”まいったな、本気なわけないでしょ。僕、来月から海外勤務なんだよね。君と遊んでいる暇はもうないかな。あの晩は君が僕を欲しがってるように見えたから抱いてあげただけ”


男は、美しいデコルテを強調するような洒落た襟のついた服を身にまとった女性を伴い、立ち尽くす私にもう用はないとばかりに、バーからきどった足取りで去っていった。


”来週も行くかもしれないよ"という男の言葉は嘘ではなかったけれど、私に会うためではなかったのだ。


会社の近くにある仕事帰りによく行くこの店 appassionato でこの男と出会った。


それは運命なのかもしれないと思うほど、男の容姿は私の思い描く理想的なパーツで埋め尽くされていた。


乙女のように胸をときめかせ、いつになくはしゃぎ、気がつけば、どこかの薄暗いホテルの一室で、酒と男の吐息と甘い戯れに溺れたのだ。


カウンターに座り、震える両手でグラスを包みこみ、一気にアルコールをのどに流し込んだ。


遊ばれて捨てられた?そう考えるのはあまりにもお子様である。

同意の上でお互い一晩だけ楽しんだ、そうだ、これでいい。


ロマンチックな妄想はできるのだが、燃え上がるような恋はあまり経験がなかった。
人を好きになるのに時間がかかる。


ようやく相手を好きだと自覚したころには、それまでのテンションの低い私にあきれてしまうのか、むこうはとっくにさめているというパターンなのである。


タイミングが合わない。


だから今回は人の気持ちを読むのが下手で恋愛に疎いこの私にしては上出来だったということにでもしておこうか。


ばかばかしい。

どう言い換えても彼にとってはただの遊びだったということだ。


苦笑し、こめかみに指をあて、乱れた前髪をかきあげ、ため息をついた。


男の服装に合わせたつもりのフェミニンすぎるこの黒いワンピースが着慣れなくて、よけいに惨めな気持ちになった。


★★

翌日月曜日のプレゼンテーションは厳しい質問を浴び続け、長く勤務しているというのに日ごろの経験はまったくいかされず、詰めが甘いといわれ、さんざんな結果となった。


「シャベル貸して」

「穴でも掘るのか」

同僚があきれたように笑う。

「…入りたい」


会議室を出て、オフィスに通じる階段にピンストライプのパンツスーツ姿で座り込んだ。


恋愛もまともにできない、仕事もいますぐに消えてなくなりたいくらいの失態をやらかしてしまった。


「ワカミヤらしくないな。落ち込んでる暇があるならやり直せよ」

「そうだね。仕事は人と違って裏切らないよね。やればやるほど自分のためにもなるよね」


「…イズミ?何かあったのか?」


マリッジリングが光る指先で私の肩に触れようとしたがためらい、宙で止めた。


「な、なんにもない。それにもうそんなふうに名前で呼ばないで」

「ごめん」


目の前で戸惑い眉を寄せている同僚が私ではない女性を人生の伴侶にしたのはもうずいぶん前のことである。


「こっちこそ、ごめんね。…がんばる、こんどこそ完璧なのつくるから」


同僚は私の大好きだった笑顔を浮かべて頷いた。


★★

耳元で囁かれた男の甘ったるい声を忘れた頃に、再び週末になるとappassionatoに通うようになっていた。


忙しそうであるがそれでも優雅に立ち回るバーテンダーの魔法のような鮮やかな手つきに魅入られてしまう。


時々カウンターごしにぼそぼそとつぶやきあうような会話も楽しい。


「彼氏もいないし、水曜日の習い事の英会話教室にいくくらいしか予定がないのってどうかしてる」

「自分磨きって奴ですか?」

「磨きすぎて傷だらけ。たわしでごしごししてるだけなのかも」



何かの修行のように静かに酒を口に含む。


けだるい音楽がゆっくりと流れ、この店の名にふさわしいひどく熱情的な空間が気に入っていた。


ここに来ると癒されるのである。


すべてを受け入れてくれ、素直な自分になれるような気がしてくるから、不思議である。


「今日の私の服、オダギリさんとかぶってない?黒のベストとパンツに、白シャツにネクタイ」

「…ワカミヤさんはマニッシュなのも似合いますね」


「恋愛下手だし、恋のかけひきとか苦手だし。せめて仕事だけはがんばろうとか、男の人にまけないぞとか、ものすごくつっぱって生きてたらいつのまにか服もかわいくない奴ばっかりになってるの」


酔ったのだろうか。

いくらなじみの店だからといって、一体何を語っているのだろうか。


バーテンダー、オダギリは柔らかく私をみつめて、微かに笑った。


「そんなことないですよ、十分、魅力的です」


からかわれているのだろうけれど、このオダギリにかまわれるのは嫌ではなかった。


心地のよさが肌をくすぐるようだった。


★★

水曜日、社を出て、駅前の英会話教室の入ってるビルの前で強い視線を感じた。


「オダギリさん…あれっ、すごい偶然。確か、先週も会ったような。おでかけ?」


彼はいつものモノトーンではない、シックでおしゃれな服を着こなしている。

オールバックにしていた髪を下げているので、印象が違って見える。


「俺は店が休みなので、買い物なんかしてます。今日もlessonですか?」


「わあ、いい発音」


「これでもいちおう留学してましたから」


「本当に?今度教えてもらおうかな。ずうずうしいかな」


「いいですよ、俺でよければ」


「嬉しい。…じゃあ、私そろそろ上にある教室に行ってきますね」


行ってらっしゃいと手をふられ、オダギリのにこにこした笑顔に見送られて入り口に向かう。


「あの、ワカミヤさん」

すぐに呼び止められた。


「何?」


「偶然なんかじゃないんだ。わざと待ち伏せしてた。俺、水曜日はあいてるから」


「…私だってあいてます」

驚きと嬉しさで早口になってしまうし、どくどくと鳴り出した心臓も落ち着かない。


「ゆっくりでいいから、少しずつでいいから、俺についてきてくれないか」


「…はい」

それだけ言うのが精一杯だった。


カッと顔が熱くなるのを感じた。


これは友情なのか恋なのだろうか。


もしオダギリがいなくなってしまったら、おそらくこの心地よさは苦痛に変わってしまうことだろう。



気になる人がそばにいない時、苦痛を感じるようになる。

それは恋におちたということ。


poco a poco 少しずつでいいではないか。

二人の距離を縮めていこう。


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