例えば、怒りの感情が生じても、それは「私の怒り、

私のもの」ではなく、「外にある」のものです。

 

よくよく観察すると、誰でも分かります。

 

そのようにして、「私の側」(見る側)に感情や

思いや知識を置くのではなく、そもそも最初から

向こう側にあったもので、一度も私のものになった

ことがないという事実に気づいたとき、そのとき既に、

見る側は、感情や思いから自由であるということを

クリシュナムルティが最初に言い、バグワンシュリ

ラジニーシも真似して言うようになりました。

 

自分が、どんな思いや感情や考えを持っているかを

見ることは大事なことです。

 

本でも、テレビでも、近すぎると見えません。

 

エスパー伊東は、本に顔をくっつけて活字を読める

と言ってましたが、結局、できなかったわけです。

 

近すぎると見えない。

 

逆に、見えているとき、対象から距離があります。

 

ですから、自分がどんな考えに憑りつかれているか

が見えた瞬間に、既に、考えから解放されています。

 

見えたときに、離れていて、自由。

 

見えてないときは、しっかり、とりつかれています。

 

自分の側に持っていると不自由。

 

自分の側に何も残さず、空っぽのとき、自由です。

 

これ、さらっと書いてますが、悟りの重要なポイント

です。いくら、ゾクチェンだなんだ言うても、ただの

知識でしかないです。

 

「それ仏法遙かにあらず、心中にして即ち近し。

真如ほかにあらず、身をすてて何いずくんか求めん。

迷悟我れに在れば、発心すれば即ち到る。」
                「般若心経秘鍵」

 

(そもそも仏教とは、遙か彼方にあるのではない。

私たちの心の中にある。真理は、心の中以外にはない。

だから、我が身を捨ててどこにそれを求めることが

できるだろうか。迷いとか悟りとかは、自分自身の心

にあるのだから、悟りを志せば、ただちに悟りに到達

できるのである。)

 

 

クリシュナムルティも、「心の状態が、葛藤そのもの

よりも、はるかに重要です」(見る側の状態が、見ら

れる側よりも、はるかに重要)と言っています。

 

 

「なんか、あいつのことムシャクシャする」という

場合、自分(=見る側)がそうした考えにガッツリ

「とりつかれている」ことが見えていないだけです。

 

過去にとりつかれて、そういう「邪見」を自分の側

(見る側)に残してしまっているのです。

 

 

"The observer is to be observed. "

                                      Krishnamurti