
中学は卒業できないくらいの状態だったのを、厄介払いしたかった学校側が追い出すように卒業させたらしい。
父は上に兄が二人と弟がいて、男兄弟でケンカばっかりしてたんだとか。
中学卒業後は、女手ひとつで育ててくれた母親に迷惑をかけられないと、現場仕事の日雇い労働者のような仕事を各地でしていた。あちこち旅して回った、と言っていた。
私が知る限り、父は出不精で、一緒に遠くまで出かけた記憶はほとんどないが、若い頃は稼ぐために必死だったんだろう。
北の大地、冬場は仕事がないらしいから、全国あちこち行くしかなかったようだ。
まあ、そんな中でいわゆる893屋さんのようなチンピラやってたこともあるそうで、刺青はそのときのもの。
一方で、父は絵を描くのが好きだった。
独学だけど、襖などに大きな絵を描くのを好んだ。モチーフは大体龍とか観音様とか獅子とか。
絵を学んだわけではないから、画材は普通のサインペン。
私が絵を描くのが好きなのは、多分父の影響。
小さい頃、私と母は北の大地で暮らし、父は本州へ出稼ぎに行き、ほとんど帰ってこない、という暮らし方をしていた。
私が6歳の頃、父が単身赴任していた関東に移り住んできて、やっと毎日家族が揃って生活できるようになった。
ここまで読んだ方は、もしかしたら引いているかもしれない。変な親かも。
ただ、父は、私に対して惜しみない愛情を注いでくれた。
お金はなかったし、常識も言葉も違う知らない土地で、肩身の狭い思いはしたけれど、父は私を愛してくれたし、いつでも信じていてくれた。
母がどれほどぶっ飛んだ大馬鹿者かは後に書くとして、そんな母と別れずに我慢してきたのは、私の存在があったから。
痛いほどそれを感じていたし、だからこそ自分さえ産まれて来なければ良かったんじゃないか、と思ってもいたのだが。
小学校高学年くらいになると、もともとかわいげのない私は、ますますかわいげがなく、学校だの勉強だのに大して興味が持てなかった。興味が持てないから、どうでもよかった。
まあ、家のことが原因でからかわれたりいじめっぽいことされたりもあったけど、友達もいたし、勉強が嫌いなわけでもなかったから、本当に純粋に、本気でただ『面倒くさいから』学校をサボることがよくあったのだ。
か、かわいくないね、こんな子ども。
雨が降ったら濡れるのが嫌だし風が吹いても寒いし、親は2人とも仕事で出かけちゃうから、そんな日は誰にも何も断らずに学校を休んで寝ていたのである。
余談ではあるが、私は新生児期から8時間寝続けていたという、生粋の寝坊助です。
寝たいのだ。
そんなときも、父は、
「また休んで寝てただろ」
と言って、笑うだけだった。いや、ちゃんと行けとも言われたんだけど。何しろ自分の学生時代と比べたら娘の私のどれほど優等生なことか、とあまり口うるさくは言わなかった。
勉強しろ、とも言われたことはなかったな。
もっとも、塾だの習い事だのするほど金銭的な余裕もなかったんだけど。
別に普通に学校で勉強したことができていて、それだけでだいぶ満足だったらしい。
受験生のときも、勉強してないで早く寝ろと言われた。
つくづく、変な父親だ。
おかげで、強制されることが苦手な私は、勉強が嫌いにはならずに済んだと思う。
親父に手を上げられたのは、社会人になって付き合いの酒飲みが連日続いたとき、口論になったとき一回あった。
あと、小さい頃、親父に怒られてる母親がかわいそうで、親父に口答えしたとき、母親のとなりに私が座ってる状態で、包丁投げられたことがあったな。
そんときは、私を庇おうと咄嗟に出した母親の手を包丁の刃先が掠めて、流血沙汰になって病院に行って縫合した。
文字で書くとドライだな、これ。
