きーんと耳鳴りがしているような気がする。


お腹の上に誰かが乗っているように感じるのは気のせいか。


耳の中に、にゅるりと入ってくる軟体動物のようなものは何だ?


無意識にあばれていたのか、パジャマ代わりのTシャツがまくりあがりわずかに素肌がさらされる。


これは夢じゃない。


何かにがんじがらめにされているようで、体を動かすことができない。


金縛りなのかとパクパクと声にならない声を上げた。


しだいに覚醒していく私の脳が、くすくすと笑う男の姿を確認した。


驚いて、起き上がろうとしたがうまくいかない。


「だ、だれ?」


犯されて?濡れた耳を押さえる。


金魚のように酸素を求めていたら、また、冷たい微笑がかえってきた


「お目覚め?よく寝てたみたいだけど、俺、暇だったから、俺流で起こしてみた……男の子?じゃないよね」


俺流?

耳にキス?

夢だったのかもしれないと混乱してしまう。


どうせ、少年体形だと自嘲する。


いつのまにかソファで居眠りしていたらしい。


目の前に見たこともない男がいた。


この部屋の主である日美子(ひみこ)はしばしば霊界や魔界から人ではないものを呼び出してしまうことがあるという。


この男もそういった類なのだろうか。


心霊スポットツアーにでかけるという日美子の留守の間の愛鳥の世話を頼まれた私は、さきほどまでは確かにひとりだったはずである。


見知らぬ男はやはりあの世のものなのではないだろうか。


「横谷玲人(よこやれいと)、日美子から君がくることは聞いてたよ。日美子の友達、売れない画家、留守中の掃除と食事当番」


つられて、「永瀬麻奈(ながせまな)、会社員、今は休暇中、鳥当番」と言ってみるものの、日美子はいったい何を考えているかと思う。


私のほうは日美子からなにもきかされていないのである。


「ふーん、麻奈はなんか猫みたいだな」


早速呼び捨てである。

猫か。

ふられたばかりの恋人にもよくそういわれた。

ショートカットで猫眼な外見だからか。


見知らぬ男性とふたりきりで幾日かをすごせというのか。


そもそも日美子はとりあえず1週間くらいかなというだけで帰宅予定を知らせてくれていない。


鳥の世話もこの男に任せて自宅に戻ったほうがいいのかもしれない。


仕事で多忙だったためにやっと取れた遅い夏休みをすごすために、そして、失恋を癒すために、日美子の住む珍しい本がいっぱいの書斎がある快適で贅沢な静かなマンションにやってきたのだ。


