「何で泣く?……アンナに数学教えてるって言っただけだぞ。どのあたりにミーを泣かせる要因があるの?泣き虫なんだから」
「なんでもない」
ケイタロウが講師を務める進学予備校の18歳の女子生徒に嫉妬して悲しくなったなどと言えるわけがない。
10歳もの年の差がいつまでたっても私を臆病にさせる。
楽しそうに笑う好ましいその彼の顔は若さに溢れていていきいきとしている。
18歳の女子高生ならケイタロウと年齢的にも見た目にもつりあうだろう。
ケイタロウは人差し指で私の涙をぬぐい、力いっぱい抱きしめてくれる。
「また、変なこと考えてるんだろ?俺はどこにも行かないし、こうやって抱きたくなるのも、ミチルだけ」
スポーツで鍛えたがっちりとした身体に包み込まれていると、どろどろとした不安感が嘘のようにかき消され、せつなさが胸いっぱいに広がっていく。
続くはずがないと思っていた。
ケイタロウにとっては、ほんの寄り道程度にすぎず、年上の女との一時的な戯れを楽しんでいるのだから、本気になってはいけないと自分にいいきかせてきた。
それでも、一緒にいることができる間は食事から着替えまでなにからなにまで世話をやきたくなってしまう。
晴れた空が雨になるように、艶やかに咲いた花がやがて枯れていくように、私とケイタロウの恋も終わってしまうのではないだろうか。
ケイタロウの情熱にとかされていく瞬間だけは、年齢差を忘れることができた。
「好きだよ、ミチル……」
呻くように囁かれる砂糖菓子のような甘くとろけそうな魔法の言葉。
淫らな光の中に放り込まれ、熱く激しく夥しく貪られ、理性はばらばらに打ち砕かれていく。
愛しきものの名を呼びあうことのできる至福。
今、この時の幸福だけで十分なのではないだろうか。
★★
「こいつは、首のとこと、そうそう、そっちの反対側の腕の部分にアームをぐいっと差し込めば取れるよ」
アドバイスされてもどうもうまくいかない。
クレーンゲームはお金を投げ捨てるだけの機械なのではないかと思う。
ケイタロウは何をやらせても不器用な私にあきれることもなく、「貸してみな」とくくっと自信たっぷりに笑いながら、100円玉を入れている。
テディベアのようなクマのぬいぐるみをいとも簡単に吊り上げている。
「はい、ミー、プレゼント。出会ってからもうすぐ2年目だね」
恭しく差し出されたそれを私もまた大げさなお礼をして受け取る。
宝物がまたひとつ増えた。
「わあ、あのペンダント、綺麗。クリスタルなのかな。給料の3ヶ月分?なんか古臭いコピーかも」
ガラスの靴を履いたシンデレラに似合いそうなキラキラと艶めいた宝飾品が並んでいる。
「なんかあれ、ゲームのアイテムみたいだな」
「クリスタルが出てくるの?」
「某ファンタジーゲーム。おもしろいよ。ミーが好きな愛と勇気と冒険がつまってる」
「へえ。いいなあ」
「ミーもやってみる?」
ケイタロウが面白いと思う世界なら、どんなことでもやってみたい。
レンタルビデオショップに寄り、車を駐車場に止めた。
今夜は何を借りようかとあれこれとはしゃぎながら見て廻る。
ケイタロウは新作コーナーでもみているのだろうか。
彼から離れた棚に置かれた見覚えのある懐かしい作品にふと足を止めた。
思わず手に取っていた。
「それまた借りるのか?」
背後に誰かの気配を感じ、肩越しに振り向き、相手の顔をみて息を呑んだ。
顔も身体も驚いてしまったのだろう、硬直してしまい、目を瞠ることしかできなかった。
夢かと思った。
5年ほど前に別れたはずの年上の元恋人、ササノが相変わらず高そうなスーツを優雅に着こなし、ニコニコと笑っている。
彼の転勤で遠距離になってしまい、いつのまにか、疎遠となり、さよなら元気でねというメールを交わしあい、きわめてスマートな形で自然消滅となっていた。
「嘘、びっくりした」
