「何やってるの?」


背後から柔らかな声が聞えてくる。


私は駅前の静かな公園のベンチに座ったまま白く輝く月に向かって両手を伸ばしていた。


あわててふりかえった。


電灯の鈍い光の中で彼の澄み切った双眸がさらされた。


月の色のような髪がさらさらと風に揺れていた。


きっちりとスーツを着こなし、怪しい人には見えない。


見知らぬ男は月の神官なのかもしれない。


さきほど飲んだ酒の酔いのせいだろうか。


ふらふらした覚醒しきれてない頭でそれもいいかもしれないと思った。


どうかしていると私は苦笑した。


「願いをかなえて欲しくて」


「月に願うの?」


「このままじゃ、息を吸うことも、前に進むこともできないから……もう一度だけ彼に会いたい」


★★

「月に一度くらいなら会えるんでしょ?」


答えてくれることはなく、噛み付くようなキスをされる。


転勤でかなりの遠距離恋愛になるというのに、甲斐(かい)は不安ではないのだろうか。


立ったまま壁におしつけられ、服が剥ぎ取られていく。


むき出しの素肌に彼の唇が押し当てられ、苦しいくらいの欲望が伝わってくる。


「か、い」


言葉が欲しくて、荒々しい呼吸の中で流されそうになりながら、それでも必死で彼の顔を見た。


「那子(なこ)俺が好きか?」


彼の背中に腕をまわし、愛しい男の香りを確かめる。


不安な心とは裏腹で、彼の指先の動きを待ちわびたように反応し始める私の耳元で、かすれた声が続く。


「毎週俺が那子のところに帰ってくるから。だから、心配しないで、待ってて」


「……待ってる」


「会えない時も俺を思ってて」

★★


甲斐は転勤後、約束通り、すぐに週末になると私のマンションに来てくれた。


数ヶ月は順調だったはずだ。


甲斐が苛立ち、余裕がない日々を過ごしていることなどわかろうともしなかった。


週末の彼の熱い体温に包まれていれば満足だったし、彼も私といることで癒され満たされているはずだと勝手に思っていたのだからこっけいだ。


修復不可能な溝が二人の間にできているとはこれっぽっちも思わなかった。


あの日重ねた指が手が体が言葉が心が砂のように風に乗り消えていく。


「仕事思ったよりも忙しくてなかなかそっちにいけなくてごめんな」


異変は唐突に始まった。


最初は穏やかにそう説明された。


いい子で待ってるから、仕事がんばって、無理しないでと言ってあげればよかったのだ。


わかっていたのに、出てくる言葉は、甲斐をののしり、追い詰めるような言葉ばかりだった。


寂しくて焦れて、まだ残業中であると承知していながら電話をしてしまったこともある。


メールをしても返事はなく、しかたなく、何度もこちらから電話をかけた。


彼は退屈そうにしかたなく私の相手をしてくれているようだった。


早く切りたいという気持ちが伝わってくる。


こんなことを続けていたら嫌われるのはわかっていたが、声だけでも聞きたくていつでも電話をくれと強要し携帯を握り締めたまま眠る日々が続いた。


待てども彼からの電話はなかった。


待ちくたびれて、寝る前のオヤスミコールをしたくて夜中にしつこくかけていたら、ようやく不機嫌そうな彼の声が飛び込んできた。


女性の笑い声が聞えたような気がした。


「誰かいるの?」


「いたらどうする?」


曖昧な彼の言葉に怒鳴ってしまうようなまねをしたら、甲斐の口調が変わった。


「うるせーな。面倒なんだよ。俺を労わる言葉はないくせに、会いたいばかりを繰り返す。息がつまるんだよ。安らげない。仕事も環境も慣れなくて、神経張り詰めてて、身近で優しくしてくれる女のほうが楽なんだよ」


顔面を殴られたような激しい痛みを感じた。


嫌われても当然だった。


おろかな私はどこかでこの子どもじみた甘えが許されるのではないかと思っていたのだろう。


私を好きなら、愛してくれているのならと、傲慢だった。


見たくなかった現実、私は、どうしようもないくらい自己中心的でお子様であったということだ。


精神的にも支えてあげることもせずに、愛して欲しいとばかり願う。


恋ではなくこれでは依存だ。


とっくに嫌われていたのだ。


「……ごめん。自分が寂しいからって甲斐のこと思ってあげてなかったかも、もうおしまいなの?」


言葉がうまく続かない。


「ああ、別れよう」


即答だった。


甲斐にとってはもうずいぶんと前から私との恋は終わっていたということなのだろう。


★★

「彼に会ってどうしたいの?」


月の化身のような不思議な男との対話は心地よかった。


初めて会ったというにに、どうしてこんなにすらすらと言葉が繋がっていくのか自分でもよくわからない。


「彼に少しでもよくなった私をみてもらいたくて。反省したし、すごく嫌な女になってたってこともよくわかったから、だから、それを伝えたい」


「やり直したいから?」


「ええ、できればそうしたい」


男は私の隣にゆっくりと腰を下ろした。


「彼はそれを望んでいるのかな?」


ちくりと胸が痛む。


また私は間違った方向へ進もうとしているのだろうか。


あれほどはっきりと別れを告げられたのである。


甲斐はもう私に会いたいとは思わないだろう。


まったく私はおろかだ。


反省しきれていないではないか。


いまだに自分の都合で物事を考えているらしい。


「そうだね。彼はきっと私との復縁なんて望んでない。もう、違う人と歩き始めているみたいだった」


男は空を見上げ丸い月に向かって片手を差し出していた。


綺麗な月だなとつぶやいて、そして、私をまっすぐにみつめた。


「復縁はできないかもしれないけれど、君が伝えられることはあるんじゃないかな」


「どんなこと?」


「ある意味彼のおかげとやらで君は変わることができたんでしょう?だからさ、それを伝える。恋人でいた時にはできなかった、しようともしなかったはずの自分自身と向き合うってことができたわけだ。これは、彼のおかげともいえる.んじゃないか」


「……そっか。やり直したいとかおしつけではなくて、ありがとうって伝えればいいのかな?」


彼は首を縦にふりながら嬉しそうに笑った。


「ありがとうの言葉なら彼も嫌がらずに受け取ってくれそうじゃない?」


「……がんばってみる。彼に言えたらこんどこそちゃんとサヨナラできるかもしれない。なんだか、あなたといたら、このあたりにつかえていた苦しいものが溶けていくみたいな気分」


男はまた小さく笑った。


「俺もあの日あいつにそう伝えておけばよかったんだな。恋は難しいな、渦中にいる時はなんにも気づけない。痛い想いをして学習していくしかないんだよな」


男と二人、蒼い月を見上げた。


「まだ好きだからちゃんと反省したよ。よくなった私を見て。またやり直したい」


こんな風に言うよりも、「私ものすごくわがままだったってこと、あなたがきづかせてくれた。いままでありがとう」のほうがいいのかもしれない。


ごめんなさいよりも、ありったけの感謝を伝えよう。


二人の恋は終わってしまったのかもしれないけれど、ありがとうがいえるようになったあなたは、確実に成長しているに違いない。


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