世界中のミステリーを読みまくろうと計画中であった。


あわてて彼女の携帯に電話をかけてみるが留守電にすぐに切り替わってしまった。


いったいどうしたらいいのかと途方にくれた顔をしていたら、「俺、帰るとこないから。追い出されたんだよね、住んでたところの主に」、しれっとそうつぶやく。


私も今からでは最終電車には間に合わないだろう。

帰ることはできない。

とりあえず、今夜はここにいて、明日、考えることにしよう。

★★


《霊山》とプリントされている黒のエプロンは日美子のものにちがいない。


玲人はキッチンで楽しそうに料理中である。


私はサラダを作っていた。


「日美子、また山にでも行ったのか?」


ハンバーグを両手でキャッチボールするように何度か投げて空気抜きなんかをのんきにやっている。


「こんど書く小説の取材らしいよ」


普通に会話を続けている私自身が不思議な存在であると思った。


ホラーファンタジー作家の部屋にいるから、こんなふうに人見知りの私でも初対面のしかも男性とまったりとすごすことができてしまうのだろうか。


「またいつかみたいに日美子のやつ、山の霊に憑かれたりしてな。」


玲人ではなく、冷人と綴るべきなのではないかとおもうくらい、ぞっとする言い方であった。


「日美子とどんな知り合いなの?」


「学生時代の心霊サークル仲間」


「うわあ。じゃあ、横谷さんも見える人?」


じっとみつめられて、なぜだか、ぞっとした。


よく日美子がこういう顔をする。


そして、たいがい、「……ああ。……麻奈の隣にいるね、生霊みたいな女性かな」、こう続けるのである。


ギャッっと色気のない悲鳴を上げて、思わず玲人のシャツの裾をにぎりしめてしまった。


「怖い」


「平気だよ。俺がいるから。……玲人でいいよ」


耳元でそう囁かれた。

ぞくり。

玲人という霊なら確かにここにいる。


総毛立った腕は恐怖によるものなのか、甘酸っぱい痺れによるものなのか、よくわからなくて困惑していた。

★★

玲人の作ってくれた食事はどれも美味しくて素直に賛辞を述べると、料理が趣味だと照れたように笑った。


ビールを飲んでいたせいか、頬がほてっている。

私はあまりアルコールに強くない。


視界がくらくらとする。


玲人はうまそうといって、高そうな日美子のワインを勝手に次から次へとあけている。


あまり酔っているようには見えない。


やはり日美子の魔方陣によってこの世に舞い降りた異人なのかもしれない。


「麻奈に憑いてきたやつさ、男にふられたみたいだな、麻奈に対して逆恨みかな」


生霊はあの女性なんだろうか。


「ふられたのは私なのに」


あの女性を選んで私をふったくせに、もう違う人のところにいったのだろうか。


浮気三昧のあんなひどい男のことは忘れたほうがいいと生霊とやらに向かって私は強く念じていた


「すげえ。麻奈、生霊、消えたよ。霊感あるんじゃないのか」


玲人はなんでもない話のように怖いことをさらっといってのける。


「き、消えたの?」

「ああ」


玲人は赤ワインを飲み干し、かすかに笑っていた。


その瞳が優しくて、優秀なカウンセラーのようでなにもかも話してみたくなっていた。


「失恋したら世界が終わったような気になって、本当に何を見ても、モノクロにしか見えなくなった。浮気されるのは、私が仕事ばかりであいつに冷たかったからだとか、自分を責めてみたりして」


「麻奈ばかりが悪いわけじゃないだろうな。真相はわかんないけど、ほかに好きなやつができたってだけじゃないのか。それに浮気するやつはもう病気みたいなもんで繰り返したりするみたいだし。努力したってどうにかなるもんじゃない。どう生きたって一日は一日だよ。楽しく行こうぜ、相棒」

