ウェディング姿が壮絶に綺麗だった佳乃子(かのこ)先輩と大谷(おおや)先輩の晴れの日に、泣きそうな顔をしていた理樹がいた。


私にとっては始まりの日であり、終わりの日であったのかもしれない。


ーー佳乃子(かのこ)先輩もとうとう人妻さんになっちゃったね。慰めてあげようか、理樹(りき)


ーー明日美(あすみ)だって平気じゃない顔してる。大谷先輩のファンだったじゃないか。


ーーそうだね、おたがいさまだよね。


確かに男らしくて頼りがいがあってなんでもできる大谷先輩のファンではあるが、理樹への気持ちとは全く違うものである。


★★


「り・・・き・・」


佳乃子先輩の身代わりでもよかった。


今こうして私を抱きしめてくれている腕は幻ではない。


消えてなくならないように、そっと、吐息混じりに愛しい男の名を呼ぶ。


理樹は恥じらい横たわる私を抱き起こし、額にひとつキスをくれ、微かに笑って、まっすぐに私をみつめた。


そして、少し困ったような顔をした。


「明日美、お前、もしかして、初めてだった?」


そんな顔をみたくはない。


そんな申し訳なさそうな顔をみるために今夜一緒にいるわけじゃない。


「そんなことどうだっていいじゃない」


何もかも初めての経験に決まっているじゃない。


「俺は大谷先輩の代わりってやつ?」


頷く私に、理樹は苦笑をしていた。


私とのことを負担に思わないで欲しかった。


鬱陶しくて面倒な女にはなりたくない。


この唇も指先も体も、そして、心まで、全てが理樹のために存在していると思いたい。


理樹に会う為に生まれてきたのだと思いたい。


理樹が初めて心のそこから好きになった人が佳乃子先輩ではなくて私だったとしたらどんなに幸せだったろう。


理樹だけをみつめて、理樹と愛し合い、理樹とともにいきていけたら、どれほどの幸福を味わうことができるのだろうか。


★★


あれから季節は流れ、またたくまに三年の月日が流れた。


彼女と別れるたびに、時々気まぐれな理樹に呼び出され、熱を奪い合うような行為は続いてはいたけれど、友達というスタンスのままであった。


一緒にいるときは勘違いしてしまいそうになるほど情熱的な時をくれた。


理樹の腕の中は温かで、穏やかで、とろけそうなほど激しいこともある。


とても丁寧に私を扱ってはくれたけれど、明日美と愛しそうに呼んではくれたけれど、好きという言葉は一度ももらえなかった。


そこに愛などやはり存在しないのだ。


★★


『仕事終わった?一杯だけ飲んで帰ろーぜ』


隣の部署の理樹からメールが入る。


嬉しくてつい笑顔になってしまう。


たったこれだけのことでも私にはデートそのものである。


どんなに仕事で疲れていてもこのあと理樹に会えるとおもえば残業も苦にならない。


「なんだか嬉しそうだな、森下、これから誰かとデート?」


大谷先輩がニヤニヤしながら、パソコンの電源を落としている。


「デート?だったらいいんですけれどね。理樹といつもの居酒屋ですよ。……先輩こそ、佳乃子先輩順調ですか」


「ああ……風船みたいな腹になってるよ」


「そうですか。もうすぐ、先輩もパパになるんですね」


「ぴんとこないけどな。……じゃあな、お疲れ様」


ぽんと肩を叩かれて、先輩は帰っていった。


ちょうど先輩とすれ違うように理樹がやってきた。


★★


大好きな生ビールのはずであるのに、理樹はどこか不機嫌である。


「どうしたの飲まないの?」


「飲んでるよ」


