「ねえ、ねえ、もうすぐ着くわよ、起きたら……」
男は拒絶するようにいやいやをくりかえしている。
完全に夢の中なのか。
ぴったりとした黒いシャツの胸元が少し開いていて長い首をのぞかせている様子だとか、肩につくくらいにカットされた癖のない髪型がなんとかというミュージシャンを思わせる。
眠そうな目をあけたら、本当に本人だったりしてと、いったいいくつのピアスがついているのだろうと、お洒落なのか意地になっているのかと、エイミは微笑んでしまった。
後一分ほどで男が握り締めている切符の駅に着く。
この電車は終電というやつでこのまま乗り過ごしてしまうのを、この男は望んではいないだろう。
こうしてただの偶然にせよ、隣同士で座ったのも何かの縁なのだと思う。
ほうっておけばいいのかもしれないが、自分もどうせそこで降りるのだからと、妙な言い訳を心でしながら、エイミは、もう一度眠れる男を揺り起こした。
男から漂う僅かなアルコールとフレグランスの香りが鼻腔を緩やかに刺激する。
ビクッとまぶたを震わせ、男がうっすらと目をあけた。
寝ぼけていたけれど完全に覚醒したら、胸に薔薇を抱いた騎士の姿が似合いそうな風貌がそこにはあった。
エイミは素早くミュージシャンとは別人の物憂い勇者の腕を取り、下車していた。
★★
「また誰かのこと考えてるんだろ?」
スポーツというより闘争向きの鍛えられたボディに拘束されるのは嫌いじゃない。
それでもエイミの口からは軽やかだけれど、毒の含まれた言葉が紡ぎだされる。
「愛とか恋とかそんなものがないと私を抱けないの?」
とっくに、あの夜電車で出会ったこの男を手放せなくなっているというのに。
喉から手が出そうになるくらい、男の心を求めて、焦れて、揺れて、人知れず大粒の涙を流す夜が続いているのだ。
「そういうもん欲しがるんじゃないのか、女は?」
「いらない」
日毎くりかえされる愛撫、夜通しあきもせず、蜂蜜入りのハルユキの攻めが続く。
「どうして、ハルは私に優しいの?錯覚して誤解して期待するじゃない」
「期待すればいいだろう」
触れられないところはないだろう。
ハルユキが懇切丁寧にエイミの肌を甘やかしていくと、どこもかしこも上等なシルクをまとった肌になる。
それはなめらかで、ざらついたものなどなにもない。
強く抱きしめる男の指先に敏感に反応していくのだ。
悩ましく秘めやかに薄赤紫のオーラに染まっていくエイミは言葉を忘れ、陶酔の世界に誘われる。
★★
「これ、もう少し温めて。手を抜くなよ。味も僕好みじゃない。それに、その化粧も服も髪も君には派手すぎる。男でも誘うつもりか」
エイミは夫の容赦のない舌打ちに怯える。
箸を乱暴に置き、夫が騒ぎ始める。
いったい何が原因で眉間にしわを寄せるほど夫の機嫌を損ねたのかと思う。
料理が少しばかり冷めたのは、夫がつくりたての皿を放置し、いつまでもテレビを見ていたからではないか。
私のせいではないはずだとエイミはもう何度か味わった破滅しそうなほど苦しい心音を感じていた。
軽いパニックになる。
エプロンの下のほうをぎゅっと掴んで、夫の理不尽な怒りをやりすごそうとしていた。
夫はおもむろに立ち上がり、台所の隅のゴミ箱に、冷笑を浮かべて一口食べただけの物を皿ごと捨てた。
「僕の妻なんだから、いい加減、満足できるようなものを作りなよ。君には失望したよ」
ぷちっと音をたてて、壊れたのは何だ。
良い家庭をつくりたい、賢い妻になりたいというささやかな願望は、夫の手によって、毎日少しずつ、壊されていたのかもしれない。
どんな小さなことでも夫は干渉し、同意することなく、冷ややかな視線でエイミを観察していた。
ーー君は頭の加減が少しよろしくないんだからそんな難しいこと考えたりやろうとしなくていいんだよ。僕を支えたい?そんなもん幻想だよ。君に何ができるっていうの?僕を楽しませることだけを考えてればいいのさ。僕をがっかりさせないで。
繰り返されていたひどい言葉を愛の証であるとおろかにも思っていた。
軽蔑し貶めながら、じわじわと自分好みに作り上げて喜んでいたのだろうか。
夫は自分を愛しているわけではない。
自分のエゴを押し付けて、それを忠実に再現してくれるような女が欲しかっただけなのだろう。
エイミはエプロンを破り捨てるように脱ぎ、左手の薬指からプラチナのマリッジリングをはずした。
コロンと落ちていくそれをエイミはひどく乾いた心でながめていた。
生涯の愛を誓い合ったはずの指輪は夫の自己愛を助けるためのものであったということだ。
「もううんざりだわ。私はあなたの人形じゃない。あなたの理想の妻になんかなれない」
★★
ボロボロになり、自分を見失い、破壊しつくされたちっぽけな自尊心、同時に人を愛する能力も誰かを信じてみたいと思うことも消えたのかもしれない。
離婚してもう何年もたつのに、ふと何かの瞬間に結婚生活を思い出してしまうことがあり、記憶の中の夫の悪魔のような哄笑に苦しめられうちのめされていた。
夫だった人はもう妻というのは名ばかりの新しい玩具(ターゲット)をみつけたのだろうか
「どうした?震えてる」
エイミは苦い回想を飲み込めないでいた。
二人並んだベランダでハルユキに肩を抱かれた。
穏やかなぬくもりが強張った塊を氷のようにすっと溶かしてくれるようだった。
外は夕暮れの華やかな光のショーに包まれていた。
ブルーとオレンジに彩られたコントラストが華やかな空が美しく広がっている。
優美な空に抱かれているような感覚があった。
沈黙のハルユキに支えられ、守られているような気がした。
「綺麗だね、空」
「そうだな」
「……こうやって一日が終わって、どんどん時は過ぎていくのに、私はいまだに前にすすめない」
「俺だって同じ。つまらんことで悩んだり、エイミの心を手に入れるにはどうすればいいか、考えてる」
いつも自信たっぷりのハルユキが子どものように拗ねている。
嬉しくて甘えるように身を寄せた。
「期待するじゃない」
「だから、期待しろよ、愛とか恋とか欲しがれよ」
沈み行く夕陽に、照れて赤く染まるエイミの心に新しい夜がやってきた。
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エゴイストな人に惹かれてはならない。
嫌われないように、ありえないほどの理想の相手を終わることなく演じ続けなければならないのだ。
さながらそれは地獄、そこに愛などない。