今日、いつものお店に行って、珈琲を飲んでいました。

 

すると、50代中頃くらいの女性が来られて、その店の

こだわりの強いマスターに対して、「あそこに、新しく

コーヒー屋ができて、美味しかったですよ。お客さんが

いっぱいでした」と、誰も聞いてもないのにペラペラと

大きい声で話し始めました。

 

私は、内心、「うるさいのが来たな」と思いましたが、

黙って珈琲を飲みました。

 

その女性が帰っていくと、マスターが、

 

「そっちの店が美味しいと思うなら、そっちに行けば

いい。わざわざ、うちに来て、そんな話する必要がある

かね」

 

と私の前でボヤいてましたので、私は、「そうだそうだ」

と言って、二人して笑いました。

 

マスターの焙煎した豆は、独特の風味があり、私がそれ

が好きで通っていますが、結局は珈琲なんて好みでしょ。

 

マスターは、マスターなりのこだわりと研究で、現在の

味に行き着いたわけで、その人に向かって、他の店が

どうのこうの言うのは、いらんお世話(要するに迷惑)

でしかないわけですから。

 

これは、占いでもそうなんです。

 

占い師ならみんな経験していることですが、お客さんが、

 

「あそこの占い師さん当たりますよ」「あそこの占い師

さんにこんなこと言われたんです」

 

と、わざわざ、尋ねてもいないのに「ご報告」くださる

場合があります。

 

占い師は、「そうなんですね」と穏やかに聴くとは思い

ますが、内心は「そんなら、そっちに行けよ」と思って

います。

 

そんな他所の話に興味がないんですね。

 

どーでもいい話に付き合わされて、時間の無駄なんです。

 

 

あと、占いを習いに来る方でも、

 

「あそこの先生には、こう習いました。ナガレボシ先生

のやり方と違う」

 

「自分の研究ではこうです。ナガレボシ先生のやり方は

違う」

 

といったことをいう人がいます。

 

じゃあ、うちに来なくていいよ、好きにしな!

 

と思います。

 

以前は、どうして、そのように違いが出るか、丁寧に

説明していましたが、こちらにとっては、どーでもいい

話を聞かされて、それに対応して・・・と、面倒くさい

んですよね。時間の無駄です。

 

特に、東洋の占いは、歴史が長い分、手法や考え方に

大いに違いがあります。

 

例えば、四柱推命では、古典によって、書いてることが

全く違うわけです。

 

同じ明代(西暦1368~1661年)でも、「劉伯温」が書いた

「滴天髄」と、「雷鳴夏」が書いた「子平管見」は全く

違う内容です。

 

もう既に古典の段階で違っており、それが日本にもたら

されて、日本の先生方の解釈や、実力の差などもあって、

さらには阿部泰山の台湾子平もあれば、高木乗の世界も

あり、最近では、不思議理論も多数発明され、全部、

違うものになっています。

 

そこで重要なのは、「Aではなく、Bが正しいんだ」と、

自己主張するのではなく、「そういう考え方もあるんで

すね」と、素直に受け入れる態度です。

 

実際の鑑定では、先生のやり方でなく、自分の考えで

やればいい話なんですから、何を使うか、何を棄てるか

は、生徒が自分で決めればいいことです。

 

私も、中国人の先生に習うと、内心、「ちょっとこれは

違うんじゃないか」と思うことがありますが、私は、

「貴重な考え方を教えて頂いて、有難うございます」と

受け取って終わりです。

 

自分が使えると思う部分だけ、有難く頂戴して、自分の

やり方を豊かにするだけです。

 

「先生の、このやり方には納得がいかない」などと愚か

なことを私は絶対に言いません。

 

なぜなら、私は習う側であり、習ったことを使うかどう

かは私が決めるだけのことだからです。

 

また、私が、「このやり方はおかしいと思います」と

先生に言ったところで、先生にとっては、どうでもいい

話なわけです。(こういうことをしていると、どの先生

からも嫌われて、本当に大事なことを教えて貰えなくな

ります。)

 

それに、自分の理解力が低すぎて、今は、先生の言って

いることが間違ってるように見えているだけかもしれま

せんので。

 

もともと、占いなんて、10人の先生がいれば10通り

のやり方がある世界なんですから、初めから違って当然

です。

 

(占い業界に、有名な女性の先生で、無学のくせに、

デカい声で、ごちゃごちゃ言ってる恥ずかしいのがいた

な~ そういえば/遠い目)