とりたててお洒落でもなんでもないいつもの会社近くの居酒屋ではあったが、私は理樹と一緒ならばどこでも素敵な空間に変わるので、とても幸せであった。


今夜の理樹はちっとも楽しくないように思える。


席につくなり、佳乃子先輩の妊娠の話をふってしまったのがいけなかったのかもしれない。


まだ佳乃子先輩に囚われたままなのだろうか。


結局、理樹のテンションは上がらないまま、お開きとなった。


恋人同士のように手を繋ぎ、夕方はひぐらしの鳴き声がして、夜になると秋の虫の音が混在する九月の町を歩いてみたかったが、これ以上望むことは贅沢なのかもしれない。


駅にはすぐに着いてしまう。


無言のままの理樹に、私は無理やり作った笑顔を向けた。


「じゃあ、お疲れ様、また、来週ね」


定期を出し、改札を抜けようとすると、理樹が私の手をぐいっと掴み、「帰るのかよ」と怒ったようにつぶやく。


「だってそのほうがよさそうな顔してるから、私、お邪魔みたい」


「そんなことねーよ、帰るなよ」


そこには照れたように私の好きな顔をして笑う理樹がいた。


ベッド以外の場所で手をつながれたのは初めてで今度は私のほうが無口になってしまう。


ドキドキと指先までも震える。


タクシーを拾い、理樹のマンション前で降りた。


玄関に入るなり、靴を脱ぐ暇もなく、強く抱きしめられた。


私の腕をつかみ、壁に押しやり、もう一方の手であごを固定され、噛み付くように唇を奪われた。


苦しくて、切なくて、乱暴で。


こんな彼の様子は初めてで怖くなり、理樹から逃れようと力をこめるがつかまれた腕はゆるまることがない。


「り、き、苦しい」


理樹の口付けはさらに深いものになっていく。


「お前、まだ……」


「な、に、まだって?」


「なんでもねー」


横抱きにされ、足をばたつかせていると両の足からパンプスが落ちて行く。


寝室に運ばれ、甘く激しい陵辱めいた行為を受けたが、時折みせてくれる眼差しはいつものように優しくてもう怖いとは感じなかった。


いつ眠りについたのか。


カーテンから漏れてくる光は朝陽だろうか。


鳥の声も聞こえてくる。


ぐっすりと寝ている理樹のもとからそっと抜け出し、ちらばった服をかきあつめ、それらを持ってバスルームに入った。


シャワーを浴びていると、ドアの向こうでなにやら言い争う声が聞こえてくる。


理樹の彼女だろうか。


あわてて、お湯を止め、体を拭いて、着替えをすませる。


化粧ポーチを持って風呂場に入ればよかった。


理樹がこれまでつきあってきた人は佳乃子先輩にどことなく似ているタイプの女性であった。


ガーベラの花を思わせるような華やかで鮮やかな人たちばかりだったように思う。


どの人も魅力的で、私は、そのつど胸のあたりが苦しくなるような敗北感を味わっていた。


せめて口紅でもあればいいのにと思った。


すこしでもまともな顔で理樹の彼女と対面したかったのである。


おそるおそる出て行くと、やはり、咲き誇るような女性がいた。


その女性は気丈にふるまっていたが、心なしか小刻みにその体は震えているようだ。


こんなに自信がありそうな人でさえ、恋をすると不安になるものなのだろうか。


「こんにちは。……ねえ、理樹、紹介して、こちらはどなた?」


「お前には関係ないだろう。紹介する必要なんかない。だいたい俺たちつきあってるわけじゃないだろ。早く、帰れよ。勝手に作った合鍵も置いていけ」


「ひどい。私はちゃんとつきあってるつもりだったけど?理樹が会おうとしてくれないだけじゃない。……出て行くのは、そっちの彼女なんじゃない。あなた、理樹とどういう関係なの?」


