『ごめん。結婚とかまったく考えてないよ。今のままで十分楽しいと思うんだけど』
抱きついていた女をやんわりと押しやりながら、男の顔から甘さが消えた。
『……私のこと嫌いなの?』
女は予想もしなかった男の拒絶に合い、傷つき微かに震える。
先ほどまで男に愛されていたはずの自分の体を両腕でぎゅっと抱きしめることしかできない。
『いや、そういうわけじゃないけど、俺みたいなやつは、一人で生きていくほうが向いてると思うんだよな』
男はけだるそうに煙草をくわえ、女が贈ったものとは違うライターで火をつける。
”君と結婚するくらいなら、一人で生きていくほうがましだよ”と台詞を変えたらいいのにと私は、テレビドラマを見ながら、ヒロインに同情し、共感し、ため息をついた。
空っぽになったビールの缶をゴミ箱にシュートした。
どうにでも解釈できる罪深い言葉。
軽々しく何気なく放った言葉がどれだけ人を惑わし、傷つけるのかということを言った本人はわかっていない。
曖昧でどこか優しげな言葉に翻弄され、ずるずるとあきらめられない恋をひきずる。
”俺?今は結婚する気はないかな”
”今は?だったらいつならいい?”
”さあ”
どれくらいで答えは出るのか?
いい子で待っていればいいのだろうかと期待してしまうのだ。
きっちり一年後の、彼の誕生日である今日、もう一度逆プロポーズをしてみた。
”はあ?待っててなんて言った覚えないから。勝手に話つくるなよ、とにかく、結婚とか、お前の親に会うとか無理だから”
容赦のない言葉で私を踏みにじり、それでも、ワインに酔ったのかいつになく乱暴に、泣いて嫌がる私を押し倒す。
苦痛と快楽と絶望が混ざり合った屈辱の行為はなおさら私を惨めな気分にさせた。
妻としては物足りないけれど、欲望を満たすだけの道具としては都合がいいとでもいうのだろうか。
嫌いにもなれない。
自分勝手だとなじることもできない。
あきらめることもできない。
あれほど獰猛だった彼が今は静かに穏やかに気持ちよさそうに眠っている。
時々ぴくぴくっとまぶたを震わせている。
寒いのか丸まって寝ている彼の体に毛布をかけてやる。
確かに、自分の気持ちだけを押し付けても意味はないのであろう。
彼が結婚したくないというのなら、私が選択するしかないのである。
彼と別れて結婚できる人を探すか、結婚はあきらめてずっとこのまま彼と恋人同士でつきあい続けるか、どちらかを選ぶということになる。
彼との関係を見直す時期がきてしまったということである。
出会ってからもう五年になる。
喜びも悲しみもさまざまな感情を共有し、深く親しくなれたと思っていたのは私のほうだけなのだろか。
何年以上つきあったら自動的に入籍できるような法律でもあればいいのにと愚かなことを考えてしまう。
酔ったのかもしれないと苦笑いをして、彼の真似をして吸ったこともない煙草をくわえてみた。
これ以上私に何ができるのだろうか。
自分の気持ちを彼に伝え、できるだけのことはやったのだと思う。
あとは彼の気持ちを受け止めよう。
・
・
・
ユキが読んでいた本をパタンと閉じて、「がんばって、ひでくん!」と、布団の上で悪戦苦闘している子どもにエールを送っている。
「それにしても、このヒロインたち、えらいなあ。けなげだなあ。私には無理だわ。こんないい女にはなれん。好きならどんな手をつかってでも、堕としちゃうな」
「堕とされちまったもんな」
俺はベビーベッドに向かってユキに聞こえないくらいの小さな声でつぶやいた。
俺にとって、女とは快楽をもたらしてくれるかわいい生き物ではあるが、厄介で面倒な存在でもあった。
結婚にはまったく興味がなかったこの俺が、親になっている。
「ちょっと、パパみた?今のひでくん」
「ああ」
寝返りを成功させた生後五ヶ月のわが息子を抱き上げて、楽しそうに笑うユキをみていたら、この上もなく幸せだと思った。
小説の中のヒロインたちのように、美人でも垢抜けているわけでもないが、なぜかユキのまわりには男も女も集まっていた。
突然コアラがみたいと外国に遊びに行ったり、朝から煮込んだシチューを仲間のみんなにふるまったり、何をするか予測不可能なところがおもしろい。
宮沢賢治ではないが、’慾はなく決して怒らずいつも静かに笑っている’女でもあった。
誰かにほめられたいとか、そういう計算はユキにはないのである。
自分のために、自分を尊重し、自然に身をまかせてありのまま、あるがままの自分として生きているような女だった。
ユキと一緒にいると楽しいと思った。
だから、これからも、君と共に。
→
相手といることをまずは楽しもう。
相手の顔色をうかがって、こんなことを言ったら嫌われる、結婚できないかもしれないと不安になってしまう。
言いたいことも言えずに我慢することが、はたしてよい恋愛なのかどうか。
一緒にいると癒される、一緒にいると楽しい、もっと相手を知りたい、もっと自分を知ってもらいたい。
恋愛はつらいものではなく、楽しく、自分が成長できる尊いものなのではないだろうか。
本館です。Isis Urana's fortune land