コリアン・インポート、キム・ソヌクのピアノの、その圧倒的な攻撃がやや緩んできた。いやむしろ弾薬切れ、スタミナ切れか。言ってみれば無闇に虚勢を張ることで強引に優勢を誇ってきたが、そのやり方には限界があるということ。やっとその朦々と立ち込める煙幕の合間から光が差し始め、我等が京響の音が少しずつ戻ってきた。どんなに鍛錬した指先も抑えられない感情の捌け口にしてしまっては傷みもする。
それはまるでブラームスとは対極にあるブラームスのピアノ協奏曲第2番。最初からそんな、音楽というより指揮者、オーケストラとの三つ巴の争いであった。仕掛けたのはもちろんピアニスト。主にオケに食って掛かるその騒音に、数の上では圧倒的なはずのオケがまず尻込みを見せた。完全に負けていた。目が、うろたえて視線が定まらないオケメンX2の目がすべて弱弱しく泳いでいた。楽譜の指示によって気の弱いオケに主導権が移るたび、へびのようにぎょろっと睨まれひるむ。そこに指揮者の出番等、あろう筈もなかった。ギュンター・ノイホルトは、ただそこにつったって一人内省的に踊るほかなかった。なんせ、出てきてしまった以上、曲の終わりまで引っ込んでしまうわけにもいかない。全4楽章からなるこの争いは、そんな形勢のまま第3楽章アンダンテへと流れていった。しかし、そこでブラームスが密かに設置していた地雷によって、やっとキム某の攻撃に隙が出来た。その思わぬ躓きにひるむキム某。しかしそれが何なのか、若い彼に判る由もなかった。天は、いやブラームスはオケに味方した。いやもっと正確には、音楽に味方をした。とつぜんの乱調の理由もわからないまま、自らのよれよれの演奏に打ちのめされ自爆して形勢が一気に逆転し動揺するキム。全曲が終結してみると結局、勝利は誰の手にもなく、ただ音楽そのものが下した叛乱者を窘める余韻だけが残った。なにもわかってないバカがブラボーと叫ぶとつられたアホの軍勢が万雷の拍手。まるで神風でも吹いたかのような下卑た喜びよう。そんなものに価値等ない。さすがにそれだけはキム某も判ったのか、しおらしくモーツァルトをまるで5才の子供が演るように弾いた。呆然と。一寸同情したら笑えた。
何故こうなったか、その答えは意外と単純。それはあの国には音楽等、存在しないから。あるのは外部への僻みと根拠のない自己主張。そんな世界観を押し付けられる中で育ってマトモにブラームスの悲哀が再現できる筈もない。気の毒やけどこれはどうしようもないし、これからも当分変わらない気がする。コンサートホールに表層的で幼稚なプロパガンダを持ち込むな。少なくともオレはこんなものを聞かされて平常心でいられる余裕もない。だからはっきり言う。オマエの演奏は、最低。なんの才能も感じない。ただ楽譜の音符を叩きつけているだけの原始的な指先、それでいて胸糞が悪くなるような悪意だけは感じる。
後半、見違えるようなノイホルトが導く第3交響曲は、まるで禅に傾倒するチェリビダッケが蘇ったかのような響きも時折感じさせるほど見事なもので、オレは何度も甘く切ない秋の京都の周囲を彩るモザイク画のような(番付にあった片山孝の前書きの影響か(笑))多彩を直接脊髄に受け取った。それはまるで麻薬にトリップする夢見心地ですらあり、弱音で締めくくられる各楽章の味わいなど到底キム某には理解できないであろう不幸をむしろ幸として最終勝利を確信した。
三半規管を模したスロープを下がり外に出ると、夕暮れの北山の雨は止み、正面に望む比叡からは霧が立ち上っていた。視線を元に戻す。人混みに流されて再び地下鉄の駅へとまだ濡れている階段を下った。
11/19(土)
京都市交響楽団第552回定期演奏会@京都コンサートホール
ギュンター・ノイホルト/京響/キム・ソヌク
【曲目】
ブラームス:ピアノ協奏曲第2番変ロ長調op.83
(アンコール)
モーツァルト:ピアノソナタハ長調k.545第2楽章
(休憩)
ブラームス:交響曲第3番へ短調op.90