まあ、なんだかんだといろいろあって、私が就職した頃、幾度となく繰り返してきた母親の借金がまた発覚して、ある日突然、母親が出て行った。私たち子どもは置いてきぼり。これも、実は何度かあったこと。
そのときは、家の有り金全部持って姿をくらまされた。
6歳下の妹は、中学生だった。
私は、そのとき、限界だった。
「いい加減、離婚してくれ」
と親父に言った。
親父は、子どものためだなんだかんだと理由をつけながら、今まであんなバカな女に、多少情があったから別れずにいたことに、このとき気付いた。
私の言葉があってもなお、親父は母親の居所を突き止めて、連れ戻そうとしていた。
居所がわからなきゃ離婚できないから、よく探し出したものだと感心していた。
その後、家出した直後の母親が身を寄せていたという母親の知人何人かから、母親がどれほど酷い態度で居座った恩知らずか、と父のもとに連絡があった。
そんなこともあって、父はやっと離婚を決意したのだが。
ちなみに、私と親父は、多分性格というか気性が似ている。離婚後は、近くにいると衝突するようになった。
離婚後、少しして親父の体調が悪くなった。不摂生ばかりして病院嫌いだったから、いつも本当に苦しくなったり痛くならないと病院には行かない。
持病はいくつかあったが、原因不明の心臓部の疾患があるとも言われていた。
その心臓の調子が悪くなった。
結果として、少し休んだらすぐに仕事に戻る、と言いながら、その後、働けなくなった。
母親の残した借金の返済と、これからの生活費をどうするか、が問題になった。
私は、就職したときに、免許を持っていなかったため、試採用期間中に免許を取らなくてはならなくなり、お金がないのでローンを組んだ。
通勤と仕事のために、中古車もローンで買った。
つまり、高卒で就職したばかりの私の稼ぎだけでは到底足りなかったのである。
父は、すぐに仕事を探して返すから、消費者金融で借金をしてくれないかと頼んできた。
とにかく選択の余地がなかった。
しかし、状況はどんどん悪化した。
親父は治療費がもったいないと医者にはかからず、体調はなかなか回復しないし、仕事も見つからない。
高校生になった妹がバイトを始め、自分のお小遣いやらは自分で稼ぐようになっていたのが、せめてもの救いだった。
何年かしても状況は変わらず、借金がかさんで行った。
私が経済的な面を負担していることが、親父は心苦しかったし、情けなかったのだと思う。
私が職場の付き合いで飲みに行くのも、私が自分の物を買うことさえも、イライラして何かにつけて文句を言うようになった。
衝突ばかりするようになった。
親父の気持ちもわかるが、こっちにしてみりゃふざけんな、と怒鳴りたい気持ちで宇宙まで吹っ飛ばせるくらいの勢いだった。
家出した。
家出して友達の家に2、3日泊めてもらい、お金もないし行くあてもないしで、本当に悔しかったけど、一人で暮らす母親のもとに、妹と二人、身を寄せることになった。
すごい屈辱だったし、私にこんな思いをさせる張本人が、質素ながらも生活してるのが腹立たしかった。それでも背に腹は変えられなかった。
妹も、イライラや不安を紛らわすために酒を飲み、グチグチ言いながら怒り出す親父とは二人で暮らしたくないと言う。
母親の住んでた家から高校やバイトに通うには、私が送り迎えするしかないし、妹は母親に私ほどわだかまりを持っていないので、母親と暮らす方が楽だったようだ。
親父には、生活費を渡す時や仕事の帰りに時々会いに行くくらいになった。
相変わらず衝突はしたけど、このくらいの距離のほうが良かったようだ。
私が結婚することになって、今の夫を紹介しに行ったとき、親父は「おまえが選んだ旦那さんにいいも悪いもない」と言ってくれた。
結婚式のときは、ひたすらずっと泣いていた。
