1970年代のアメリカン・ロックが俺とアイリを包み込む。

30年以上も前の昔の曲なのに決して色褪せない。

ハスキーボイスと巧みなギターの深く印象的な音が絡み合う。


Am、E7、G、D。

F、C、D、E7、E、F#、G


「支配人、ワインを持ってきてくれないか」

「そのようなスピリットは1969年以降一切ありませんわ、お客さま」


俺は微かに笑って、アイリの耳朶に唇を這わせる。

アイリの体臭なのか香水なのだろうか、独特な甘い香りが漂う。


これがもしかするとコリタス草なるものの香りかもしれないと俺は苦笑していた。


この官能的な匂いは癖になる、まるで、ドラッグのようだった。


「ピンクのシャンペンならあるんだろ?」

俺とアイリは歌詞をいじって遊んでいた。


砂漠のハイウエイをドライブ中のこの曲の主人公が休息を求めて立ち寄ったホテルの名は、カリフォルニア。


くすぐったいのか、逃げようとするアイリの頬を両手で優しく押さえて、口づけた。


アイリは照れて「もう何度目なんだろ?カズイとのキス」

「さあ?何回目かな。最初も二番目も三番目も俺となんだろ?だったら、これからも俺とだけな」


俺はずるくて汚い。

できもしないくせに、嘘を軽々しく口にする。


「うん、カズイ専用、だから、ずっと、ここにいて」

水分をたくさん溜め込んだような大きな黒い瞳が俺を捉え、はなそうとしない。



リストラされ、そのせいか、将来が不安になったと言っては嘆くサチコの顔をみていたら自己嫌悪に陥り、なにもかも嫌になり、マンションを飛び出していた。


気がついたら、空の上を飛んでいた。


旅の途中で台風に呪われ、飛行機が欠航となった。


空港で困り果てていたところを、ターミナルビルで働くアイリに拾われ、意気投合して現在に至る。


一人暮らしの彼女の家に転がり込んだ。


嵐の夜が過ぎたら、アイリとはあとくされもなく、別れるはずだった。


しかし、新婚のまねごとのような暮らしが続いてもう二週間にもなる。


もっといじめて、意地悪をして、俺だけを求め、俺なしではいられなくなるようにしてみたい。


理性を奪い取り、声がかれるほど啼かせてみたいと思えた女であった。


男に慣れていない様子がいい。


いっそ、光源氏みたいに、なにもかも自分好みの女にしてしまおうかと、本気で思ってしまうほどだった。


恥ずかしそうに身をよじる初々しい態度が妙にそそられる。


無意識な仕草がストレートに俺を煽ってくるのである。


控えめな途切れ途切れの甘く切ない声に、白く滑らかで水をはじくような肌に、溺れ、この楽園のような暮らしから離れることができなくなっていた。


★★

行ってらっしゃいと、出勤するアイリをパジャマ姿のまま玄関まで見送る。


「まるでヒモだな」と声に出して言ってみた。


女を働かせ、女が作ったものを食べ、昼寝をするくらいでなにをするわけでもなく、ただ、暇をもてあましているだけの毎日であった。


なんの生産性もない。

今の自分は世の中で何一つ役にたっていない人間ということになる。


見慣れぬ地方紙の求人欄を何気なく眺めていた。


「このままでいいわけないよな。枯れるにはいくらなんでもまだ早すぎる」、再び、口に出していた。


そういえば、最近は、アイリ以外の人間とまともに会話もしていないと思った。


ずっと切っていた携帯の電源を入れて、新着メールがあるかどうか問い合わせてみた。


何通ものメール、着信履歴にずらりと並んでいた名前は、すべて、サチコからのものであった。


アイリが好きで集めているというアンティークの時計を見ると、昼である。


『カズイなの?いまどこにいるの?なんで電話に出ないのよ』


いつもと同じ強気な口調に、さらに、かなりむっとしたような激しいものが加わっているのは気のせいだろうか。


目の前にいたら平手打ちでも飛んできそうな雰囲気である。


何の連絡もしなかったのだから当然の応対であるが、サチコは男に守ってもらうような女ではないと改めて思う。


結婚したら専業主婦になると言っているが、この仕事好きの女には無理な選択なのではないだろうか。


『Such a lovely place』


『はあ?それ何?テーマパークみたいなところ?仕事もしないで遊んでるってこと?』


『まあ、そんな感じ』


『それでいつ帰ってくるつもり?無職の男とつきあい続けるの無理だから、私。……あのさ、私の先輩の会社なんだけど、求人募集してるんだって、カズイのこと話したら、興味あるって。面接受けてみない?』