「相棒?」

私はけらけらと笑っていた。


たしかにそうである。


ワインの名前もよく知らない私には、もったいないほどの芳醇なワインを味わっていた。


人生は本当に山あり谷ありでつらいことも多いと実感することが多くなった。


だが、玲人のほのぼのとした様子に接していると、おぼつかない足取りでも一歩一歩歩いていけそうな気がしてくる。


ボトルの中身はアルコールではなくいにしえの秘薬なのかもしれない。


私がもし何何だったら失恋していないのかもしれないなどと、自分の都合のいいようにストーリーを作り上げてはいけないのだろう。


事実をありのままに受け止めて、これからどうしていくか考えて、自分に今何が必要で、何が足りないのかを把握して、目的に向かって速やかに動くことが必要である。


★★

お先にどうぞということでシャワーを浴び、タオルを頭からかぶり、パジャマを着込み、ソファの上でぼうっとしていた。


どくどくと高鳴る心音は飲みなれない酒のせいだろうか。


それとも玲人と二人きりの空閑で夜がふけていくということへの恐れ、あるいは、何かの期待からなんだろうか。


浴室から出てきた玲人は裸の上半身にバスタオルをかけて、下はジャージをはいていた。


はらりと落ちた前髪と、タオルからのぞく玲人の瞳がどことなく艶っぽく、私はどきりとしていた。


玲人は冷蔵庫からよく冷えたシャンパンを取り出し、二つのグラスに注ぐと、私に一方を差し出した。


シュワシュワと泡立つ甘い香りが心地いい。


ぐいっと飲んでしまった。


いつもの適量をはるかに越えているのではないか。


玲人がいるこの空閑をこの時間を私は十分楽しんでいた。


彼はぐしゃぐしゃとタオルで濡れた髪を拭くと、にこりと笑って、残りの酒を飲み干した。


残りがまだ入っているボトルとグラスを抱えて、「お休み」と言って、それはもうあっさりと、空き室に去っていってしまった。


今の私は間抜けな顔をしているに違いない。


何かが起こると馬鹿みたいに緊張していた。


期待していたのかもしれない。


ひとつの部屋に男と女がふたりだけでいたからといって、甘ったるいハプニングが起こるとは限らない。


はははと乾いた笑いが浮かぶ。


私は日美子の部屋にそっと入り五芒星が描かれた黒いカバーのかかるベッドへダイブしていた。


手足を胎児のようにまるめてみた。


玲人との会話をぼんやりと思い出してみる。


ーーふらふらと絵を描きながら海外暮らしをしてたら旅の途中の画廊の女主人に拾われて、売り出してあげるからと誘われるまま帰国してそのまま、居候。いつからか結婚してくれって迫られて。ありえない、無理だからと言ったら、追い出されて、友達んとこ転々としてたら、日美子が雇ってくれたわけ。


ーーずっと暮らしてたんでしょう?それなのに玲人はその人のこと好きじゃなかったの?


ーー嫌いではなかったよ。仕事はできるし尊敬できる女性だったから。でも、俺には恋とか愛とか、よくわかんないだよな。


信じられないことに、会ったばかりの人に惹かれている。


移り気な男に捨てられたばかりだというのに、私はまた、愛を知らない厄介な人を好きになりかけている。


★★

奇妙な同居は恋を生み出すことはなかったけれど、居心地がよいものであった。


食事は和洋中と色鮮やかでバラエティにとんだものであった。


しわしわの私のシャツがすいすいと彼の超絶アイロンテクによってなめらかな服に蘇った。


「フェニックス、君のママから連絡ないね」


日美子の愛鳥が水をとくとくと小さな口で飲んでいる。


巻き毛のカナリアは本当に歌を忘れていて無口であるが愛らしい。


毒ガスの検知なんてこの子には到底無理なのではないだろうか。


私は陽だまりの中でまどろむ。


玲人はさらさらと鉛筆を走らせスケッチブックになにやら描いているようだ。

★★

トマトを切るくらいしかできない家事能力の欠如した私にあきれることなく、執事よろしく世話をやいてくれた。


日美子ではなく私専属のハウスキーパーみたいだと笑ったら、玲人は、「麻奈は夏休み中なんだろ。お望み通り、なんでもいいつけてください。家事はおまかせください」とおどけた。