この頃には、昔からの持病だった腰のヘルニアが、家に閉じこもってばかりで悪化し、足も悪くなっていた。
私が結婚したことで、世帯主ではなくなったから、親父は生活保護を受けさせてもらうことになった。
私に子どもが生まれると、当然ながらおじいちゃんになった。孫がかわいくてかわいくて、仕方ないといつも言っていた。
やっと、何とか毎月安定したわずかな生活費が入るようになり、ボロボロになっていたそれまでの借家から、小綺麗なアパートに引っ越しすることもできた。
この新居が、親父はすごく嬉しかったようだ。
ただ、この引っ越しの頃、親父は少しおかしくなっていた。
今思えば認知症だったかもしれない。うつ病だったかもしれない。
引っ越して少しした頃、親父はアパートの外で倒れた。
警察から電話がかかってきて、慌てて駆けつけると、親父の様子がおかしい。
話が通じない。会話が成立しない。
一人でずっとうわ言のように繰り返していた。
病院で検査してもらった見解は、アルコールの過剰な摂取に関わらず食生活が偏っていて、意識障害が出たのだと言う。
入院して必要な養分が補われると、だんだん意識がはっきりし、会話ができるようになった。自分の状態も少しずつ思い出し、把握できるようになった。
ちなみに、生活保護のおかげで病院に通えるようになったので、病院に徒歩で行けるように、ということで、かかりつけの病院のすぐ目の前に引っ越しした。
なので、倒れて救急搬送されるときも、当然その病院を選んだのだが、担当の医者がまあ態度の悪いむかつく若僧で、
「はっきり言って、何度もお酒をやめてくださいと言っても、やめていません。体調不良のほとんどはアルコールによるものだと思われるので、やめたほうがいいと言っていますが、聞きません。自分から進んで毒を摂取しているのに、困ったときだけうちをかかりつけだと言われても迷惑です」
と言われた。
いちいちごもっともだが、貴様はそんなに強い人間なのか、こら。
心の中で思っただけです、念のため。
でも、無言で真っ直ぐ睨んでやったら、若僧ひるんだ。
で、親父本人の希望もあって、役所にも相談して、アルコール依存性を治療する専門の病院に3カ月入院することになった。
車で片道1時間はかかる山奥の病院だったから3カ月毎週会いに行くのは結構大変だったけど、
あれほど病院嫌いで、ここ数年は人付き合いも嫌だと言っていた親父が、
同じようにアルコール依存を抜け出したい色々な事情を抱えた人たちに触れ、なんか慕われるようになって、頼りにされるようになって、そのうち一人で暮らすよりここのほうが楽しいと言い出すまでになった。
別れた母親のことも、もしかしたら依存性などの精神的なものがあったのかもしれない、と言い出すくらい落ち着いた。
一人で暮らすのは、寂しかったんだな、やっぱり。
退院したあとも通院して、アルコール依存性の人たちの集まりなんかにも顔を出したりして、快方に向かったかな、と思える頃、
それでもやっぱり寂しくってお酒が復活してしまった。
前よりは全然量も減ったけど、結局抜け出せなかった。
妹は、この頃結婚した。妹の夫はとてもいい子で、うちの親父も嬉しかったみたいだ。
そして、妹の嫁ぎ先と、親父と私夫婦で、食事会をしようと決まった矢先、
親父は突然還らぬ人になった。
頼まれた用事があったから連絡していたのに、日中からずっと連絡がとれなかった。おかしいので鍵を持っていた妹に来てもらってアパートに入ってみたら、倒れて冷たくなっていた。
一人で逝かせて、ごめん。
親不孝者で、ごめん。
何一ついい思いさせてやれないままだった。
せめて、墓だけは。
ずっと故郷に帰りたいと言っていた言葉だけは。
私は、故郷を離れて実に30年目にして、親父の骨を埋葬するために、故郷の墓を訪れることを決意したのだった。