『……そうだな。考えてみるよ』


アイリとは違う、きびきびとしたサチコの口調に、現実に引き戻されたような気分になって、いつのまにか、薄ら笑いを引っ込めていた。

唇をかみしめる。


どんなに快適な日々であったとしても、そろそろピリオドを打つべきである。


仕事もしないで、アイリに甘えてばかりというのも男として情けない。


出口を求めて、ここから、出て行かなければならないのである。



アイリが買ってくれた服などが多少増えたものの、もともと少なめだったせいか、荷物整理はそれほど手間がかからない。


旅立ちの支度はすぐに終わってしまった。


どこもかしこもアイリの香りでいっぱいの部屋から、俺のものだけが消えていた。


アイリが俺のために買ってくれた、歯ブラシ、マグカップ、ご飯茶碗、箸などは、俺がここを出て行った後はすぐにでも捨てられてしまうのだろうか。


世話になったというのに何一つ返そうともせず、挨拶もせずに黙って出て行くような不誠実な男のことなど、覚えておく必要もないのであろうが、少しだけ寂しさを感じた。


数週間前までは存在していなかったものなのだから、すぐに、違和感はなくなるのであろう。




ガチャリとドアが開き、長ネギがのぞいている食材の入ったスーパーの袋を提げているアイリがいた。


パジャマ姿ではない俺と足元に置いた旅行かばんをアイリは交互に見て、持っていた袋をごとっと床に滑り落とした。


卵のぐちゃっと割れるような音がした。


「何してるの?今夜は、カズイの好きなすき焼きだよ」


アイリは無理やり作った笑顔でそれだけ言うと、力がぬけたように、その場にしゃがみこんでしまった。


「ごめん、アイリ。俺、もう、ここにはいられない。東京に帰って仕事も探さないと」


「好きだって言ってくれたじゃない。ずっとここにいてくれるって。嘘だったの?」


「好きなのは本当、……でも、ごめん。できもしない約束して」


「もういいよ。……カズイは私を好きで愛してくれたわけじゃなかったのよ、きっと。疲れてたから、癒してくれるものが欲しかった。ここでのんびりすることが好きだっただけでしょ。だから、私じゃなくても、快適な空間をカズイに与えてくれる人なら、誰でもよかったのかもしれないよ」


”それは違う、アイリだから癒されたのだ”と、反論しようとおもったが、こうして、出て行こうとしているのは事実である。


どんな美辞麗句を並べようと、俺は裏切り者であり、アイリを簡単に捨てていくような冷たい男であることには変わりないのである。


何を言ってもいいわけにすぎないであろう。


それでも俺はけなげに笑っているアイリを抱きしめたくて、自分のほうに引き寄せた。


くらくらと酔ってしまいそうだとこんなときにまで俺はアイリの香りに惑わされる。


「ごめんな、本当に俺、いい加減なやつだな……もう無理に笑わなくていいから」


「そうだね。古い唄にもあるよね。……別れは涙で飾るもので、笑えばなおさらみじめになっちゃうって……」


アイリは声を出さずに俺の服の裾をきつくつかんでいつまでも泣いていた。



どうしても空港まで送りたいからと、アイリは俺を車の助手席に乗せ、ハンドルを握る。


「人生のほんのひとかけらなのかもしれないけれど、すごく短い時間だったけど、私はカズイと、二人で、確かに、生きてたんだと思うよ。もう他の人好きになれないくらい、カズイのこと愛した。だから、……ありがとう」


みたこともないような美しい笑顔であった。


眩しい空にもまけないほどの光をまとった天使のようなアイリが、確かに俺の世界の中に、いた。



★★


羽田空港に着くと、俺は、すぐにサチコに電話をかけた。


『……面接のことなんだけど、申し訳ないけれど、断ってくれないか?……それと、俺、こっちでいろいろ整理したら、引っ越しするつもりだから。……ああ、そう、そのテーマパークにな。……俺のこと、捨ててくれていいぞ』


サチコは電話口で”馬鹿にしてる”とどなっていたが、俺は通話を終了させていた。


サチコなら一人で生きていけるだろうし、それにすぐにでも、幸せにしてくれる彼氏ができるだろう。


俺にいつまでも関わって、サチコの貴重な時間を無駄にしてしまうのは申し訳ないと心からそう思った。


最後まで自分勝手な男であると自嘲した。




俺はズボンのポケットに入れておいた、求人票の切れ端を取り出し、長距離の電話をかけた。


どこかで、ツイン・ギター・リフが味わい深いあの名曲が聞こえたような気がした。



アイリは俺を待っててくれるだろうか。




運命の出会いなら、もう、手放してはいけない。


チャンスを逃がさないように、必死で捕まえに行こう。


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