土曜日の休日だというのに仕事だというシンのために、少々面倒ではあるが衿の先端の小さいボタンをはずして、ぐりぐりっと皺をのばすようにして、また、ボタンを留めて、袖の部分も念入りにアイロンをかけ、彼が自分で買ってきたお気に入りのボタンダウンの小粋なシャツを丁寧に仕上げ、シンに手渡した。


「スーツ着るわけじゃないから、こんなに気合をいれなくてもいいよ」

ジーンズをはいたシンがシャツを着込みながら笑っている。


玄関に置かれた大きな鏡に自分の姿を映し、最終チェックをしている。


私がピカピカに磨いておいた靴をはき、彼が先日セールだとかで買ってきたばかりのバックを肩にかけ、さわやかなフレグランスの香りと笑顔を残して出勤してしまうと、こどものいない私はもうやることがない。


某綺麗好きの女優さんのように、自分の掃除グッズなるものを考案し、すこしでもほこりがあれば、ささっと拭き、シンがすこしでも快適に暮らせるように気配りするのである。


すみずみまで掃除機をかけたところで、豪邸ではないのだから、そう時間がかかることもない。


朝ごはんの片付けも二人分の食器程度である。
これまたすぐに終わってしまう。


朝のニュースも六時七時八時とまるでループしてるかのように同じことを流しているようだ。芸能人の誰と誰が別れたとかくっついたとか、他に話題はないのかと思う。


テレビを消し、霧吹きでアジアンタムの葉や茎に水をかけてやる。


今日も空は雨の存在などとっくに忘れてしまったらしい。


布団を干そうかと思い、寝室に入る。


青いシーツはシンと出会ったあの海の色みたいに鮮やかだったけれど、今の私の目にはそれが色あせてみえる。


乱暴にシーツをはがし、ぐるぐるとまるめて、乱暴に床に放り投げていた。


”ごめん。仕事で疲れてるんだ”

もう何度もこの言葉にうちのめされる。


背中を向けるシンを見て、深くため息をついてしまうのである。

こんなにも近くに彼がいるのに、指先すら触れることができない。


悲しくて寂しくて、そして怒りもあった。

拒絶されたという屈辱感がある。


自分からは怖くてもう誘うことはできなくなっていた。


一年目の結婚記念日の夜にさえ、私を一人残しぐっすりと眠ってしまった夫の背中をみながら、夜中に一睡もできずに声にならない涙を流していた。


仕事、仕事、仕事、私のために寝る時間も削って働いてくれるシンに感謝しないといけないというのに、なんのために一緒に暮らしているのかと空虚感でいっぱいになってしまう私は妻として失格なのだろうか。




”コハル、もしかして、初めてだったのか?”

頷く私に、シンはあの時どんな顔をしていたのだろうか。


困惑した表情が浮かんでいるのかと思うと、怖くて、目をぎゅっとつぶったままでいた。


隣に好きな人がいるという初めての記念すべき朝を迎えたというのに、ぎくしゃくとしていて、ぎこちなかった。


なかったことにしたいのか、無口になってしまったシンの顔をただみつめることしかできなかった。


それでも、シンのそばにずっといたいと願い続けた私の祈りが通じたのか、半年過ぎても一年過ぎても、おずおずとさしのべた私の手を彼はふりはらうことはなかった。


”わたしでいいの?”

”いいよ”

”結婚してくれるの?”

”ああ”


その晩家に帰ると、すぐに、母に抱きつき、おかあさん産んでくれてありがとうと何度も言って、本当にこどものようにはしゃいでいた。

あのころの私は本当に幸せだったのだと思う。


★★

”エ……マ”