「僕のほうもさ、まさか会えるなんてな」
「どうしてここにいるの?」
「戻ってきたんだよ、本社に」
「そうなの」
「あんまり変わってないのな、この店。……それ何回借りたかな」
私はかすかな羞恥を感じ苦笑いになっていた。
この目の前にいる彼の悪戯な手に邪魔をされて、いつのまにか、ベッドに引きずり込まれて、何度借りてもエンディングをみたことがない映画だった。
「ミチル、行くよ」
背後からケイタロウのどこか怒っているような声がかかり、ざわめき始めていた気持ちが静まっていく。
「彼氏?」
ササノに小声で訊かれる。
私は頷き、その映画をあわてて棚に戻した。
ケイタロウは無言のまま、車のエンジンをかける。
滑らかに走り出す車に揺られ、私のマンションまでの短いドライブが終わる。
降りようとしないケイタロウが不機嫌さを隠そうともしないのが、なぜだかすこしだけ嬉しかった。
「あいつ、誰?」
「昔の知り合い」
「昔の恋人なんだろ? 似合ってたな、俺といるより」
「似合う?……そうだね、私とケイタロウじゃ、つりあわないよね。まるで姉と弟だもんね。へたしたら親子にみえるかも」
いつもなら、このあたりで、ケイタロウがうるさいとばかりに唇を奪ってくれるのに、今夜の彼はいらいらしていてひどく意地悪だった。
「そんなこと言ってないだろ。どうして、いつも年齢のことばかりこだわる?」
「ケイタロウにはわからないよ、きっと。毎日鏡をみるたび、あなたのみずみずしさとの違いを思い知るのよ」
「俺だって、同じように時を刻んでるんだよ。俺が80歳になったらミーは90歳、どうってことない、たいしてかわらない。大切にしてるつもりなのに、不安になるのはなぜ?俺の努力がたりないの?」
「……ごめん。理屈じゃないの。怖いのよ、いつかケイちゃんは私に飽きるんだろうって。つらくて、どうしていいのかわからなくなる」
「一緒にいればいるほどつらくなるなら、もう、つきあえないじゃないか。ミーは俺の愛を信じてどーんとかまえてることもできないのか?俺はそんなに頼りないのか。さっきの男みたいに落ち着いた大人にはまだ見えないのか。自信がないのは俺のほうなのかもしれないな。ミーをどうしたら安心させてやれるのか、わからなくなった。俺、今日は帰るよ」
「ケイちゃん……」
「さっきの奴とつきあえばいいじゃないか。それなら、おどおどしたりすることもないんだろう。楽しめるんだろう。気持ちも安定するんだろ」
ケイタロウの声は機械的で乾いていて潤いがなかった。
卑屈になったり、必要以上に年齢のことを気にして、変わらぬ愛をくれるケイタロウの気持ちを受け取ることができなかった。
どうせわたしなんか本気で愛されるわけがないと自己否定することが、実は彼をいつも傷つけていたのかもしれないということに気づいた。
愕然とした。
彼をおもいやるどころか、自分の気持ちだけを優先していたのだ。
★★
会社の帰りにレンタルショップによるたびにササノと何度か遭遇するようになっていた。
"偶然会えるなんてそうないだろ、だから、ミチルがこないかとわざとらしく毎晩のように通っているのだ"と、ササノは陽気に笑う。
「今日もあの彼氏と一緒じゃないのか?」
「……ふられたのかも。メールしても無視されてる」
つい最近、ケイタロウがアンナという子を連れ、私と二人で行ったことのある店で仲良くショッピングしているところを目撃してしまった。
ケイタロウの眩しい笑顔は今はあの子だけに向けられているのだろう。
「そっか。僕のほうにチャンス到来ってわけだな。ミチル、結婚前提でやり直さないか。僕たち嫌いになってわかれたわけじゃないだろ」
店を出ようとする私の腕を強く掴まれ、唇が触れ合うほどの距離で顔を覗き込まれた。