その言葉通りに日美子の車を拝借して、ドライブに連れて行ってくれて、夜景を見たり、いやというほど海の青さ、空の雄大さを堪能したりした。


気が効いて、静かで、煩わせるようなことはしないし、言わない。


そのくせ、私が本当に欲しいと思っている情熱は決してくれようとはしなかった。


たまに偶然にふれあう指先は、明確な意図をもってつながれることはなかった。


ワインを口に含み微笑を浮かべる玲人の唇が私を求めることはなかった。


陽だまりの中の玲人はまぶしいほどの光に包まれて、やはり、主が遣わした神子なのではないかと思う。


「何描いてるの?」

「麻奈」

「私を?」

「はい……これ、あげる。もうすぐ日美子帰ってくるだろう。お別れだから、記念にな」


フェニックスを指先に乗せて月明かりで戯れている天使のような私がいた。


こんなに美しく描いてもらえるほどの価値が私にあるのだろうか。


きゅんとせつないほどの痛みが胸のあたりに走る。


「ありがとう。なんかすごく嬉しい」


鼻がつんとして、泣きそうになってしまうほど顔がゆがんでいた。


綺麗でもなんでもない顔をみられるのが怖くて、下を向いた。


まさに玲人への気持ちが恋であると自覚したとたん失恋に終ったのだ。


玲人の発したお別れという言葉の重みを嫌というほど感じていた。


苦しくて悲しくて消えてしまいたくなる。


「どうした?」

「嬉しかったから、泣けてきたの」

「まいったな。そんな反応新鮮すぎて、とまどうな」


その時、玲人が愛しそうにみつめてくれていたことを私は知らなかった。


★★

いつものようにリビングでお休みの挨拶をしてそれぞれの部屋へ向かう。


寂しくて物足りなくて我慢できなくて広い背中にすがりつきたくなる。

愛されたいのか。

ただの欲求不満なのか。

人恋しくてたまらないだけなのだろうか。


『どう玲人とはうまくやってる?』

明瞭な声はやっと連絡の取れた日美子である。

【わざとなの?】

『もちろん。麻奈のためにお見合いみたいなもんかな。……で、どうよ?もう落された?』

【なんにもないわよ】

指一本触れてはこない。

男の子と間違われるくらいなのだから女としての魅力がないということになる。

『嘘、玲人の好みのど真ん中で超タイプだとおもうんだけどな、真奈は。中世的な子がいいみたい』

【ううん、まったく興味ないみたい。恋愛する気もないみたい。……もうすぐさよならだからって私のこと描いた画をくれたけど】

『描いたの?玲人が?へえ、それはすごい、ひょっとしてひょっとするかなあ』

【何?】

『玲人は人物画は描かないんだよ。よほど気に入ったんだね、麻奈のこと』


それが事実ならとても素敵なことである。


でも、気に入ったなんて嘘だろうと思った。


ただの気まぐれなのだ、喜んではいけないと自分にいいきかせる。


もち上げられてその後、一気に落されてしまったら悲しすぎる。


日美子は週末には帰るからといい、唐突に電話は切れていた。


私の短くともインパクトのあった今年の夏休もあとわずかで終るのだ。

また、月曜日から殺伐とした社会生活が始まるのである。

★★

終わりの日はあっけなくやってきた。


持ってきた荷物はもともと少なかったから帰りのしたくはすぐに終ってしまった。


フェニックスの鳥かごを掃除して、水と餌をあげたらもうやることはなくなった。


玲人と私は、戸締りをして鍵をかけて、部屋の外に出た。


残暑はまだまだ厳しくて貧血をおこしそうになる。


日美子のマンションは楽園だったのだとあらためて思った。


「玲人はこのあとどこに住むの?」

「とりあえず友達のところに行くつもり。部屋探さないとな」


私のところにくればいい、そう言えたならどんなにいいだろう。


駅までの短い時間を二人で歩く。


「荷物もってやろうか?」

「ううん。大丈夫」


バッグの中には玲人がくれた画が入っている。


私は抱きしめるように大切そうにそれを抱えていた。


駅から数分の距離の便利なマンションがこんなときは恨めしいと感じてしまう。


人間というのはなんて自分勝手ないきものなのだろうと苦笑いをしてみた。


もうあと数歩も歩けば駅が見えてくる。


もう会えないわけではないだろう。


日美子という共通の友がいるのだから、会おうとおもえばいつだって……。


湧き上がってくる涙を抑える術を知らなかった。

流れる涙が頬を伝う。


玲人は泣いている私を静かに見守るようにしている。


眼と眼が合い、玲人が柔らかな笑みをつくる。


「もう、泣くな」


ゆっくりと伸びてきた手が私の手首を強く掴む。


戸惑い震え、呆然と立ったままでいる私は、玲人の胸に引き寄せられた。


抱き締められ、驚き、泣き崩れた顔で見上げると、どうしてと言おうとした私の唇が素早く玲人によって塞がれた。


それは熱くてやけどしそうな口付けだった。


「麻奈、恋って、こんな風に抱きしめたくてたまらないって思う気持ちのことなのか?」


夢中で頷く私に、玲人は満足そうに微笑んだ。


いつか伝わるかな、恋心。

恋愛も人間関係の一つである。

相手と上手に心のキャッチボールを続けながら、
少しずつ愛を育むことができたら理想的である。

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