つぶやかれた寝言。

無意識の間にも、シンが求める女性は私ではないのであるという事実にうちのめされた。


シンとエマが再会したのは私たちの結婚式の時であると思う。

それまで意図的にエマには、シンとつきあっていることを隠していた。


シンは挙式後、私に触れなくなった。

抱きついても抱きしめ返すことはしてくれなかった。


”いいわね、優しそうなご主人で”と言われるほどに私たちはなかよくやっていた。


家事もよく手伝ってくれるし、特に喧嘩をすることもなく、凪いだ海のような穏やかな日々の暮らしであった。



洗濯機の中に洗剤をはかりもせずにどさどさと入れる。

何かが出てきそうなぶくぶくと浮かんだ泡を手のひらで掬い取り、小さなボタンをはずした襟の裏の部分に強くこすりつけ、生地が傷むことも気にせず、ごしごしとこすりあわせるように汚れを落とした。


きっと今の私の姿は幽鬼のようになっているに違いない。


シンには決して見せたことのないもう一人の私である。


綺麗なブルーのボタンダウンのシャツはシンのお気に入りで、休日出勤の日には必ずこれを着ていく。


アイロンのかかったシャツはほかにいくらでもあったのに、なぜだかこればかり、選んでいた。


エマの好きな色はブルーである。

彼女から贈られたものなのかもしれない。

普段は使わないあのバックもエマが選んだものなのであろう。


そうだったのかと、わかりやすくて涙が出る。


見つからないように、いや、みせつけるように、襟の裏には真紅の口紅のようなものが付着していた。


★★


エメラルドグリーンのビキニの水着で海岸にいる男たちの視線を浴び続けていたエマが子供っぽいワンピースの水着でイチゴのフラッペを食べていた私に笑いかけた。


”コハルもさ、赤とかピンクとかの口紅つけてみれば?きっと似合うよ”

”そんな鮮やかなの、エマにしか似合わないよ”


エマはいつでも優しく、私を見守ってくれていたではないか。

エマを裏切ったのは私のほうなのである。


”どうしたの?コハル。さっきシン君と何か話してた?”


海の家の売店で食べ物を買ってきてくれたエマは波と戯れているシンを楽しげにみていた。


好奇心旺盛な黒く大きな綺麗な瞳をキラキラと輝かせていた。


”ううん、やどかりがいたからかわいいねとか、そんな感じ”


私は大嘘つきだ。


”そうなんだ……で、やどかり?どこどこ”




ホテルの近くにあるビーチに遊びにいくと、エマの目立つ容姿のせいか、すぐに、シンとリョウイチという私たちと同年代らしい二人組みの男に声をかけられた。


エマも私もやっと取れた夏休みに浮かれていたのだろう。

仕事を忘れてつかのまのバカンスに酔いしれたかった。


シンとリョウイチは気さくであり、優しく親切で紳士であったので、特に警戒することなく、すぐに自然と友達になっていった。



”あのさ、エマちゃんって彼氏いるの?”


そうだ、あの時、シンはそう私に訊いたのだ。


ヤドカリなどはどこにもいなかったではないか。


”もちろん、相思相愛の彼氏がいるよ。結婚するんじゃないかな”


シンは、太陽の眩しさのせいにしてしまったのか、思い切り顔を歪めて、残念そうな様子を隠そうともせずに、大きく息を吐いた。


”そっか。そうだよな。いるよな……”


エマは男友達はいるようだったけれど、恋人としてつきあっているような人は、いなかったのだ。


外見で誤解されやすいが、エマは恋愛経験はあまりなく、好きになると、それは一途ですぐに顔を赤らめてしまうほど純情な人であった。


私はシンにひとめぼれしていたのである。


生まれて初めて欲しくてたまらないと思う人に出会えたとそう思ったのである。


そしておそらく、エマも彼に惹かれていた。


シンを取られたくないために、エマに訊けばすぐにばれるような醜い嘘をついたのである。


★★


シャツの染みはインクのように滲んで広がっていくだけだった。


こうやって布が擦り切れるほどこすったところでこのルージュがはがれることはないのであろう。


シンはエマを好きで、エマも彼が好き。


それは昔から出会った時から変わらない。


二人の純愛を捻じ曲げ、複雑にして、ぐちゃぐちゃに壊したのはこの私である。


こんなに罪深き私にも、いつか、愛する人の幸せを願えるようになる日がくるのであろうか。



嘘をついてでも貫き通した愛。


手に入れたものは何だったのだろうか。


彼の心はどこにある?



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