”男性信者の本音。ー 「解散命令」へ…。なるのか” | asuaritoのブログ

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あすありと思ふ心の・・・



なんだか、、

取材なさるかたの記事は

発言者の言葉が変わっているような気がします。


男性信者のかたの言葉が

むなしさを感じました。

ほんとは、もうやめたい気持ちなのでしょう。


先祖の「怨」など、、

亡くなったかたは「怨」などないと思います。


人それぞれの思いなのでしょう。

しかし、先祖の「怨」などと言うのは、失礼千万。

失礼極まりないと思います。


宗教って、

自分の気持ちの中にあるんだと、わたしは思っています。


おうちに、仏壇が2つもあって

たとえば、先祖さんを分けて供養する?

意味がわかりません。



もう、ずいぶん前に

カルマの法則という書籍があって

すごく話題になりました。

まだ高校生のころだったと記憶しています。


そのころは、ふーん。ほー。と知るだけでしたが

大人になって、仕事して、結婚して、、、

日々を過ごす中、楽しさもあり、悲しみもあり

それでも懸命に過ごしていたのだと感じます。


大切な友人、そして家族をなくしてしまうと

しばらく呆然としてしまいます。


それでも、いつか何か、言葉では表現できない「きっかけ」「スイッチ」「気づき」

何か感じる「時」があるのだと思います。


よく聞かれることがありました。

何かの宗教にはいっているの?


全く興味ありません。

実家「生家」と嫁ぎ先は、同じ宗派のお寺なので

〇〇回忌という法要はします。


でも、仏壇の前に座ってばかりはいられない。

当たり前のことです。


自分の気持ちの中で思っている。ということに気づいたら、スイッチが入るのです。


めぐってきた悲しみは、乗り越えるしかないです。

まだ、乗り越えたとは思いませんが、、


悲しみのなかにあるとき

宗教の勧誘に二人いらっしゃいました。


子どものころ、祖母がいない時間に近所のおばちゃんがいらして

とても悲しい思いをした記憶がハッキリあります。


二人の勧誘に、このことを話し

子どものころに悲しい思いをした記憶がハッキリとある宗教には、決して入りません。


人は、弱っていても、決めたこと、自分の考えを持っていることで断れると思います。


所持金をださないと不幸になる。って、強盗犯も言わないでしょ。


そこに多くのかたが集まっていらっしゃる現実に驚いています。


科学や医療が、どんなに発達しても

分からない領域はあるわけで、、


難病の診断を受けた友人は、2年後に難病ではなくなったのです。


誤診?

検査の結果やデーターは、ちゃんと見せてもらった。

2年後、正常になっていた。


頑張って勉強して、お医者さんになったかた、特に真面目なかたは、一途なかたが多いですから

自分の学びと現実を受け入れきれない。


ここで、学問ではなくて、視野を広げる学びを経験できると違うのだと思います。


「優秀」といわれるかたが、宗教に興味を持つ瞬間とも言われています。


言われたとおりに動くのは、宗教ではないと思います。


学びは、自ら行うものだと思います。

どうしても分からない、思い出せずにいることを

教えてもらうのが学びなのだと思います。


教えていただいたことは、忘れないです。

自ら学んだことも、覚えています。


ただ、この国の歴史は、事実を学びようがありませんでした。


現在、たくさんの研究者がたの著書で修正されていますが

教育現場では、何も変わりません。


裁判でも、認められた

山崎雅弘さん、著書が出るのは

裁判の方が先か、明治の動きが先なのかは

まだわかりません。


団体のことも小出裕章さんのおっしゃる

歴史という大河の一滴

なのだと思います。