タカミチはもう来ないのだろう。
そんなことは、一時間も二時間も前にわかっていたのかもしれないと思った。
過去に通り過ぎていった男たちと彼はやはり同じなのだろうか。
思い出をつくりたいと甘い言葉で旅行に誘われ、僕らが出会ったのは運命かもしれないと情熱的な言葉を囁いたはずなのに、それっきり何の連絡もしてこない男もいた。
ずっと二人で一緒にいようなと言ってくれた男は、リツコが働いて貯めていた金をすべてギャンブルにつぎこんでしまい、あげくのはては着信拒否という卑怯な手で逃げていった。
わけもわからず心配し、飽きられて捨てられたのだという発想は思い浮かばず、ひたすら連絡を待ち続けていたおろかな日々。
”俺の全てをお前に託すから、リツコの全部も俺にくれ”とたくましい腕で抱きしめてくれた彼の優しさは本物であるのだと、タカミチだけは他の男と違うのだと信じていたかった。
痛くて、胸が苦しくて、張り裂けそうだと、リツコは顔を歪ませた。
幸せになりたい、幸せにしてあげたい、愛したい、好きな人に愛されたい。
そう願うことはそれほど贅沢なことなのだろうか。
リツコは通いなれた店の広いテーブルにうつぶせになった。
待ち合わせの時間はとっくに過ぎている。
リツコは男たちに置き去りにされた恐怖から携帯電話を持たなくなった。
電話があると連絡を期待してしまうのだ。
待ち続けて一日が終わっていく惨めな気分を味わうのはもう嫌だった。
ならば最初から持たないほうがいい。
どれだけそうしていたのだろうか。
「お客さん、もうしわけございませんが、まもなく閉店のお時間となりますが・・・」
事務的ではない、丁寧で優しい声に、とろとろと顔を上げる。
サロンエプロンをまいたウエイターが、心配そうにリツコを見ている。
「ごめんなさい。・・・コーヒーだけでこんなに長居しちゃって。すぐに帰ります」
会計をしていると、さきほどのウエイターが、「あの、お腹すいてませんか。よかったらこれどうぞ。残り物ですけど。もちろんお代はいりません」と、サンドイッチを袋に入れて、にこやかにリツコに渡してくれる。
冷え切った心にほんのりとあたたかいものが流れていく。
リツコは深くお辞儀をし、小さな笑みを浮かべて、外に出た。
★★
タカミチは、路上で強引にOL風の真面目そうな女の腕を引っ張っている黒のスーツ姿の男に、声をかけていた
「離してやったらどうですか、その人嫌がってますよ、先輩。・・・リツコもそんなふうにあなたに騙された・・・」
タカミチは曲げた膝をばねのようにして伸び上がると同時に腕を下から上へ突き上げ、男の顔を殴っていた。
男も負けてはいない。
手の甲でバァンとタカミチの顔面を平手打ちにしたのだ。
容赦のない一撃を食らい、衝撃でささえきれずに地面に倒れそうになる。
タカミチの頬はあざができ、口の端も切れたようである。
ぐしゃぐしゃになった髪を乱暴にかきあげ、男が忌々しそうにタカミチを冷たい眼で見おろす。
「弱いくせにかみつくなよ、馬鹿が。リツコは稼ぎだけはあるぜ、真面目すぎてつまんない女だけどな。お前もあいつに貢いでもらえばいいんだよ。本気になってどうすんだ?」
男はタカミチに吐き捨てるようにそう言うと足早に去っていった。
タカミチは放心したようにその場に座りこんでしまった。
起き上がり、怒りをこめてその背中を見ていたが、時計を見て、あわてて駆け出した。
ただでさえ残業で遅くなってしまったというのに、ナンパしている先輩に腹をたて、女性がリツコの姿と重なり、我慢できなくなってしまった。
いてもたってもいられず、むかつくままに喧嘩まで売ってしまった。
リツコは一生俺が守ってやると、タカミチは思っているのである。
★★
重いリツコの足取りが孤独な夜のアスファルトを刻む。
タカミチのために精一杯着飾ってきたが、スカートには待ちくたびれて皺がより、泣きたくなってくる。
温かいぬくもりというエスコートなしで歩くには適さないハイヒールが今は邪魔であると、リツコは月のみえない空を呪う。
「・・・ひとりぼっち・・・」
「誰がひとりだって?」
待ちわびていた声が天空から降ってきたかのように思えた。
街灯に照らされたタカミチは穏やかに笑っていた。
「あ・・あなた・・・どうしたの、その顔?怪我してるの?」
「野暮用・・・おいで、リツコ」
タカミチはリツコの頭を引き寄せて、愛しそうに抱き寄せる。
「タカ・・もう二度と会えないのかと思った・・怖かった」
「待たせてごめん」
髪を撫でてくれる優しい指先を感じ、リツコは胸が熱くなり高鳴っていくのを感じた。
包み込むように抱きしめられて、リツコの瞳から一粒の涙が零れ落ちた。
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信じて裏切られても、めげることなく、自分自身を磨き上げていけば、また誰かを愛する感性が育つ。
そして、誰かに愛される。