ササノとなら、未来にでてくるであろうケイタロウにふさわしい若く美しい相手に対して、妄想の憎悪や嫉妬心で粉々にされそうな焦燥感を味わうこともないのかもしれない。
ササノとなら、今のように、ほとんど化粧していない顔をさらしても、平気である。
ケイタロウに少しでも若く見られるように、綺麗な女だと思ってもらえるように、できる限りの努力をしていた。
完璧にメイクしてからでないと、落ち着かなかった。
旅行をしても、ケイタロウのぬくもりを名残惜しみながらも、朝は彼よりも早く起きて、身支度を整えた。
ケイタロウはそれをたいそう残念がり、「化粧しなくてもかわいいのに」と優しく笑って、せっかくセットした髪をわざとくずすように乱暴に布団に引きずり込んだりするのだ。
仕事と勉強にあけくれていたケイタロウはさぞかし多忙だったとおもうが、私が寂しくないようにと少しでも時間があると、私に会いにきてくれた。
サングラスと付け髭で、ほら、俺のほうが年上ぽくみえるだろ、とおどけていたケイタロウ。
ケイタロウの初給料日に、"ミチルは高給取りだからな、すでになんでも持ってるものな、何を贈っていいのかわからなくて"と、甘い物が好きな私に、有名なパティシエのいる店の大きな丸いケーキを買ってきてくれた。
”ミチルが欲しいものなんでもかなえてあげられるようなでっかい男になるから。今は頼りないかもしれないけど、ちゃんとついてこいよな”
それはどんな高級なものよりもおいしくて切ない味がした。
ササノとの未来がうまく描けない。
ケイタロウのことばかり考えてしまう。
「……ありがとう。……でも、まだ、彼がここにいるから」
自分の胸に手をあてて、とんとんとたたいてみせた。
「あんな若いやつじゃ、結婚してくれないぞ。いいのか。僕にしとけば。子どもほしいって言ってたじゃないか。ミチルが望むこと、僕ならたいていかなえてあげられると思う」
「そうだね、きっと。ササノさん優しかったものね。なんでもしてくれるんだろうね」
「ああ、もちろんできるかぎりはね」
「でも、結婚して何かを得たいわけじゃない。何かしてあげたい、一緒にいたいってそれだけを今は願っているのかもしれない」
「あいつが羨ましいな。何もしてくれないあいつがいいっていうのか」
ササノははき捨てるようにそう言った。
ササノが乗った右ハンドルのジャガーが私の横をすべるように流れ去っていった。
トボトボと重たい足を引きずりながらマンションに帰る。
エントランス付近に置かれた花壇に植えられた花たちにすこしだけ心和ませる。
その花のように、そこに在るだけで誰かを幸せにする存在に私もなりたい。
鍵を差し込み、まわして、ドアをあけた。
朝出て行ったときと何も変わらない。
ケイタロウがこの部屋にこなくなってからもうずいぶん日がたっている。
どんな呪文を唱えたら、どんな契約を悪魔と交わしたら、ケイタロウに会わせてくれるのだろうか。
寝室に移動し、ワインをあけて、口に含む。
窓から夜空を見上げるとケイタロウと最後に会って以来3度目の満月が私の瞳に映っていた。
彼に贈ったコロンの香りをふとかいだような気がして、安らぎを求めるように、ベッドに寝転がってみた。
テディベアの首にかけられていたのは、あの日店でみた、クリスタル・ガラスでつくられたペンダントであった。
《2nd Anniversary with Love》
きつく閉じた睫を押しやるように涙が溢れ、零れ落ちていく。
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いつかくるかもしれないと別れの予感に怯えながら暮らす
今を精一杯、相手を信じて、身をゆだねて、ゆったりと自然にまかせる
あなたならどちらを選ぶ?
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