「私は……ただの友達……だから、すぐに帰るから」


理樹は何も言わない。


目を合わせてくれることもなかった。


友達という肩書きで正解だったということだ。


「理樹は否定しないのね。それにしてもずいぶん仲のいいお友達なのね。朝までふたりきりだなんて」


女性は勝ち誇ったような顔をして、私を哀れむように見ると、理樹に勢いよく抱きつく。


理樹は放せよと嫌そうに言い放つ。


惨めだった。


バッグを掴み、それ以上二人の親密な様子を見たくなくてすぐにドアの外に出た。


その場に崩れるように座り込んでしまった。


手足はがたがたと震え、自分の服をきつく掴んでいなければ崩れ落ちそうであった。


理樹、声に出さずに呼んでみた。


ただ好きなだけだ。


愛を返してくれなくてもいい。


そばにいることさえも許されないというのか。


まぶたを押し上げるようにして次から次へと涙が溢れ落ちていく。


★★


幸いなことに、大谷先輩のスパルタ指導により、感傷的な気分に浸っていることは許されず、仕事に没頭することができた。


これまでだって何度か理樹の彼女に遭遇したことはあった。


でも、ここまではっきりと私と理樹がただの友人にすぎないのだと実感させられたのは初めてのことであった。


それなのに理樹は会社で鉢合わせをしてもなんでもなかった風であり、これまでどおり残業後の飲み会のメールをよこしたりもしてくる。


私の返事はノーであるというのに、理樹は私の残業につきあうつもりらしく、隣の課も消灯することがない。


「森下、このごろ、調子悪いんじゃないのか。無理しないでいいぞ。今日は帰って明日やれよ」


「大丈夫ですよ、先輩。なんともないです、丈夫なところだけがとりえですから」


自分で言って悲しくなってしまった。


本当に自慢できるところがひとつもないではないか。


笑いが凍りつき、うつむいてしまった私の頭をくしゃっとなでて、「どうした?珍しく沈んでるな。うちの奥さんがさ、一番のがんばりやで誰よりもかわいい後輩で、明日美みてると元気が出たっていつも言ってるぜ」


佳乃子先輩に憧れて彼女のように誇り高き人になりたかった。


でも、所詮無理なのだ。


雑草はたくましいけれど美しい花にはなれない。


理樹に愛されるような女にはなれない。


ぽろぽろと止まらない涙は下を向いたままの私の胸を心のうちを濡らし続けた。


ふいに抱きしめられた。


驚いて顔を上げると大谷先輩が太陽のように笑っていた。


そのぬるま湯のような母親のようなぬくもりは一瞬であったが、すぐに離れていった。


「森下、悪いけど、俺、先に帰るな。無理するなよ」


しばらく放心状態になっていたようだ。


スクリーンセーバーが落ち着かない幾何学模様を浮かび上がらせている。


「気安く抱かれてんじゃねーよ」


入り口にたたずんでいたのは腕をくみ、ドアに体をあずけている理樹であった。


「何を言ってるの?」


理樹が吊り目を一層険しくさせてにらみつけてくる。


足音をたてて、理樹が私の席にやってきた。


「仕事してんじゃなくていちゃついてんのかよ」


「だから、何の話よ?」


理樹は私の肩を押さえ、無理やり向き合わせる。


「大谷先輩とだよ、お前、まだ先輩のこと好きなんだろ?」


「好きとかそんな対象じゃない」


「だって、お前らさっき抱き合ってた」


「そんなんじゃない。先輩は励ましてくれただけで、それに、……」


「それに?なんだよ」


「私が好きなのは……理樹……だけだから」


もう気持ちを抑えることはできそうにもない。


一生言わないつもりだった言葉が唇から漏れていく。


「嘘だろ?」


「嘘じゃない。理樹は佳乃子先輩が好きで……何度もあきらめようと思ってた。でも、あきらめきれなくて、理樹といると本当に愛されてるみたいで嬉しくて、離れることなんてできなくて、彼女がいてもいいやって思って……」


理樹は私の小刻みに揺れる手を握りしめ、大きくため息をついた。


「まいったな。俺たち馬鹿みたいじゃねーか。それに、誤解してるみたいだけど、佳乃子先輩のことは単なるファンだよ。結婚式の日も大谷先輩のことばっかり考えてるお前のこと見てたら落ち込んだ。それに、あの時、俺のことは大谷先輩の身代わりだって言ったじゃないか。それでもいいと思った。いつか振り向かせるつもりでいたから。でも、お前、死ぬほど抱いてやっても、ちっとも、変わらなくて。俺とは遊びなんだろうって。だから、俺、自分の気持ちごまかしてお前のことあきらめるつもりで他の女とつきあったりしてた」


「……嘘……本当に?」


ぼすっと頭を理樹の胸元に押し付けられた。


「ああ。……好きだよ、すげえ好きだ」


理樹の匂いが私を包み込んだ。


「私も、……好き」


「他のやつに触らせたら許さないからな」


熱っぽく囁かれた。


妄想家同士が恋愛をするといつまでたっても前に進めないことがある。

本当に好きなら、勝負に出よう。

砕け散ってもいいではないか。

後悔しないほど惚れた相手に出会えただけでも幸せなのではないだろうか。


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