ファイヤフライ(蛍)という美しくもはかないこの急行列車の名前は、未だ黎明期のミュージカル以前にブロードウエイの舞台に咲き誇った大衆オペレッタ1912年のヒット作のタイトルに由来します。
このオペレッタ「ファイヤフライ」を作曲したのはオーストリア・ハンガリー二重帝国の版図中にあったプラハの音楽院でアントン・ドボルジャークと机を共にしたこともあるチャールス・ルドルフ・フリミ。ファイヤフライは当時ブロードウエイでこのモノの右に出るもの無きオペレッタ作曲家であったビクター・ハーバートが担当する予定でしたが、彼の一時的な醜聞のために代役としてフリミにその仕事が割り当てられ、結果としてフリミの後の名声は本来のピアニストとしてよりブロードウエイのオペレッタさらには後のミュージカル作曲家として確固としたものとなってゆく契機となった作品でした。
そのような、出世作としての意味もこの汽車に込めれらたのかはわかりませんが、それから27年も後に、米南西部で初となる流線型急行列車の愛称として復活した蛍。その頃当のフリミはといえば、すでに彼最後の舞台曲をリリースして5年が経ち、ブロードウエイのみならずハリウッドでも彼の作品はすでに大げさで感情過多な時代遅れのものと飽きられ忘れられてしまっておりました。
さて本ファイヤフライ号でありますが、当初はオクラホマ州タルサとミズーリ州カンザス・シティを結ぶ列車として紹介されましたが、やがてオクラホマ・シティからセント・ルイスまでと営業距離を延ばしてゆきました。
機関車の側面ロゴにも読めるとおり、この鉄道の愛称はFrisco(フリスコ)つまりサンフランシスコ、正式にはセントルイス‐サンフランシスコ鉄道と称し、セントルイスを起点にモハビ砂漠のインディアン居留地を横切り太平洋に至る壮大な鉄道網を企図したのですが、2度の破産を経てその計画は叶いませんでした。
大陸横断の夢は断たれましたがそれでも中西部から南西部にかけての所謂大平原を駆けるこの流線型での旅はブロードウエイの夢に満ちたものやったようです。
暖色系のベルベットとイミテーション・ゴールドに彩られた客車から最後尾の食堂車に移動すればそこはふかふかのカーペットに薄緑のテーブルクロス、大平原を見晴らす窓にはベネシアン・ブラインドが奢られた豪華な空間。そして食事は薄緑にアザミの柄で縁取りされた専用の磁器、エッチドグラス、および紋章入銀食器で供され、さらに食後は隣のラウンジのふかぶかとしたソファに凭れ、あるいはカードゲームに興じることも出来ました。
実はこの重量級の客車達こそ件のファイヤフライが劇場をヒットしたその年、1912年に製造されたものに、当時思いつく限りの豪奢と近代化の化粧を施したものでありました。このことこそがこの列車の愛称の本当の由来なのかもしれません。
(つづく)







