ここのところ、人生の展開の速さに
自分でついていけず
まるで急流すべりのような日々を送っておりました。
おそらく変革の時なのでしょう。
こんばんは。西きほこです。
いかがお過ごしでしたか?
私は髪も短くして
中学の校則でおかっぱにして以来
36年ぶりボブスタイルです。
先ほど、近くに住む母親からラインが来ました。
いつもになく興奮気味の文面です。
一緒に私の傘の画像が送られてきました。
少し長くなりますが良かったらお付き合いください。
私には長年連れ添った傘があります。
その傘は、私が高校に入学してすぐくらいに
神戸の百貨店で母親に買ってもらった傘です。
当時の私は建築物が好きで、
世界中の建築物を見て回りたいと心に思い描いていました。
そんな中で見つけた建築柄の緑色の傘です。
高校はとても楽しかったけれど
記憶にある思い出といえば、
なぜか雨の日の通学ばかりが思い出されます。
常にこの緑色の建築柄の傘が一緒でした。
ある日、傘をどこかに置き忘れてしまいました。
ずいぶんと探したのですが、
「もしかしたら駅前のパン屋さんかも!」と
数日後にパン屋さんを訪ねました。
「傘を忘れたのですが、緑色の・・・」
と言うと、すぐにお店のおばさんが
「ああ!緑色で柄の部分がオレンジでおいしそうな傘でしょう!はい。ありますよ。」
と、持ち主が現れて良かったと嬉しそうに渡されました。
「こんな素敵な傘はそうはないから、きっと大切にしているんだろうなと思って」
こんなふうに、その後も私のうっかりで
この傘が何度か私の手から離れたことはあるのですが、
名前も書いていないのに、
見知らぬ人が、「きっと大切な傘なのだろうと思って」と
どんな時も私の元に<必ず戻ってくる>という
不思議な傘なのでした。
大学生になり、
社会人になり、
結婚し、
赤ちゃんが生まれて母となり、
子育てをがんばり、
夫との仲がうまくいかなくなり、
離婚を決意し上京し、
東京で17年ぶりにOLになり、
占い師として身を立てられるようになり、
再婚し、子供が生まれた日に
夫が脳幹(橋)出血し、
また一人で奮闘の日々を過ごして
その子が7歳となり、
その間、ずっと私の傍らで生きる力を与えてくれていた傘。
実は先月、とうとう柄の部分を割ってしまいました。
出かけるときにふと、「今日が最後になるのかな?やっぱり置いていこうかな。」
と傘とのサヨナラの時が頭をよぎったのですが、
その予感が当たったのでした。
雨の日に渋谷のメキシコ料理屋さんに持ち込んだ際に、
椅子からつるっと滑って、タイルの床に当たった軽い衝撃で割れてしまったのです。
その様子がスローモーションで思い出されるほどにショックでしたが、
心は冷静で黙って、今日が寿命だったのかな。
そんなふうに言い聞かせていました。
33年連れ添った傘です。
その間、私は他の傘を持っていませんでした。
1本の傘だけを33年間使ってきたので、
こんな日がいつ来てもおかしくないことは分かっていました。
家に帰ってからも、喪失感が大きくて
とりあえず判断をせずに靴箱にしまってありました。
母がうちに来た際に、
母が買ってくれたこの傘がとうとう壊れたことを告げました。
私が一途にこの傘しか持っていないことを知っている母は、
他のを早く買わなくちゃね、と普通のことを言いましたが、
うん、そう思って都内のデパートや海外の素敵な傘も見たんだけれどね、
素敵なものは沢山あるけれど、どれも自分じゃないのよ。
どうしても諦めが付かなくて・・・
すると、母が「傘の修理屋さんを当たってみるわ。
きっと修理してくれるところがあるはず。」
と持ち帰ってくれたのでした。
傘は消費するものとなった今の時代に、
傘の修理で存続できるお店があるものなのか?
つい先日、子供の制服のボタンホールのお直しができる職人が
もう東京にはほとんど残っていないということが
分かったばかりでしたので、ほとんど期待せずにいたのです。
母は傘屋さんやお直し屋さんに聞いて回り、
傘の修理屋さんを下北沢で見つけたようです。
近所の人に聞いても知らないような
小さなテナントビルの2階にその店はありました。
傘を修理に持ち込み、預けてから一か月が経ちました。
(全国から寄せられるので順番待ちが長いそうです)
母からのラインは、こうでした。
お直しが終わったとのことで傘を取りに行ったら、
お店がテレビの取材を受けているところで、
日本テレビの人に
「なぜ直すのか?」と取材を受けたのよ。
と、この傘のエピソードを話したそうなのです。
テレビ局の人は話の内容に興味を持ったようだったけれど、
私は髪もボウボウで、取り急ぎのスタイル、
画にならないわよねと逃げるように帰ってきたらしいのですが・・・
来週の夕方に日テレで放映されるようです。