うらら☆プリンセス 安西美穂子のオフィシャルブログ -2ページ目

 キムタク・・ちょっとひっぱりすぎか・・(万俵鉄平)は結局、ジイサンの子ではなく、正真正銘、父、北王路欣也(万俵大介)の子だったことを死んで証明したわけだが、死んでから父に気づきをたらしても、なんだというのだ!可哀相すぎる。

 当時(昭和40年代)は両親の血液型と本人の血液型が唯一のその手がかりであり、今はDNA判定だ。DNAとは物質の名前で、そこに書き込まれた情報が遺伝子である。

 アンジェリーナジョリーは、自分の遺伝子検査をして、乳房切除手術を決断し、その上卵巣まで・・・すんなりはいってくるニュースではなかったが、昨夜のNHKの遺伝子の番組内容には驚かされっぱなしだった。さすがNHK・・。アメリカで約一万円ほどで簡単に受けられるという遺伝子検査で自分がかかりやすい病気を知るというのは、ある意味現実的すぎる活用法。かたや中国の遺伝子検査では、それが教育の場に用いられていて、子どもの才能の領域を知ることができるという。スポーツ選手の子だからスポーツに向いているとは限らない、絵の才能に秀でていたりする。未来の自分を夢みることができる。口から唾液を採取してそれを知ることができてしまうのだ。自分の場合、幼少期どんな遺伝子検査の結果がでていたか、なんとなくわかるような気がするけれど、どんな人でも、人より得意なことがあり、どうせ血のにじむような努力をするのなら、苦手なことでなく、もともと才能があるところで努力し勝負するべきだと思う。

学生時代、科学生物の点数は悪くなく、何度か獣医になりたいと真剣に思った私は、果たして本当にその才があったのかなかったのか。

今は自分のそれを知ることよりは、最近になってやっと片鱗をのぞかせ始めた息子の才能(みたいなもの)にものすごく興味がある。なにしろ私の遺伝子を引き継いでいるのだから・・・

 私は両親からその遺伝子は引き継いでいたが、常に家族は仲良くはなかった。家族の仲がいいこと、愛し合えることと、遺伝子を誰から受け継いでいるか・・・とは全く関係ないと断言できる。 キムタク(万俵鉄平)と実父(大介)の悲劇が、それを強く物語っている。


キムタク(鉄平)は、北王路欣也(万俵大介)に愛されず、戦いに負け、猟銃自殺しちゃったのに、2度も母(同じ人)に捨てられてキムタク(鉄平)と同等の苦しみを経験した私がどうして猟銃自殺しなかったか。

一度目はそれはまだ私が本当に若くて可愛い真っ盛りの頃で、飛ぶ鳥を落とす勢いのアメリカの会社に転職し、大モテで4畳半一間の目白の一人暮らしは、母に捨てられた苦しみはさておき、それはそれで前向きになれることが多かったからだ。でも、結局2年半付き合って結婚した相手と本当に別れる(会わなくなる)のに4年かかった。二度と恋はしないと思ったほどひどい思いをし、その末にやっと会わなくなった・・・急に自分にはコピーライターの仕事が向いていると思い立ち、夜学に通ったのは24歳のころ。そして二度目、母に捨てられて猟銃自殺しなかったのは、そのときはもう新たな心の中心、馬と出会っていたから、そして息子を産んでいたからだ。

私が神様から授かったのは熱望した男の子で、お腹の中にいるとき、超音波の3ヶ月の写真を見たときから、いとおしい・・・という思いで胸がいっぱいになり、星と♡が空からいっぱい降ってくる感覚(快感)があって、(マリア様だ!)それ以来「子どもはいらなかった」と思ったことは1度もない。いるのがあたりまえ・・・だって、私が産んだのだから・・・という。


唐突だが、安藤美姫さん、すごくあなたは強く素敵な選択をしたのだと思う。


私は息子を母が私に課したことと正反対に育てた(つもり)まだちょっと途中だ。

毎朝学校へ送り出す前、熱烈にムギュとチュをしていたら、小学校4年生のとき自然に拒まれた。実に正常だ。私の心の中心が馬への愛だなどというと、誤解が生じたら困るから書いておくが、それは私の一生の仕事という意味での心の中心なのであって、息子は、マザコンにはならない程度に、支配はしない程度に、いま私が猟銃自殺しないですむ、「おうちへ帰ろう」と思える、唯一の私の家族としての存在に他ならない。



「おうちへ帰ろうクラブ」は、自然にできちゃった・・・と以前書いたが、

自然にできる・・・わけがない。私にとってキムタク(万俵鉄平)の製鉄会社と同じくらい、思い入れがあるものだ。人生そのものだ。


私はキムタク(万俵鉄平)のようにジイサンの子だと疑われて父から愛されなかったわけではないが、、母に抱きしめられた記憶がなく、母の背中を見て育ったようなもの。母はアナウンサーをしていて、自分の姉妹の誰より自分が美しい、偉い、と信じて疑わず、母は私を聖心女子学院に編入させた(頼んでいないし、私によかれと思ったに違いないが、私にとっては自分から落合第4小学校の友達(堀米ゆず子さんを含む)を取り上げられただけだった。人10倍くらい向上心、ゆえに見栄の強かった母が聖心に入学したようなものだと思っている・・。、母はこれまでたった1度も私の心と向き合ってくれなかった・・・と私は思っている。私は一度めの離婚で、自分が決めた離婚だったにもかかわらずひどく傷つき、(それでも仕事はやめなかった)、家から仕事に通うことを許されず、離婚そのものより、私は自分のおうちへ帰れなかったことで、それこそ猟銃自殺したいほど傷ついた・・・ことをおそらく母は知らない。なぜなら母は一度ならず2度も私を捨てた・・。捨てるに等しい行動をとった。鉄平の心の中心が父だったように、何をしていても私の中心には母がいた。キムタク(鉄平)のセリフではないが、私は長い間母に誉められたい一心で仕事に没頭したのかもしれない・・・それこそ「フツウの家族でいたかった」「微笑みかけてほしかった・・・」

 馬(競走馬)と出会ったのは30歳を過ぎてから。

馬と通い合うこと・・それは私にとって胸が打ち震えるほど奇跡的で感動的なことで、母とのことで抉られた心の痛みを忘ることができた。あまりに感動的だったからこそ、そのことだけで20冊も本が書けたのだ。

いつしか馬が私の心の中心になった。馬にも帰るおうちがない・!!・・

大多数の馬は人との出会いと別れを繰り返し・・・天寿全うできる馬は本当にわずかだ。だから「おうちへ帰ろうクラブ」なのだ。だから命がけなのだ。いちばん思い出さなくてはいけないことを、やっと思い出した。(角田獣医のおかげ・・・だとしたら、やっぱり私は馬である)

おうちへ帰ろうクラブは、津波にあったかのごとく手が付けられないほどボロボロの状態だが、私はある人の力を借りて、立て直さなければならない、どうしてもその人でなくてはいけない理由がある。そこへ誘導している人の大きな問題でもある・・・おそらく。

おうちへ帰ろうクラブを馬にとって永遠のものにしなくてはならない。

私はもう二度と、自分の心の中心(馬への愛)を見失うわけにはいかない。