長くなると、読んでくださる方がお疲れになるかも

しれないので、少し、短く切ってお話しようと思い

ます。

 

 

天理教の「かしもの、かりもの」という教えでは、

私たちの肉体は、神様から「一時的に貸して頂いて

いるもの」であり、人間側からすると、「一時的に

借りているもの」ということです。

 

実際、私たちは死にます。

 

肉体を自然界に返す日が来ます。

 

ですから、肉体を、永遠に私たちのものとすること

は現実的に無理な話でして、母親の胎内に宿った

ときに、神様から肉体を借りて、死ぬときに肉体を

返すという話は、わりと実感できるのではないでし

ょうか。

 

この「かしもの、かりもの」というのは、実は天理

教の教え以前から、日本人の中にありました。

 

ですから、本当のことを言えば、「かしもの、かり

もの」という教えは、天理教のオリジナルではあり

ません。

 

昔の日本人の肉体観が、まさに「かしもの、かりも

の」でした。

 

さて、

 

肉体を貸し出す側の神様が、肉体の本当の所有者

(オーナー)です。

 

私たち人間は、一時的に借りているだけです。

 

通常、私たちは、この肉体を自分のものと考えて

いますが、やはり、死ぬときに手放さなければなら

ないという意味で、やっぱり、私たちのものでは

ありません。

 

神様と私たちは、天理教他の神道では、「親子」と

教えられています。

 

イエスは、神様を「お父さん」と呼び、ラーマクリ

シュナは「お母さん」と呼びました。

 

神道では、人間を分霊(わけみたま)とも言います。

 

電話の「親機」と「子機」の関係のようなものです。

 

神様と人間の関係は、

 

親と子、

 

親機と子機、

 

主人と使用人、

 

神と信者、

 

師匠と弟子、

 

といった表現であらわされてきました。

 

キリスト教では、

 

神=創造主(作る側)

 

人間=被造物(作られる側)

 

と言います。

 

 

まず、ここでは、

 

主と従

 

の関係があることを理解頂きたいと思います。

 

 

ところが、インドには、アドヴァイタ哲学という

ものがあります。シャンカラという人が大成した

教えですが、アドヴァイタにおいては、神と人間

の関係は、親子(主従)ではなく、「私は、それ

(神)だ」と言います。

 

 

主従関係と、「私はそれだ」、どっちが正しいの

でしょうか?

 

結論を言いますが、実は、どちらも正しいのです。

 

その理由を次回、説明したいと思います。

 

 

(つづく)