「嫌なのか?」

「ち、ちがう」


突き飛ばされるように壁に押し付けられ、イクトの顔が近づいて、そのまま唇が強引に重なる。


いつもの優しくて包み込んでくれるような穏やかさは消えていた。


イクトの甘い吐息が喉に、首筋に、開けられた胸元に。


嬉しいはずのこの行為に苛立つ。

ざらつき、潤わない、乾ききった私の身体をイクトはもてあます。


「その気になれない?なにいらいらしてる」

「ごめん」

私は彼の胸に両手をあててゆっくりと離れた。


イクトは困惑気味に眉を寄せ、乱れた髪をさっとかきあげ、小さくため息をつき、テーブルの上に無造作に置かれた引っ越しを知らせるハガキを投げてよこした。


確かにイクトの部屋に上がるなり、見つけてしまったのである。

懐かしいわけでもない、むしろ神経を逆なでするような男の名前を。


「それみたんだろ?ヨシヤが転勤で日本に戻ってきたらしいな」


ヨシヤはイクトの友人である。


「…そうみたいだね」

「気になるんだろ?」

「少しはね」

「少しって顔じゃないな」


私はそれには答えずに、立ち尽くしたまま、足元に落ちたハガキをみつめていた。


ヨシヤは苦笑し、疲れたようにソファの背もたれにぐったりと身体をあずけ、再び息を吐き出す。


「また、ふりだしに戻るってやつか。くどき落として手に入れても、元彼のあいつが出てきたら俺たちは自動的に終了ってことか」


「違うよ。そんなんじゃない。ヨシヤにはふられて、とっくに終わってる」

忘れたはずの思い出にすがりついている自分に嫌悪を感じ、自分にいいきかせるように首を横に振り続けた。


★★

「よお。元気だったか?」


カウンターですでにビールを飲んでいた私の横に軽快な動作で座る。

声を聞いてるだけで、あの頃が瞬時に蘇る。


ヨシヤにすべてを侵食され淫らな熱に浮かされるように自分の身体がくねくねと舞い乱れていた残像がめまいのように私を襲う。


すぐに言葉を返すことができない。


ヨシヤのように軽く手をあげてにっこりするだけでいいのに、顔を上げて、五年ぶりにみる彼を見つめることで精一杯だった。


運ばれてきたビールで乾杯し、一口飲んだところで、再び、沈黙が訪れる。


無遠慮な視線を浴びる。


クスッと笑って「ふーん、なんか、雰囲気変わったな。女って感じになってる。イクトにしこまれた?」


「…なんか下品」


「むかしからそうだろ?俺。俺は上品なイクトとは違うから」


唇にヨシヤの吐息を感じるほど接近してきた。


この声が好きだった。

この笑顔が私を狂おしいほど惑わせた。


目をそらそうとすると、無理やり顎を掴まれ、動かないように固定された。


「な…にするの」

「どうして、連絡なんてしてきた?イクトとうまくやってるんだろ?」


私はこくりと頷く。


ヨシヤはほっとしたように目元を弛ませて穏やかな笑顔を私に向け、掴んでいた手を離した。


「もう一度、ふられにきたの。ちゃんと決着つけて欲しくて」

「サユミ?」


「ヨシヤこそ、あの人となかよくやってるの?」

「ああ、もちろん」


「…私がもし、あの時、病気の母さんおいて、ロンドンについていくって言ってたら、何か変わってた?」

声が震えていた。


ヨシヤは残りのビールをぐいっと飲みほした。

コースターが水滴で滲んでいる。


「かわらねーよ。勝手に推測するなよ。都合よく、過去を修正するなって。おれとサユミの愛がゆるぎないものだったにもかかわらず、お前がついてこれないから、寂しくて彼女を選んだとかそういう甘ったるい理由なんてあるわけないだろ。俺は彼女に運命感じたわけ、それだけのありふれた話なんだよ」


「…うん…そうだった…よね」


「だから、すぐに心変わりするような男なんて最低なんだから、いい加減、俺のことなんて忘れちまいな」


ヨシヤは私の髪を撫でながら、「お母さん、元気になったんだろ」と訊いてくる。


耐え切れず瞳から零れ落ちた涙を手の甲でぬぐった。


ふいに、ぎゅっと抱き寄せられ、「俺だって、どうしようもないほどお前に惚れてた」


胸元に顔を押し付けるようにされ、「いい思い出とやらが残って、美化されてるだけだ。お前の側にいるのは、もう、俺じゃない。俺はもう何もしてやれない。イクトなら、お前のこと生涯大切にしてくれると思うぜ…バイバイ、サユミ」


ヨシヤの懐かしい香りとぬくもりが消えて、完全に彼の気配が感じられなくなっても、カウンター席に座り、声を殺して泣いていた。


ヨシヤ、ヨシヤ、ヨシヤ…。

何度も何度も心の中で彼の名を叫び続けた。



サヨナラ、ヨシヤ。



二人だけの遠い記憶はいつか風化されるのだろうか。


過去に留まり続けるのか?

未来に向かって走り続けるのか?



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